第8話 お父さんが悪いんだね
火曜の夜、結菜が古い写真を食卓へ広げた。
「式場から、写真を使うなら早めに選んでおいてって言われた。まだ使うかは分からないけど」
紗枝は洗い終えた手を拭き、向かいに座った。大きいアルバムではなく、娘が自分で残していた数冊だった。
小学校の遠足、部活のない放課後、友達の家の猫。台紙に貼った写真には、家族以外のものも多かった。
「これ、私が撮ったんだよね」
結菜が指した写真には、頭の切れた紗枝が写っていた。観覧車の前で、片手に鞄を持っている。
「お母さん、もうちょっと下がってって言えばよかったのに」
「あのカメラ、画面が見にくかったんだよ」
娘が笑ったので、紗枝も笑った。久しぶりに一緒に昔を見ている。そのことにほっとしかけた時、次のページで手が止まった。
紗枝と康文の間に、結菜が立っていた。
別々に暮らす前の、最後の年に撮った写真だった。娘の服は覚えている。自分の表情も康文の服装も、長いこと見ないようにしていた。
「これ、私が小さい時に自分で入れたのかな。覚えてない」
「そうかもしれないね」
紗枝は写真の端だけを見た。
「お父さんが持ってる写真も、違うのがあるかもしれないね」
結菜の言葉に、紗枝はうなずいた。
「昔、何枚か渡したから」
「じゃあ、今度聞いてみる」
娘は、写真の中の康文の服を指した。
「この上着、何となく覚えてる。ポケットが大きくて、私の小さい物を預かってくれた」
「そうだったね」
紗枝にも記憶があった。結菜が拾った石を二つ、康文の上着から出して洗濯かごへ置いた。あとで娘が慌てて探したので、捨てていないと見せた。
「お母さんの上着は、浅いポケットだったもんね」
結菜はそれだけ言い、写真から手を離した。
写真があるのだから、父親を消したわけではない。紗枝はまた、そう考えそうになった。
離婚後に最初の部屋へ移った時、結菜の持ち物は低い棚にまとめた。娘が一人でも取れるようにした棚だった。その下の引き出しに、写真も入れた。
写真をしまった低い引き出しを思い浮かべると、あの部屋の夕方まで戻ってきた。
引っ越してすぐの夕方、まだカーテンの丈が足りなかった部屋で、結菜が床に座っていた。手にはぬいぐるみがあったと思う。何を食べた日だったのかは分からない。
お父さんは、いつ来るの。
娘にそう聞かれ、紗枝はもう一緒には暮らさないと説明した。
どうして、と重ねられて、一緒に暮らせなくなったから、と答えた。六歳の子供が納得できる説明ではない。けれど娘は、それ以上のことを自分で埋めた。
お父さんが悪いんだね。
その言葉だけは、覚えていた。
「お母さん?」
結菜に呼ばれ、紗枝は顔を上げた。
「何でもない」
また、そう言ってしまった。
結菜は写真のページをめくった。紗枝は娘の手元へ目を戻したが、薄いカーテンの部屋が消えなかった。
あの時、違うと答えることはできた。
お父さんが悪いからではない。それだけなら、不倫という言葉を知らない娘にも言えた。
紗枝は、たぶん泣いていた。新しい部屋の家賃や、翌週からの仕事のことで頭がいっぱいだった。自分がしたことを考えると、何も手につかなくなる。それで、娘が差し出した言葉を受け取った。
うんと言ったかどうかは、覚えていない。
否定しなかったことは覚えていた。娘を抱き寄せ、話を終えた。
「昔の写真、こっちにもあったかな」
結菜が棚の上を見た。紗枝は反射的に立ちかけ、それから座り直した。
「その前に、少し話してもいい?」
娘の指が止まった。
「何?」
「旅行のこと。あの日、記憶違いじゃないかって言ったの、間違ってた」
結菜はアルバムを閉じなかった。開いたまま、紗枝を見た。
「お父さんは、別の日も考えてくれてた。私にそう話した。それを、結菜にちゃんと伝えなかった」
「思い出したの?」
「細かい日付は、今も分からない。でも、別の日の話を聞いたことは覚えてた」
娘の目が少し動いた。
「最初に聞いた時から?」
「……うん」
紗枝は両手を膝に置いた。責められたら謝ればいいと思っていたのに、結菜が黙っている方が怖かった。
「あの時も、今も、自分が困らないように答えた。ごめんなさい」
結菜は、閉じかけていたページを指で押さえた。
「じゃあ、私がもう行かないって言ったから、行けなかったわけじゃないんだね」
「少なくとも、別の日があるって知らないまま、そう言わせたのは私」
娘はゆっくりとうなずいた。
「あの頃、お父さんから電話があった時、私も出られたよね」
「ええ」
「出ておけばよかったって、この何日か、考えてた」
紗枝は首を振った。
「結菜が、そうしなかったせいじゃない」
「でも、何も聞かずに怒ってたのは私だから」
「伝えなかったのは私なの」
結菜が目を伏せた。写真の端を押さえる娘の爪が、少し白くなっていた。
「旅行だけじゃないの。お父さんのことで、言わないでいたことがある」
結菜はアルバムから指を離した。
「また?」
「離婚した頃のこと」
「お父さんと暮らせなくなったっていう話?」
紗枝はうなずいた。
「あの時の説明のままにした。結菜がお父さんを悪く思ってると分かってたのに」
娘が口を開いたので、紗枝は身構えた。けれど声は出なかった。結菜は写真の封筒を取り、机へ伏せた。
「今日は、もう無理」
「結菜」
「聞くよ。聞きたい。でも、また今、初めて聞くことが増えるんでしょう」
紗枝は、はい、と答えた。
「明日、仕事なんだ。受付でぼうっとして、また間違えたくない」
娘は時計を見た。紗枝も同じ方を見てしまい、すぐに顔を戻した。
「いつなら――」
「今、決められない」
紗枝は黙った。
娘がアルバムの角を持ち上げた。閉じる間に挟まった写真を、一枚ずつ奥へ押し込む。
「来週になって、やっぱり昔のことだからって言うのは、やめてね」
「それはしない。話す」
「お父さんに、先に何か頼んだりもしないで」
「うん」
結菜は、使うかもしれない写真の封筒に日付を書いた。
「今月中には聞きたい。私も予定、見ておくから」
「分かった」
その返事で会話が終わった。結菜は写真を重ね、使うかもしれないものだけ別の封筒へ入れた。
三人の写真は、アルバムの中へ戻した。
娘が部屋へ入ったあと、紗枝は食卓に残った小さい紙片を拾った。写真を貼るための台紙の切れ端だった。ごみ箱へ捨て、電話のカレンダーを開く。
空いている土曜と日曜を確かめた。結菜へ見せるためではなく、話せるようにしておくために、週末の予定を一つ消した。
紗枝は携帯電話を閉じた。
六歳の娘は、母を見上げていた。その顔を、今度は最後まで思い出した。




