第2話 招待状の宛先
日曜の昼、食卓の端に置かれた紙袋には、三人分の弁当と、四つの焼き菓子が入っていた。
「数、間違えた?」
結菜が箱を開けると、和樹は紗枝の顔を見てから答えた。
「一つに絞れなくて。残ったの、明日にでも食べてもらえたら」
「うれしい。朝、甘いものがあると助かるの」
紗枝は菓子の箱を受け取った。手土産はいらないと伝えてあったのに、と言いかけた言葉をのみ込んだ。玄関でも同じことを言ったばかりだった。
和樹は椅子の横に立ったまま、上着の前を直した。
「改めて、結菜さんと結婚させてください」
「はい」
紗枝の返事が早すぎたのか、結菜が笑った。
「まだ途中だよ」
「途中なの?」
和樹も笑い、それから少し声を落とした。
「二人で相談して、来年の五月を目安に準備を進めたいと思っています。よろしくお願いします」
深く下げられた頭を見ているうちに、紗枝は膝の上で両手を重ねた。
「こちらこそ。結菜を、よろしくお願いします」
娘も隣で頭を下げた。その姿が、いつもなら食卓の向かいで朝食をかき込んでいる娘とうまく重ならなかった。
弁当のふたを外すと、焼いた魚の匂いがした。和樹は紗枝の苦手な物を結菜に聞いてから店を選んだという。結菜が、自分には何も聞かなかったのに、と不満そうな声を出す。
「結菜のは分かるから」
「じゃあ、この梅干しあげる」
「それは自分でよけて」
二人のやり取りに、紗枝は箸を持ったまま笑った。和樹の前で娘が無理をしていない。それを確かめられたことが、整った挨拶よりもうれしかった。
食後、結菜は鞄から薄い冊子を二冊出した。式場見学の時期を調べているらしい。
「ここ、人数が少なくても大丈夫なんだって」
紗枝が開いたページには、窓の大きい会食室が写っていた。
「きれいね。でも駅から遠くない?」
「送迎があるみたいです。そこも見学で聞いてみようかと」
和樹が答え、結菜の手元のメモを指した。既に聞くことがいくつも並んでいた。
料理のこと、着替える部屋のこと、雨の日の移動。紗枝が思いつくより前に、二人は具体的な話をしている。
「何人くらい呼ぶの」
「親族と、近い友達。仕事の人をどこまで呼ぶか、まだ相談中」
「こちらの親戚は、私がまとめた方が早いわね」
紗枝はメモ用紙を取った。姉の園子と、その夫。父方ではなく自分の側の親戚を順に思い浮かべ、名前を書きかける。
「まず名前だけ教えて。呼ぶ人は、二人で考えるから」
結菜は冊子を閉じずに言った。
「もちろんよ。連絡先が必要でしょう」
「うん。それは助かる」
紗枝は、書いた名の横に電話番号を加えた。和樹は自分の側の親族について、来るのに時間がかかる人がいると話した。結菜は、開始を早くしすぎないようにしよう、とメモを足す。
「お父さんも、帰りの電車は大丈夫そう?」
和樹に聞かれ、結菜はうなずいた。
「たぶん。でも、それも聞いてくる」
紗枝はペンの先を紙につけたまま、娘を見た。
「もう連絡したの?」
「昨日。今度の土曜、会えるって」
「どこで?」
「駅の近く。お昼食べる」
紗枝の知らない約束が、一つできていた。
「そう。お父さん、何て?」
「結婚の話は、まだしてない。会って話したいことがあるって送っただけ」
「何の話か分からなかったら、心配するんじゃない」
「うれしい報告って書いたよ」
結菜は和樹の方を向いた。
「そのあと、また三人で会えるか聞いてみるね」
「うん。休み、分かったら教える」
紗枝は親戚の電話番号を最後まで書いた。末尾の数字が一つ、少し大きくなった。
和樹は自分の休みを電話で確かめていた。紗枝は、書き終えた番号の下にもう一度線を引いた。
夕方、和樹が帰ると、結菜は食卓に残った冊子をまとめた。
「緊張してたね」
「感じのいい人ね」
「それ、前にも言ってた」
「前より思ったの」
紗枝が菓子を二つ皿へ載せると、結菜はお茶を入れ直した。やかんの湯はまだ熱かった。
窓の外では、線路沿いの草が傾いていた。夕方になると急に涼しくなる。紗枝が窓を閉める間、結菜は携帯電話を見ていた。
「お母さん。お父さんの住所って、今も前と同じ?」
「たぶん、そうだと思うけど」
紗枝は食器棚の引き出しを開けた。古い住所録は、保険の封筒や予備のはがきの下にある。
「招待状を出すの?」
「まだ先だけど、送るものも出てくるかもしれないし。連絡先、まとめておこうと思って」
「本人に聞いたら、すぐでしょう」
思っていたのとは逆の言葉が出た。
結菜が顔を上げる。紗枝は住所録を引き出して、慌ててつけ足した。
「古い情報かもしれないから。これ、ずっと使ってるし」
「うん。土曜に確認する」
紗枝は康文の名前のあるページを開いた。住所の頭に、以前はなかった小さな丸がついている。何かを送って、届いた印だったかもしれない。自分でつけた印なのに、思い出せなかった。
「写真、撮っていい?」
結菜が隣へ来た。紗枝は開いた住所録を渡した。
何年か前までは、娘に代わって自分が連絡をしていた。学校の予定、塾の日、風邪をひいたこと。康文からの返事を読み、必要なところだけ娘に伝えた。
住所録を持つ娘の手には、細い指輪があった。
「それ、和樹さんにもらったの」
「うん。引っかからない形にしてもらった。仕事中は外すけど」
「見せて」
結菜が左手を差し出す。紗枝は指に触れず、光る小さな石を見た。
「よかったね」
「うん」
結菜が住所を撮り、席へ戻りかけた時、紗枝は声をかけた。
「お父さんへの連絡、私からしておこうか」
「何の?」
「結婚すること。急に言われたら、あの人もびっくりするでしょう。式の話だって、こっちの事情を先に――」
「それ、私が話すよ」
結菜は椅子の背に手を置いた。
「会うって、もう決めたし」
「分かってる。そうじゃなくて、いろいろ説明するの、大変かと思って」
「何を説明するの?」
紗枝は住所録を閉じた。
「ほら、家のこととか。式に誰が来るかとか」
「まだ誰も決まってないでしょう」
娘の言うとおりだった。さっき紗枝が書いた紙も、候補の名前があるだけだ。
「お母さんが嫌なら、同じ日に会ってもらうようなことはしないよ」
「嫌だなんて言ってない」
結菜が椅子から手を離した。紗枝は閉じた住所録に目を落とした。
「結菜の好きにしていいのよ」
「……うん。でも、お父さんに話すのは私にさせて」
「ええ」
結菜は座り、冷めかけたお茶を飲んだ。紗枝も菓子の包みを開けた。甘い香りがしたのに、なかなか食べ始められなかった。
翌週の土曜、という日付だけが頭に残る。
娘が小学生だった頃は、康文と会う日に弁当を持たせたこともあった。帰ってきた娘が、途中でパンも買ってもらったと言い、紗枝は少し作りすぎたのだと思った。
行き先も、帰る時刻も知っていた。必要な支度をして送り出し、帰宅を待つのが自分の役目だった。
今度は、駅の近くで昼食を取る。それしか知らない。
「土曜、何時に帰る?」
また尋ねてしまい、紗枝は菓子を一口かじった。
「まだ分からない。ご飯、いらなかったら連絡する」
結菜はいつもの調子で答えた。
「分かった」
住所録を引き出しへしまうと、上にあったはがきが一枚落ちた。紗枝は拾い、白い宛名面を見てから戻した。
引き出しを閉めたあとも、紗枝はしばらく取っ手を握っていた。




