第3話 あの旅行のこと
土曜の午後、紗枝は米を何合とぐか迷い、計量カップを米びつの中に戻した。
結菜からは、夕飯についてまだ連絡がない。時計は四時を少し過ぎたところだった。昼を一緒に食べるだけなら、とっくに別れていてもおかしくない。
買ってきた鮭は二切れとも冷蔵庫にしまった。一切れだけ出しておくのも、二切れ並べておくのも、娘の帰りを気にしているようで落ち着かなかった。
洗濯物を畳み終えると、携帯電話が鳴った。
〈夕飯、家で食べる。六時くらい〉
紗枝はすぐに返事をした。
〈鮭でいい?〉
〈うん〉
続けて、どうだった、と打ちかけた。
会っていたことを知らないわけではない。聞いてもおかしくない。それでも、娘から届いたのが夕飯の連絡だけだったことが引っかかった。
紗枝は文字を消し、二人分の米をといだ。
結菜が帰ったのは、六時を少し回ってからだった。玄関で靴を脱ぐ音がし、次に洗面所の水が流れた。
「おかえり。先にお風呂入る?」
「ご飯、先がいい」
「もう焼けるから」
居間に入ってきた娘の手には、小さな紙袋があった。駅前にあるパン屋の印がついている。
「これ、明日の朝にどうぞって」
「お父さん?」
「うん」
中には、丸いパンが三つ入っていた。紗枝は袋の口を閉じ、電子レンジの上へ置いた。
「気を使わなくていいのに」
「私がここの好きだって言ったから。多めに買った分」
「そう」
紗枝は台所へ戻った。鮭の皮が焼ける音がする。菜箸で端を持ち上げ、まだ早かったので戻した。
「結婚の話、驚いてた?」
「うん。おめでとうって」
「そうでしょうね」
「和樹にも会いたいって。来月、休み合わせてみる」
紗枝は二枚の皿を出した。いつも使う方を結菜の席へ置き、自分の前には少し欠けた皿を置く。
「式のことは?」
「日が決まったら教えてって。来てくれる」
「よかったね」
結菜は、うん、と答えて、箸をそろえた。
喜んでくれた。式にも来る。それで話は済んだはずだった。
けれど娘は、店がどこだったのかも、何を食べたのかも話さなかった。紗枝が聞けば答えるだろう。聞かなければ、別の話を始める気配もない。
焼けた鮭を皿へ移し、味噌汁をよそった。結菜は紗枝が座るのを待ってから、いただきますと言った。
「今日、暖かかったね」
「歩いたら暑いくらいだった」
「羽織るもの、いらなかった?」
「帰りはちょうどよかった」
紗枝は娘の肩を見る。出かける時に着ていた薄い上着は、鞄の上に畳んであった。
結菜が鮭の小骨を抜き、皿の端へ寄せた。
「お母さん。昔、お父さんと旅行するはずだったこと、覚えてる?」
紗枝は味噌汁の椀を持ったまま、娘を見た。
「旅行?」
「小学校の時。水族館に行って、ホテルに泊まるっていう」
「ああ……そんなこと、あったね」
思い出すより先に、体がこわばった。
大きな旅行鞄を持っていなかった頃だ。結菜は学校の遠足用のリュックを広げ、着替えが入るか確かめていた。丸めた靴下を脇のポケットに入れたことが、おかしいくらいはっきり浮かんだ。
「何年生だったかしら」
「私も、それは覚えてない。泳いでるペンギンが見たいって言ってたと思う」
「お父さん、お仕事で行けなくなったのよね」
紗枝は椀を置いた。
結菜は箸を持っていたが、食べるのをやめていた。
「そのあと、別の日なら行けるって話、あった?」
炊飯器が小さな音を立てた。保温の表示がついている。紗枝はそちらを見て、すぐ娘へ視線を戻した。
「お父さんが、そう言ったの?」
「今日、その話になって。あの時行けなかったねって言ったら、翌月に変えようと思ってたって」
「ずいぶん昔の話ね」
「うん。だから、覚えてたらと思って」
結菜は返事を待っていた。
紗枝は鮭の身を箸で分けた。さっきまできれいだった切り身が、皿の中で崩れた。
「記憶違いじゃないかしら」
「お父さんの?」
「だって、もう十何年も前でしょう。ほかの約束と混ざってるのかもしれないし」
言ったあとで、違う、と頭の中に言葉が浮かんだ。
康文は、別の日を出していた。
受話器を肩と耳で挟んで聞いた声を、紗枝は覚えていた。翌月ならどうか、と言われた。日を改めて確かめることになっていたか、既に候補を二つ聞いていたか。そこは曖昧だった。
だが、旅行そのものをやめようと言われたのではなかった。
「私、別の日があるって知らなかった」
結菜の言葉に、紗枝は顔を上げた。
「その頃、学校も忙しかったでしょう。何か行事があったのかもしれない」
「お母さん、覚えてるの?」
「はっきりとは」
「じゃあ、そこは今、決めないで」
娘は声を荒らげなかった。そのぶん、紗枝には返す言葉がなかった。
結菜は箸を置き、湯のみを両手で持った。飲まずに、少し回した。
「私、お父さんが行きたくなくなったんだと思ってた」
「仕事だって、説明したじゃない」
「うん。最初はそう聞いた。でも、そのあとも行かなかったから」
「結菜が、もう行かなくていいって言ったのよ」
それは覚えている。
リュックを押し入れにしまいながら、娘は行かないと言った。紗枝が聞き直しても首を振った。その顔を見て、これ以上がっかりさせずに済んだと、ほっとした。
「それ、別の日があるって聞く前?」
結菜が尋ねた。
紗枝は箸を皿に置いた。
「そこまで細かくは、覚えてない」
娘はしばらく黙っていた。窓の向こうを電車が通った。
「お父さんは、私がもう行きたくないって言ったから、しつこく誘わなかったって」
「……そう」
「私がそう言ったのは、たぶん本当だと思う」
結菜は、自分の言葉を一つずつ確かめるように話した。
「でも、約束した日に行けなくなったあと、何もなかった気がしてた。私だけ楽しみにしてたのかなって」
紗枝は、娘の湯のみを見ていた。
幼い結菜がどんな顔で帰宅を待っていたかを思い出した。予定が変わったと伝えると、娘は先に、じゃあ次はいつ、と聞いた。
紗枝は何と答えたのだったか。
お父さんは忙しいから。
今はまだ分からないから。
そのどちらも、口にした覚えがあった。
「もう一度、聞いてみる」
結菜が湯のみを置いた。
「何を?」
「お父さんに。今日、外だと周りが気になって、あんまりちゃんと聞けなかったから」
「そんな昔のことを、何度も聞かなくても」
娘の目が上がった。
紗枝は、自分の言葉の続きを探した。結婚の話をしに行ったのだから。せっかく久しぶりに会ったのだから。どれも、今言えば別の意味になりそうだった。
「お父さんも、困るでしょう」
「分からなかったら、分からないでいいよ」
結菜は静かに答えた。
「でも、私が違うふうに覚えてたなら、知りたい」
紗枝は返事の代わりに椀を持った。味噌汁はもうぬるかった。
残りの夕飯を、二人はほとんど話さずに食べた。結菜は自分の食器を運び、紗枝の分も持とうとした。
「置いといて。あとで洗う」
「今日、私がやるよ」
「いいから」
結菜の手が止まった。
紗枝は小さく息を吐いた。
「焼き網、つけておくから。一緒に洗う方が楽なの」
「分かった」
居間を出る前、娘は電子レンジの上の袋を見た。
「パン、明日の朝までなら、そのままで大丈夫だって」
「ありがとう」
戸が閉まってから、紗枝は食器を流しに重ねた。湯を出しても、すぐには洗い始められなかった。
別の日もあると、娘に伝えればよかった。
紗枝は蛇口を閉め、濡れた手を拭いた。
今夜も、できたはずだった。
食卓に置いていた電話を取り、康文とのやり取りを開く。直近の連絡は、数年前に結菜の荷物について確認したものだった。画面をさかのぼっても、娘が小学生の頃の言葉は出てこない。
紗枝は入力欄に触れた。
〈今日、結菜と何を話しましたか〉
打ってから、親指を止めた。
紗枝は文を消した。
代わりの文は浮かばなかった。
台所へ戻る途中、娘の部屋から低い声が聞こえた。電話をしているらしかったが、相手も、話の中身も分からない。
紗枝は戸の前を通り過ぎた。
明日のパンの袋を開き、口を折り直す。三つのうち一つだけ、焼けた縁が少し濃かった。自分はそれを食べようと思った。
袋を戻すと、指先に粉がついていた。紗枝は流しで洗い落とし、食器用のスポンジを取った。




