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娘が結婚する日まで、私は嘘をついていた  作者: 雨宮 弦


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3/15

第3話 あの旅行のこと

 土曜の午後、紗枝は米を何合とぐか迷い、計量カップを米びつの中に戻した。


 結菜からは、夕飯についてまだ連絡がない。時計は四時を少し過ぎたところだった。昼を一緒に食べるだけなら、とっくに別れていてもおかしくない。


 買ってきた鮭は二切れとも冷蔵庫にしまった。一切れだけ出しておくのも、二切れ並べておくのも、娘の帰りを気にしているようで落ち着かなかった。


 洗濯物を畳み終えると、携帯電話が鳴った。


〈夕飯、家で食べる。六時くらい〉


 紗枝はすぐに返事をした。


〈鮭でいい?〉


〈うん〉


 続けて、どうだった、と打ちかけた。


 会っていたことを知らないわけではない。聞いてもおかしくない。それでも、娘から届いたのが夕飯の連絡だけだったことが引っかかった。


 紗枝は文字を消し、二人分の米をといだ。


 結菜が帰ったのは、六時を少し回ってからだった。玄関で靴を脱ぐ音がし、次に洗面所の水が流れた。


「おかえり。先にお風呂入る?」


「ご飯、先がいい」


「もう焼けるから」


 居間に入ってきた娘の手には、小さな紙袋があった。駅前にあるパン屋の印がついている。


「これ、明日の朝にどうぞって」


「お父さん?」


「うん」


 中には、丸いパンが三つ入っていた。紗枝は袋の口を閉じ、電子レンジの上へ置いた。


「気を使わなくていいのに」


「私がここの好きだって言ったから。多めに買った分」


「そう」


 紗枝は台所へ戻った。鮭の皮が焼ける音がする。菜箸で端を持ち上げ、まだ早かったので戻した。


「結婚の話、驚いてた?」


「うん。おめでとうって」


「そうでしょうね」


「和樹にも会いたいって。来月、休み合わせてみる」


 紗枝は二枚の皿を出した。いつも使う方を結菜の席へ置き、自分の前には少し欠けた皿を置く。


「式のことは?」


「日が決まったら教えてって。来てくれる」


「よかったね」


 結菜は、うん、と答えて、箸をそろえた。


 喜んでくれた。式にも来る。それで話は済んだはずだった。


 けれど娘は、店がどこだったのかも、何を食べたのかも話さなかった。紗枝が聞けば答えるだろう。聞かなければ、別の話を始める気配もない。


 焼けた鮭を皿へ移し、味噌汁をよそった。結菜は紗枝が座るのを待ってから、いただきますと言った。


「今日、暖かかったね」


「歩いたら暑いくらいだった」


「羽織るもの、いらなかった?」


「帰りはちょうどよかった」


 紗枝は娘の肩を見る。出かける時に着ていた薄い上着は、鞄の上に畳んであった。


 結菜が鮭の小骨を抜き、皿の端へ寄せた。


「お母さん。昔、お父さんと旅行するはずだったこと、覚えてる?」


 紗枝は味噌汁の椀を持ったまま、娘を見た。


「旅行?」


「小学校の時。水族館に行って、ホテルに泊まるっていう」


「ああ……そんなこと、あったね」


 思い出すより先に、体がこわばった。


 大きな旅行鞄を持っていなかった頃だ。結菜は学校の遠足用のリュックを広げ、着替えが入るか確かめていた。丸めた靴下を脇のポケットに入れたことが、おかしいくらいはっきり浮かんだ。


「何年生だったかしら」


「私も、それは覚えてない。泳いでるペンギンが見たいって言ってたと思う」


「お父さん、お仕事で行けなくなったのよね」


 紗枝は椀を置いた。


 結菜は箸を持っていたが、食べるのをやめていた。


「そのあと、別の日なら行けるって話、あった?」


 炊飯器が小さな音を立てた。保温の表示がついている。紗枝はそちらを見て、すぐ娘へ視線を戻した。


「お父さんが、そう言ったの?」


「今日、その話になって。あの時行けなかったねって言ったら、翌月に変えようと思ってたって」


「ずいぶん昔の話ね」


「うん。だから、覚えてたらと思って」


 結菜は返事を待っていた。


 紗枝は鮭の身を箸で分けた。さっきまできれいだった切り身が、皿の中で崩れた。


「記憶違いじゃないかしら」


「お父さんの?」


「だって、もう十何年も前でしょう。ほかの約束と混ざってるのかもしれないし」


 言ったあとで、違う、と頭の中に言葉が浮かんだ。


 康文は、別の日を出していた。


 受話器を肩と耳で挟んで聞いた声を、紗枝は覚えていた。翌月ならどうか、と言われた。日を改めて確かめることになっていたか、既に候補を二つ聞いていたか。そこは曖昧だった。


 だが、旅行そのものをやめようと言われたのではなかった。


「私、別の日があるって知らなかった」


 結菜の言葉に、紗枝は顔を上げた。


「その頃、学校も忙しかったでしょう。何か行事があったのかもしれない」


「お母さん、覚えてるの?」


「はっきりとは」


「じゃあ、そこは今、決めないで」


 娘は声を荒らげなかった。そのぶん、紗枝には返す言葉がなかった。


 結菜は箸を置き、湯のみを両手で持った。飲まずに、少し回した。


「私、お父さんが行きたくなくなったんだと思ってた」


「仕事だって、説明したじゃない」


「うん。最初はそう聞いた。でも、そのあとも行かなかったから」


「結菜が、もう行かなくていいって言ったのよ」


 それは覚えている。


 リュックを押し入れにしまいながら、娘は行かないと言った。紗枝が聞き直しても首を振った。その顔を見て、これ以上がっかりさせずに済んだと、ほっとした。


「それ、別の日があるって聞く前?」


 結菜が尋ねた。


 紗枝は箸を皿に置いた。


「そこまで細かくは、覚えてない」


 娘はしばらく黙っていた。窓の向こうを電車が通った。


「お父さんは、私がもう行きたくないって言ったから、しつこく誘わなかったって」


「……そう」


「私がそう言ったのは、たぶん本当だと思う」


 結菜は、自分の言葉を一つずつ確かめるように話した。


「でも、約束した日に行けなくなったあと、何もなかった気がしてた。私だけ楽しみにしてたのかなって」


 紗枝は、娘の湯のみを見ていた。


 幼い結菜がどんな顔で帰宅を待っていたかを思い出した。予定が変わったと伝えると、娘は先に、じゃあ次はいつ、と聞いた。


 紗枝は何と答えたのだったか。


 お父さんは忙しいから。


 今はまだ分からないから。


 そのどちらも、口にした覚えがあった。


「もう一度、聞いてみる」


 結菜が湯のみを置いた。


「何を?」


「お父さんに。今日、外だと周りが気になって、あんまりちゃんと聞けなかったから」


「そんな昔のことを、何度も聞かなくても」


 娘の目が上がった。


 紗枝は、自分の言葉の続きを探した。結婚の話をしに行ったのだから。せっかく久しぶりに会ったのだから。どれも、今言えば別の意味になりそうだった。


「お父さんも、困るでしょう」


「分からなかったら、分からないでいいよ」


 結菜は静かに答えた。


「でも、私が違うふうに覚えてたなら、知りたい」


 紗枝は返事の代わりに椀を持った。味噌汁はもうぬるかった。


 残りの夕飯を、二人はほとんど話さずに食べた。結菜は自分の食器を運び、紗枝の分も持とうとした。


「置いといて。あとで洗う」


「今日、私がやるよ」


「いいから」


 結菜の手が止まった。


 紗枝は小さく息を吐いた。


「焼き網、つけておくから。一緒に洗う方が楽なの」


「分かった」


 居間を出る前、娘は電子レンジの上の袋を見た。


「パン、明日の朝までなら、そのままで大丈夫だって」


「ありがとう」


 戸が閉まってから、紗枝は食器を流しに重ねた。湯を出しても、すぐには洗い始められなかった。


 別の日もあると、娘に伝えればよかった。


 紗枝は蛇口を閉め、濡れた手を拭いた。


 今夜も、できたはずだった。


 食卓に置いていた電話を取り、康文とのやり取りを開く。直近の連絡は、数年前に結菜の荷物について確認したものだった。画面をさかのぼっても、娘が小学生の頃の言葉は出てこない。


 紗枝は入力欄に触れた。


〈今日、結菜と何を話しましたか〉


 打ってから、親指を止めた。


 紗枝は文を消した。


 代わりの文は浮かばなかった。


 台所へ戻る途中、娘の部屋から低い声が聞こえた。電話をしているらしかったが、相手も、話の中身も分からない。


 紗枝は戸の前を通り過ぎた。


 明日のパンの袋を開き、口を折り直す。三つのうち一つだけ、焼けた縁が少し濃かった。自分はそれを食べようと思った。


 袋を戻すと、指先に粉がついていた。紗枝は流しで洗い落とし、食器用のスポンジを取った。

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― 新着の感想 ―
離婚は親子の世代で連続しますのでなんとしてもここで離婚の系譜は止めて欲しい… ところで元夫婦の間に何かありそうなフラグがたっているような? ハラハラします
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