第4話 そんなことを言った?
月曜の昼休み、紗枝は弁当を半分残して、職場の裏へ出た。
駐車場の隅には、鉢植えを並べた細い通路がある。表の窓口からは見えない。電話をかける時、職員がよく使う場所だった。
電話をするつもりで来たのではなかった。携帯電話を開いても、結菜から新しい連絡はない。
昨日の朝は、二人でパンを食べた。結菜は洗濯を手伝い、午後には和樹と出かけた。土曜の旅行の話は、一度も出なかった。
もう気にならなくなったのかもしれない。
そう思って仕事に来たのに、午前中、会館の予約を変更する電話を受けた途端、手が止まった。
来月なら空いていますか。
受話器の向こうでそう聞かれ、紗枝は手元の予約簿をめくった。今度の予定が駄目なら、別の日を探す。普段なら何も考えずにすることだった。
鉢の土は乾いていた。紗枝はそばのじょうろを持ち上げたが、中は空だった。
携帯電話をポケットへしまい、水道へ向かう。何かしていれば、昼休みは終わる。
帰宅すると、結菜は居間でノートパソコンを開いていた。紗枝に挨拶してから、画面へ顔を戻す。
「新居、探してるの?」
「うん。まだ見るだけ。ここ、二人で住むには狭いかな」
娘が少し画面を傾けた。台所と居間のほかに、部屋が一つある間取りだった。
「収納が少ないんじゃない?」
「そうなんだよね。和樹も本、多いし」
「結菜の本は、しばらくここに置いていいわよ」
「持っていく分、今度整理する。要らない物、ずっと置いとくのも悪いし」
「悪いなんて思わなくていいのに」
紗枝は買い物袋を台所へ運んだ。娘が家を出る話をしている。それだけのことなのに、置いていく物まで急いで決められるのが寂しかった。
買ってきた豆腐を冷蔵庫に入れようとすると、背中から呼ばれた。
「お母さん。昨日、お父さんにもう一回聞いた」
紗枝は扉を開けたまま、返事をした。
「旅行のこと?」
「うん。何月だったかは、お父さんもはっきりしないって。でも、別の日にする話は、お母さんにしたって」
冷蔵庫から短い音が鳴った。扉を閉め、紗枝は買い物袋の口を折った。
「そう言ってたの」
「私に直接言ったわけじゃないんだよね。お母さん、何か思い出した?」
紗枝は、昼休みにもそのことを考えていたとは言えなかった。
「また相談しよう、くらいの話はあったかもしれない」
「土曜には、記憶違いかもって言ってたけど」
「土曜は急に聞かれたから」
結菜はパソコンのふたを途中まで下ろし、手を離した。
「お父さんの記憶違いって、言わないでほしかった」
「決めつけたつもりじゃないのよ」
「でも私、そうかもしれないって思った」
紗枝は袋を握ったまま、娘の向かいに座った。
「お母さんも、全部覚えてるわけじゃないから」
「それは分かる。私だって、誰が何を言ったか、全部は分からない」
結菜は、机の端に置いていたメモ用紙を裏返した。表には、家賃らしい数字が並んでいた。
「でも、行けなくなったことだけじゃなくて、お父さんは私が楽しみにしてるのを嫌がってたのかなって、思ったのは覚えてる」
「そんなことはないでしょう」
「お父さんは、そう言ってくれた」
紗枝は膝へ視線を落とした。買い物袋は、まだ片手にあった。
当時の部屋には、小さい座卓があった。電話はその脇に置いていた。康文と話す時は結菜に聞かれないよう台所へ移り、長い線を引きずった。
旅行の日を変えてほしいと聞いた時、紗枝は何から答えただろう。
休みを空けておいたのに。結菜も楽しみにしていたのに。
その二つは、言った気がする。
ならば来月、と言われて、すぐに返事をしなかった。翌月は自分の仕事が立て込む。それに、娘の荷造りをして、待ち合わせの場所まで送り、また迎えに行くことを考えた。
それらを今、娘に説明すれば、分かってもらえるだろうか。
古いカレンダーがあれば、その頃の予定を思い出せるだろうか。転居の時に捨てたはずだが、手帳なら残っているかもしれない。
旅行の日を変えられない理由が見つかれば、と考えたところで、紗枝は顔を上げた。
「予定、調べてみようか」
「何の?」
「その頃の。別の日も、都合が悪かったのかもしれないし」
「それなら、私にもそう言ってほしかった」
結菜は裏返したメモを押さえた。
「どの日だったかを知りたいんじゃないの。次もあるって、私には分かってなかったから」
紗枝は小さくうなずいた。手帳を探す話は、それきりにした。
紗枝が口を開く前に、結菜が言った。
「私が、もう行かないって言った時、お母さんは止めなかった?」
「嫌がるのを無理に行かせるわけにはいかないでしょう」
「その前に、別の日なら行けるかもしれないって聞いてたら、考えたと思う」
「結菜、あの頃、すごく怒ってたから」
「別の日があるのに、何で教えてくれなかったの」
すぐに返事ができなかった。
さっき話したことを、もう一度尋ねられている。紗枝は、答えるたびに自分の言葉が違っていることだけは分かった。
「お母さんだって、ちゃんと聞いたはずよ」
「いつ?」
「行きたくないの、って」
「……それで、私が行かないって言ったら、終わりだった?」
袋の持ち手が手首に食い込んだ。紗枝はようやくそれを外し、床へ置いた。
「もう行かなくていいって、私も言った?」
自分の声が思ったより小さく出た。
「ううん。今、お母さんが言ってることを、確かめてる」
結菜は両手を机の上へ置いた。
「私が断ったのは覚えてるのに、その前の話は、分からないんだね」
紗枝は娘の手を見た。指輪をしていない。仕事で外しているだけだと分かっているのに、探してしまった。
結菜は立ち上がって、台所へ行った。やかんに水を入れる音がする。
「夕飯、何する予定?」
「お豆腐、買ってあるから」
「じゃあ、私、お味噌汁作るね」
いつもの会話へ戻されたことに、紗枝は救われた。鞄を片づけ、上着を脱いで、娘の横へ立つ。
結菜は長ねぎを切った。紗枝は冷蔵庫から豚肉を出し、炒め物の準備を始めた。
「これから、荷物を少しずつ見ていこうと思う」
まな板を洗いながら、結菜が言った。
「本と、押し入れの箱。今週末、出しても大丈夫?」
「もちろん。でも引っ越しは、まだ先でしょう」
「今なら、使わない物を人にあげる時間もあるから」
紗枝は、押し入れの上段を思い浮かべた。学校から持ち帰った作品や、使わなくなった筆箱。古い部屋から越してきたままの段ボールもある。
「捨てる前には、見せてね」
「分かった」
そこで結菜が、水道を止めた。
「あの色鉛筆も、まだあるかな」
「色鉛筆?」
「中学の時の。薄い箱に入ってた、たくさん色があるやつ。絵の具と一緒にもらった」
紗枝は肉の入ったトレーを持ち直した。
「あるんじゃない。結菜、あまり使わなくなってから、まとめてなかった?」
「うん。あれ、お母さんが買ってくれたんだよね」
娘は蛇口に残った水滴を布巾で拭いた。
「どうして?」
「お父さんに、中学の時も描いてたのかって聞かれたから。道具、まだ使ってるかって」
「お父さん、絵のことなんて分からないでしょう」
「分からないから、私に聞いたんじゃないかな」
トレーの薄い端が指に当たった。紗枝はそれを調理台へ置いた。
「急に色鉛筆なんて言われても、どれのことだか」
「うん。見つけたら、見せる」
結菜は味噌を出し、小さい椀に少し取った。
紗枝は引き出しからフライ返しを探した。いつもの場所にあるのに、一度、奥まで手を入れた。
色鉛筆の箱は覚えていた。
結菜の机に収まるくらい薄くて、開くと同じ長さの鉛筆が並んでいた。隅にあった明るい緑の一本を、娘が最初に手に取ったことも。
自分で買っていれば、あんなに多くの色は選ばなかった。
鍋の中で湯が沸いた。結菜が豆腐を入れたので、紗枝は黙ってコンロの火を弱めた。




