第6話 今さら話さないで
康文に電話をかけたのは、結菜が出かけて20分ほどたってからだった。
紗枝は居間の床に残っていた紙をまとめ、空いた段ボールを重ねた。片づけ終えれば少し落ち着くだろうと思ったが、棚の上の色鉛筆が目に入るたび、同じところへ考えが戻った。
結菜はお礼が言えなかったと言った。
紗枝にありがとうと言っていたあの日から、何年もたっている。その間、母と娘の暮らしは続いた。試験があり、就職があり、結菜が仕事で失敗して帰ってきた夜もあった。
今になって、その全部を見る目まで変わってしまうのだろうか。
電話は長く鳴った。留守番電話へ切り替わる前に、紗枝は切った。
10分後に折り返しが来た時は、台所にいた。手を拭き、居間へ戻ってから出た。
「もしもし」
「電話、くれた?」
康文の声は少し遠かった。風の音が入っている。
「今、大丈夫ですか」
「少しなら。外にいるけど」
「結菜のことで」
向こうの音が変わった。戸を閉めたような音のあと、康文が、何かあったのか、と聞いた。
「体のことじゃなくて。今、出かけてるから」
「そう」
「最近、いろいろ聞かれてるでしょう」
康文は、すぐには答えなかった。
「旅行と、絵を描く道具のこと?」
「ええ。さっきも、その話になって」
紗枝は食卓の椅子に座った。足元に、娘が手放すと決めた問題集が入った袋がある。
「結菜、今、結婚の準備で忙しい時でしょう。決めることもたくさんあって、仕事もあるし」
「うん」
「そんな時に昔の話をされると、混乱するのよ」
受話器の向こうで、かすかに息を吸う音がした。
「俺から急に話したわけじゃない。結菜に聞かれたから、答えた」
「それは聞いたけど」
「旅行は、行けなかったのを覚えてるって言われた。それで、別の日の話をしたつもりだったけど、って話になった」
「言ったつもりでも、実際には伝わってなかったことだってあるでしょう」
「紗枝さんには話した」
声は大きくなかった。紗枝は椅子の座面へ視線を落とした。
「日付までは、私も覚えてないの」
「俺も、日付までは分からない。結菜にもそう伝えた」
曖昧なところは曖昧なまま、あの人は話した。それなのに自分は、その曖昧さに全てを押し込もうとしている。
紗枝は携帯電話を持ち直した。
「道具のことは、私が言わなかった。お父さんからだって」
「……そうか」
「でも、あの子が欲しい物を聞いて、そちらへ知らせたのは私なのよ」
「それは覚えてる。自分では選べなかったから、助かった」
その返事に、紗枝はかえって困った。
自分のしたことを一つ認めてもらえれば、少しは話が通じると思っていた。ところが康文は、その一つを認めただけで、先を待っている。
「お礼も、こっちから伝えたでしょう」
「喜んでるとは聞いた」
「なら、それでよかったんじゃないの」
最後だけ、声が速くなった。
康文は黙った。遠くで車が通る音がする。
「結菜は、母親からもらったと思ってたんだね」
「……ええ」
「それは、知らなかった」
紗枝は食卓へ肘をついた。
画材を渡してから、父娘がその話をすることはなかった。会う回数が減り、顔を合わせない誕生日もあった。紗枝が受け取って、喜んでいたと伝えれば、それで終わった。
康文が結菜へ一言聞いていたら、その時に分かったことでもある。
そう言おうとして、紗枝は息を整えた。
「今、それを知ったら、あの子がつらいでしょう」
「知らないままの方がよかった?」
「そうじゃなくて」
紗枝は椅子を引いた。座っていられなくなり、台所へ二歩進む。
「時期があると思うの。せっかく結婚するって、うれしい話をしてたのに」
「結婚の話もしてるよ。和樹さんに会う日を相談してる」
「それだけにしておけない?」
言葉が出ると、紗枝自身が驚いた。
康文の声が、少し低くなった。
「聞かれても答えないでほしい、ということ?」
「今は、ということよ」
「いつならいい?」
紗枝は冷蔵庫の予定表を見た。
式場の見学は、まだこれからだ。新居も決まっていない。春には引っ越し、五月には式がある。
その先には二人の新しい暮らしが始まる。娘が落ち着くのを待てば、夏になるかもしれない。
「少なくとも、式が済むまでは」
「それを、結菜に言ってほしいの?」
「私が頼んだって、言わなくていいでしょう」
返事がなかった。
紗枝は携帯電話を耳から少し離した。通話は続いている。
「康文さん」
「それは、できない」
きっぱりした声だった。
「あの子が知りたくて聞いてることを、二人で話を合わせて隠すのは、したくない」
「合わせて隠すなんて、そんな言い方しなくても」
「違うなら、どうして答えたらいけないのか分からない」
紗枝は空いている手で、台の縁を握った。
「あの子を困らせたくないの」
「結菜を困らせないために、俺が紗枝さんに言われたことを黙ってるの?」
その問いに、答えを探せなかった。
以前なら、結菜のためと言えば話が止まった。学校で疲れている。試験が近い。今はそっとしておいてほしい。康文は、分かった、と答えた。
嘘ばかりだったわけではない。娘が熱を出した日も、勉強を優先した週末もあった。紗枝は予定を調整し、娘を送ってもいた。
「結菜が六歳だった時とは違う」
康文が言った。
紗枝は、反射的に居間の戸を見た。娘は留守なのに、誰かに聞かれたような気がした。
「その話まで、したの?」
「何の話?」
「離婚した時のこと」
電話の向こうが静かになった。
離婚という言葉を出したのは、自分だった。紗枝は耳に当てた電話を押しつけた。
「理由は、聞かれてない」
康文はゆっくり答えた。
「今話してるのは、あの頃と同じように、俺たちだけで結菜に何を知らせるか決めることはできないってことだよ」
紗枝は、目を閉じた。
「お母さんを悪く思わないで、とは伝えたの?」
「結菜に、それは頼まない」
まぶたを開いても、台所は同じだった。洗い終えた食器が伏せてあり、娘が昼に使うつもりだった小皿が一枚、出ている。
「自分が返事をしたことには、責任を持つ。分からないことは分からないと言うし、紗枝さんの考えを聞かれても、代わりに説明はしない」
「……分かりました」
紗枝には、ほかの返事ができなかった。
康文が、まだ用件はあるかと尋ねた。紗枝がないと答えると、では、と短い挨拶があった。
通話が切れ、画面に数字が残った。
紗枝は娘へ連絡しかけた。お父さんと話した、と知らせるべきだと思った。そのあと、何を書けばよいのか分からなかった。
昔のことは、しばらく話さないでもらうよう頼んだ。
電話を食卓に置き、紗枝は問題集の袋を持ち上げた。重くて、底を両手で支え直した。玄関の脇へ運んで戻ると、散らかっていたはずの居間が広く見えた。
携帯電話に、新しい通知が来ていた。
〈夕飯は食べて帰る。遅くはならない〉
結菜からだった。
紗枝は、分かった、と返した。誰といるのかは聞かなかった。今日は聞けなかっただけだった。
棚の上の画材には、もう触れなかった。
姉の園子の名前を連絡先から探した。娘に聞いてもらえないなら、姉なら話を聞いてくれる。そこまで考えてから、紗枝は電話を伏せた。
少しして、もう一度取り上げた。
〈近いうち、会える日ある?〉
送信すると、すぐに既読がついた。
紗枝は椅子に座り、返事を待った。何から話すかを考えるうちに、勤め先を早退して娘を迎えに行った日のことが浮かんだ。
あの子を育ててきたのは自分だ。
それだけは、姉にも分かってもらえるはずだった。




