第5話 画材の箱
押し入れの段ボールは、持ち上げると底が少したわんだ。
「それ重いから、底を支えて渡して」
結菜が踏み台の横に立った。紗枝は上段からずらした箱を抱え、娘の手へ渡した。
土曜の朝だった。前の晩に雨が降り、ベランダにはまだ洗濯物を出せない。居間の隅に物干しを寄せ、食卓を壁につけて、床を空けた。
結菜は段ボールのガムテープをはがす前に、三つの紙袋を並べた。
「持っていくのと、ここに残すのと、手放すの」
「そんなに一度に決めなくてもいいのよ」
「決められる分だけ。迷ったら戻す」
紗枝は踏み台を畳み、壁へ立てかけた。
箱の上の方には、高校の時の問題集が重なっていた。その下にクリアファイルや、絵の描かれた紙袋が見える。
「それ、学校でもらった物じゃない?」
「文化祭の。友達が絵、描いてくれたんだ」
結菜は紙袋だけを丁寧によけた。紗枝には区別のつかないプリントを次々と分け、古い時間割は少し眺めてから手放す方へ入れた。
紗枝が口を出さずにいると、作業は早かった。
「お母さん、そっちの小さい箱、開けてくれる?」
靴箱ほどの段ボールを膝に載せ、紗枝はテープを切った。最初に出てきたのは、洗って乾かした筆を包んだタオルだった。
その下に、灰色の薄い箱があった。
「あ、それ」
結菜の声で、紗枝の手が止まる。
角に小さなへこみがある。ふたの端に結菜が貼った丸いシールは、半分はがれていた。
「懐かしい。見せて」
渡すと、娘は膝の上で箱を開いた。
二段に並んだ色鉛筆は、何本かだけ短くなっていた。紗枝の覚えていた緑も、ほかより引っ込んでいる。結菜はそれを一本抜き、机の端にあった不要な紙へ線を引いた。
「まだ描ける」
「そんなに傷むものじゃないでしょう」
「芯、折れてないかなって」
薄い緑の線を見て、娘は箱を脇へ置いた。次に、小さい絵の具の箱を取り出す。中のチューブを指で押し、固くなったものを分け始めた。
誕生日の前に、紗枝は娘が欲しがっている物を康文に伝えた。
結菜は部活動ではなく、家で絵を描いていた。学校で使う道具より色が多いものが欲しいと言って、店の棚を長く眺めたことがある。紗枝は、その時に買わずに帰った。
康文から届いたのは、その話をしたあとだった。
何を選べばよいか分からないから、店で聞いた。そう電話で言われた。受け取った荷物を開けると、色鉛筆と絵の具、薄いスケッチブックが入っていた。
結菜が帰る前だった。紗枝は外箱を畳み、道具を食卓に置いた。
そこまでは、すぐに思い出せる。
「スケッチブック、こっちかも」
結菜が別の箱へ手を伸ばした。紗枝は先にそのふたを押さえた。
「それは、あとにしない? 先に一つ終わらせないと散らかるから」
「うん」
素直な返事がつらかった。紗枝は手を離し、箱の中に残っていた鉛筆削りを取った。
「これも一緒だった?」
「それは違う。自分で買ったやつ」
「そう」
娘は、色鉛筆の箱をもう一度見た。
「これ、お父さんからだった?」
紗枝は鉛筆削りを床へ置いた。
結菜の指が箱のふちにかかっていた。月曜の夜から、紗枝はこの箱を押し入れのどこへしまったか考えていた。
「お父さんが、そう言ってたの」
「昨日、どんな道具だったか聞いた。色鉛筆と絵の具、送ったって」
「欲しがってるって、話したのは私よ」
紗枝は唇を閉じた。
「じゃあ、これはお父さんから?」
「……そう。送ってきたの」
結菜は箱に目を落としたまま、しばらく動かなかった。
室内干しの洗濯物から、しずくが一つ落ちた。紗枝は立ち上がりたくなった。下にタオルを敷かなければ、と考え、膝に手をついてやめた。
「私、お母さんにありがとうって言ったよね」
「誕生日に、出したから」
「うん。あの時、お父さんからだって聞いた覚えがない」
「言い忘れたのかもしれない」
結菜が顔を上げた。
「それは今、思ったこと?」
紗枝はうなずけなかった。
制服のまま箱を開けた娘が、自分を見て笑ったことを覚えている。お母さん、ありがとう。そう言われ、うん、と返した。
結菜は部屋へ持っていく前に、好きな色を何本か並べた。紗枝は夕飯の支度をしながら、それを見ていた。
言い忘れた一瞬だけのことではなかった。
「お父さんからだって、言わなかった」
口にすると、娘の視線が箱へ戻った。
「どうして?」
「せっかく喜んでるから、そのままでいいと思って」
「それ、お父さんからでも、うれしかったよ」
紗枝は、膝の上に置いた手を組んだ。
「そうね」
それ以上の言葉が出なかった。
あの年の誕生日には、娘と駅前でケーキを選んだ。夕飯には好きな物を作った。遅い時間に洗い物を済ませ、制服のほつれを縫った。
自分にも、したことはある。
そう言いそうになって、紗枝は色鉛筆の先を見た。緑の一本だけ、ほかより指一本分ほど短かった。
「お父さんから、今年は何もなかったねって、私、言ったと思う」
「それは……覚えてない」
「私も、正確な言い方は分からない。でも、お父さんは誕生日を忘れたんだって思ってた」
紗枝は視線を上げられなかった。
娘が何も届かなかったと言った時、違うと言えた。色鉛筆を指せば済んだ。学校の支度をしている娘を呼び止めることもできた。
「お父さんには、お礼、言ってない」
結菜の声が少し変わった。
紗枝はすぐに顔を上げた。
「結菜は知らなかったんだから」
「うん。昨日、そう言われた」
娘は箱の中の空いた場所へ緑の色鉛筆を戻した。先が隣の鉛筆に触れないように、指で位置を直す。
「何か、返したかったなって思う。あの時に」
紗枝は謝ろうとして、声にならなかった。
「ごめん」
それだけを言った。
結菜は、うなずきもしなかった。立ち上がって台所へ行き、水を一杯飲んだ。戻ると、箱を「持っていく」と書いた袋の脇へ置く。
「今日は、ここまでにする」
「お昼は?」
「外で食べてくる。少し歩きたい」
「雨、また降るかもしれないから、傘を――」
「持っていく」
娘は手を洗い、自分の部屋へ入った。
紗枝は散らかった床に座ったままだった。箱の脇に、布の筆入れが落ちていた。結菜が欲しがった柄の布を買い、紗枝がミシンで縫ったものだった。
ファスナーの端が少しずれている。作った時からそうで、直そうかと聞いても、結菜はこのままでいいと使っていた。
持ち上げると、裏側にインクの染みがあった。
自分が作った物も、娘は大切にしていた。さっきこれを見つけていれば、懐かしいと話せただろうか。それとも、これだって私が作ったと言ってしまっただろうか。
紗枝は、筆入れを紙袋へ入れず、箱のふたに載せた。
開いた箱には、娘の描いた紙が何枚も残っている。今めくれば、いつ何を描いていたのか分かるのかもしれない。
だが、一枚も取り出せなかった。
結菜が着替えて戻ると、色鉛筆の箱を手に取った。しまうのかと思ったら、居間の棚の、すぐ届く場所に置いた。
「まだ使う物だから」
「うん」
玄関の扉が閉まった。
紗枝は立ち上がり、洗濯物の下へタオルを敷いた。床のしずくは、もう跡が薄くなっていた。
棚の箱には、娘のつけたシールが残っている。紗枝が渡した日のまま、娘はずっと持っていた。
離婚した頃のことなら、まだ幼かったからと言えた。説明できない事情があったと言いかけることもできた。
この箱を渡した時、娘は中学生だった。
紗枝は、棚へ伸ばしかけた手を引いた。
箱の向きを直すことさえ、今はしてはいけない気がした。




