第7話 私が育てた
園子は、店の外まで来て手を振った。
「奥、空いてる。先に頼んでないから」
日曜の昼だった。駅から少し離れた定食屋には、子供連れの客が二組いた。紗枝が上着を脱ぐ間に、姉は壁の品書きを指した。
「私は魚にする。あんたは?」
「同じのでいい」
「同じの、じゃなくて。食べたい?」
紗枝がうなずくと、園子は店員を呼んだ。注文が済むまで、結菜の名は出さなかった。
お茶を飲んでから、紗枝は切り出した。
「結菜、結婚するの」
「そう。おめでとう。和樹さんと?」
「ええ。五月くらいに式をするって」
「よかったね」
園子の声で、紗枝はやっと顔を上げた。こう言ってもらいたかった。ここまで育てたねと、続けてもらえればなおよかった。
「まだ、私から日取りを言うのは待ってね。あの子たちが決めることだから」
「分かった。それで、会いたいっていうのは?」
紗枝は湯のみを置いた。
「お父さんに会ったのよ」
「康文さん?」
「結婚の報告に。それはいいんだけど、昔のことをいろいろ聞いてきて」
「結菜が?」
「うん。旅行が中止になった時のこととか。誕生日に、何をもらったかとか」
園子は返事を急がなかった。そのため紗枝は、昨日の昼前に娘としたやり取りまで話した。箱を見つけたこと、父からだと言わなかったこと。康文との電話については、まだ話さなかった。
「どうして、言わなかったの」
「うれしそうだったから」
「結菜が?」
「そう」
「お父さんからだと言ったら、喜ばなかった?」
娘と同じことを言われ、紗枝はお茶を飲んだ。
「そういうことじゃないのよ。誕生日に出したら、私が用意したと思ったの。そこでわざわざ――」
「わざわざ?」
紗枝は湯のみを下ろした。
店員が料理を運んできた。二人は料理の載ったお盆を手前に寄せ、しばらく黙って食べた。隣の席で、小さい子が汁をこぼした。母親が立ち、父親が子供の服を拭いている。
「私、毎日あの子のことだけやってたわけじゃないのよ」
紗枝は魚の皮をよけた。
「働いて、帰って、ご飯を作って。行事の予定も、予防接種も、制服のことも。覚えてるでしょう、入学の時」
「覚えてる。袋を作るの、手伝ったね」
「あのミシン、夜中に止まったのよ。翌日仕事なのに、上糸をかけ直しても駄目で」
園子はうなずいた。
結菜が小学校に上がる前、二人で小さい布を何枚も裁った。学校の指定する寸法は、買ってきた袋とわずかに違った。紗枝はそのわずかな差まで守ろうとしていた。
娘が困らないように。母親が一人だからと思われないように。
「急な熱で迎えに行った日もあったでしょう」
「あったね」
その日はまだ昼過ぎだった。勤め先で電話を受けた紗枝は、代わりに窓口へ出てもらうため同僚を探した。その日のうちに仕上げるはずだった書類は、引き出しに入れた。
迎えに来るのが遅いと、結菜が泣くかもしれない。急いで小学校の保健室へ行くと、娘はベッドの端で座って待っていた。先生に何度も頭を下げ、帰り道に薬局へ寄った。
翌朝、書類の束は机の真ん中へ出されていた。同僚に礼を言い、少し早く仕事を始めた。誰も責めてはいなかったが、同じことが続けば困るだろうと、紗枝自身が思っていた。
熱が下がった翌日も、娘を家に置けるわけではなかった。園子に頼めた日は、着替えと薬を袋へ詰めた。薬は食後、熱を測るのは昼にも。細かく書いた紙を、袋の口へ挟んだ。
帰りに迎えに行くと、結菜は姉の家で眠っていた。起こすのがかわいそうで、しばらく姉の台所で座って待った。園子が出してくれたうどんを食べたことまで、紗枝は覚えている。
「あの時、お姉ちゃんがいなかったら、仕事を続けられなかった」
「私も、たまたま休めた日だったからね」
「それでも、助かった」
園子が、少し目を細めた。
「あんた、いつも同じ袋に入れてきたね。水色の、持ち手が長いの」
「荷物を抱えて、結菜の手も引けるように、肩にかけたくて」
紗枝は笑いかけたが、すぐに笑えなくなった。
康文も、その袋を知っていた。面会の着替えを入れる時にも使った。帰ってきた娘が、洗ってもらったと畳んだ服を出したこともある。
紗枝は、その話をしなかった。
「何をするにも、まず誰かに頭を下げなきゃいけなかったの。娘を迎えに行きますっていうだけで、申し訳ないことをしてる気がした」
「それは、しんどかったね」
姉の声が柔らかくなった。紗枝は、ようやく求めていた返事をもらえた気がした。
その安心に押され、言葉が続いた。
「あの人は、会える日だけ会えばよかったんだから」
園子の箸が止まった。
「それは、会わせる約束だったからでしょう」
「毎日見るのと、たまに会うのは違うよ」
「うん。それはそう」
園子があっさり答えたので、紗枝は箸を置いた。
「だったら、少しくらい私の方を――」
「画材が欲しかったのは結菜だよね。康文さんが選んだんでしょう」
「欲しい物を知らせたのは私」
「それは、さっき聞いた」
姉の声がとがった。紗枝は隣の卓を見た。子供の皿に、さっきまでなかった紙ナプキンが重ねられている。
「ごめん。私も同じことばっかり言ってるね」
園子はそう言い、湯のみを持ち上げた。すぐには飲まなかった。
「その時に言わなかったのは、そうだけど。箱一つのことで、今まで全部駄目だったみたいにされたら」
「誰に、全部駄目だって言われたの」
「言われてないよ」
「じゃあ、そこまでは足さなくていい」
紗枝は口を閉じた。園子は箸を取り、冷めた魚を一口食べた。
「最初、私、謝れば済む話かと思った。ごめん、父親からだった、って。結菜も、そうだったんだねって」
「私も、そう思ってた」
「でも、忘れられたと思ってたんだよね、あの子は」
紗枝はうなずいた。
「それは……箱だけじゃないか」
園子はお盆の端の水滴を指で拭った。何かを言おうとして、眉を寄せた。
「私、知らないね。あの子に、どんなふうに話してたか」
「お姉ちゃんは、私が大変だったのを見てるでしょう」
「見てる。あの水色の袋も覚えてるよ。でも、今ここで私が、あんたは頑張ったって言っても」
姉は、そこで一度言葉を切った。
「それを、そのまま結菜に持って帰らないで」
紗枝は視線を上げた。
園子は湯のみを置き直した。
「あの頃、お母さんに、今は紗枝を責めないでって言ったの、私だよ。引っ越しも仕事もあるからって」
「助かった。あれは、本当に」
「うん。でも、そのあと落ち着いたら話そうって、私は言わなかった。妹がちゃんとやってるように見えたら、もう触りたくなかった」
離婚した時、姉は保証人になり、箱を運んでくれた。その手で、今日も紗枝のために茶を注いでいる。
「だから、あんたより分かってるみたいには言えない。いま聞いた話は、嫌だった。それだけ」
紗枝はお盆の端を見た。
「嫌って」
「結菜が、お父さんには忘れられてたって思ってたこと」
しばらく二人とも食べなかった。店員が空いた隣の卓を拭きに来て、椅子が短く鳴った。
「離婚した時のことも、話した方がいいのかな」
「私に決めてもらおうとしてる?」
「そうじゃないけど」
園子は息を吐いた。
「ごめん。いまの聞き方は嫌だったね。あんたの話、聞くから。何を言ってないのか、まず自分で考えてみて」
紗枝は残ったご飯を一口食べた。喉を通すのに、お茶が要った。
店を出ると、午前中の曇り空に切れ間ができていた。園子は店先で立ち止まり、紗枝を見た。
「今日の話、私から結菜には連絡しないから」
「……うん」
「でも、あの子から何か聞かれたら、分かることは答えるよ」
康文にも同じことを言われた気がした。
紗枝は、姉の手にある折り畳み傘を見た。子供の頃には忘れ物ばかりしていた姉が、今は雨がやんでも傘を手放さない。
「結菜が困ってるなら、連絡しようかって聞いてほしかった」
言ってから後悔した。園子は困った顔をしたが、取り繕わなかった。
「私が説得して、丸く収める話じゃないと思う」
「分かってる」
分かっていなかった。
駅までの道を、二人は少し離れて歩いた。信号が変わると、園子が紗枝を待った。そのいつもの仕草で、涙が出そうになった。
「お姉ちゃん、私のこと、嫌になった?」
紗枝は横断歩道を渡ってから聞いた。
園子は足を止めず、紗枝の横へ並んだ。
「嫌になったから、ああ言ったんじゃないよ」
「うん」
「今日は、うまく話せなかった。来てよかったとは思ってる」
紗枝は返事をしなかった。姉に頼みかけていた言葉が、まだ口に残っていた。
「また、話を聞いてもらってもいい?」
「うん。今度は魚じゃないものにしよう。冷めると、骨が取りにくい」
「それで、いい」
答えながら、紗枝は、それだけでは足りないと思わずに済むまで、時間がかかるかもしれないと考えた。
娘に、何から話すか。駅に着いても、決められなかった。
改札で姉と別れ、紗枝は乗る電車を一本見送った。
携帯電話には、娘から夕飯についての連絡が来ていた。今日は家で食べる、とある。
紗枝は短く返し、画面を閉じた。
今夜、何を作るかは決められる。あの箱について娘が尋ねたことには、まだ答え切っていなかった。




