第1話 お父さんにも会うから
娘が結婚すると聞いた夜、野宮紗枝は茶わんを一つ割った。
洗う前の茶わんだった。夕飯の支度をしながら振り向いた拍子に、流しの縁にあったものへ肘が当たった。床で二つに分かれた白い器を、娘が先にのぞき込んだ。
「ごめん。食べてから言おうと思ってたんだけど」
「謝ることないでしょう。動かないで。そこ、細かいのがあるから」
紗枝は、娘の足元へ手を出した。
靴下だけの足が引っ込む。流しの下から新聞紙を取り出す間も、さっきの言葉は台所に残っていた。
娘の交際相手、永瀬和樹の名が、遅れて頭の中に浮かんだ。
和樹と、結婚しようって話になった。
その一言に返事をしていないことに気づいたのは、大きい破片を包んでからだった。
「いつ?」
「来年の五月くらい。式場、まだ決めてないけど」
「違うの。いつ、そういう話になったの」
娘は少し笑った。
「先週の日曜」
「一週間も黙ってたの」
「お母さん、今週ずっと帰り遅かったから」
紗枝は新聞紙を折る手を止めた。
勤め先で月末の請求が重なり、帰宅が八時を過ぎる日が続いていた。冷蔵庫に置いたおかずが減っているかを確かめ、娘が入浴している隙に洗濯機を回した。そうしている間に、娘は結婚することを決めていた。
結菜は、食卓の椅子を引いた。手には菜箸を持っている。
「何か手伝う?」
「座ってて。もうできるから」
そう言ってから、紗枝はようやく娘の顔を見た。
「おめでとう」
結菜が口を結んだ。目尻が下がり、いつもの笑い方になる。
「ありがとう」
紗枝も笑った。口に出すと、本当のことになった気がした。
鍋の火を弱め、別の茶わんを棚から出す。割れたものは、結菜が高校生の時に二つそろいで買った器だった。新しいのを買っておこうと思い、何個買うかで迷った。
娘が家を出たら、この台所で一人分をよそう。
「和樹さんは、ご両親に?」
「今日、電話してる。来週、二人で行ってくる」
「そう。じゃあ、こっちも来てもらわないとね。お休み、いつがいいかしら」
紗枝は冷蔵庫に貼った予定表を見た。来月の土曜には、地域の会館で開かれる催しの受付が入っている。勤め先から頼まれた仕事だった。あれは代わってもらえるかもしれない。
「お母さん」
「日曜ならだいたい大丈夫よ。外で食べる方がいい? 最初はうちに来てもらって、それから――」
「今、日を相談しようと思ってた」
結菜の声は怒ってはいなかった。それでも、紗枝は予定表に伸ばした指を下ろした。
「そうね。まず食べましょう」
食卓には、鶏肉と大根の煮物と、小松菜のおひたしが並んだ。お祝いと知っていれば、もっと別の物を買って帰ったのにと思う。
結菜は煮物を一口食べ、熱かったのか、小さく息を吸った。
「今日、これでよかった」
「何が?」
「外でご飯食べながら言うの、変に緊張しそうだったから」
「言ってくれたら、何か用意したのに」
「それが嫌だったんだって」
今度は二人で笑えた。
紗枝は、和樹が何と言ったのかを聞いた。結菜は、二人で新居の家賃を調べていたら、更新前に一緒に住もうという話になったのだと答えた。
「それがプロポーズ?」
「そのあと、ちゃんと別にあったよ」
「聞いてもいい?」
「そこは、まだいい」
結菜がご飯に目を落とした。紗枝は、それ以上聞かなかった。照れる娘を見るのは久しぶりだった。
和樹は二度、この家へ来ている。玄関で靴をそろえ、最初に出したお茶を両手で受け取った青年だ。二度目には結菜と台所に立って、紗枝の知らない段取りで皿を洗った。結菜が洗剤を足そうとすると、まだ大丈夫、と自然に止めていた。
結菜は洗い終えた皿を彼に渡し、場所を言わずに次を洗っていた。
「お金、足りるの」
「大きい式にはしないつもり。二人で出せる範囲で考えてる」
「少しなら、お母さんも出せるから」
「まだ金額、何も決まってないよ」
「決まってからじゃ遅いでしょう」
結菜の箸が止まった。
紗枝はすぐに、お茶を足そうと立ち上がった。急須のふたを押さえると、指先へ熱が伝わる。
「無理をしてほしくないだけ」
「うん。ありがとう。でも、一度二人で計算する。それから相談してもいい?」
「もちろん」
席に戻ると、結菜は鶏肉をほぐしていた。紗枝の茶わんが空に近いのを見て、炊飯器の方へ顔を向ける。
「お代わり、よそう?」
「自分でするから。食べて」
娘が幸せになる。その言葉だけで、明日の仕事も、秋の冷え込みも、どうにかなりそうだった。
小学校の卒業式で、結菜の靴の中に使い捨ての中敷きを入れたことを思い出した。体育館が寒いと聞いていた。朝には嫌がっていた娘が、帰り道には、あれ入れてよかった、と言った。その一言を、紗枝は長いこと覚えていた。
結婚式の日も、何か一つ、役に立てるだろうか。
「式場は京都の方?」
「たぶん。来てくれる人のこと考えたら、その辺がいいかなって」
姉の植村園子の顔が浮かんだ。結菜の入学の支度も、一緒にしてくれた。
「園子おばちゃんにも、知らせないとね」
「うん。日が決まってから私が連絡する」
「おばあちゃんの写真も持っていけるか、聞いておいて。小さい額なら家に――」
そこで結菜が、箸を置いた。
「あと、お父さんにも会うから」
台所で、冷蔵庫の動く音がした。
紗枝は、おひたしの器を食卓の真ん中へ寄せた。結菜の側に寄りすぎていたわけでもないのに、底の水滴が気になった。
「結婚のこと?」
「うん。ちゃんと会って伝える」
「電話で先に知らせておいたら。お父さんも仕事、忙しいでしょう」
「だから、会える日を聞くよ」
「和樹さんも一緒に?」
「最初は私だけ。そのあと、和樹にも会ってもらいたい」
娘が父に連絡するのは、初めてではない。年始には短いメッセージを送り、誕生日には返事が来ていた。紗枝が仲立ちしなくなってからも、そのくらいのやり取りはあった。
ただ、二人で会うという話を聞くのは久しぶりだった。
「そう。お父さん、喜ぶでしょうね」
言い終えてから、紗枝は娘の顔を確かめた。
結菜はうなずいたが、すぐには箸を取らなかった。
「式にも、来てほしいと思ってる」
「うん」
「まだ、どんな式にするか決めてないけど。来てくれるかどうか、聞きたい」
「それは、結菜の式だもの」
紗枝は、今度こそ間を置かずに答えた。
娘が息を吐いて、ご飯の残りを口に運ぶ。紗枝も煮物を食べた。大根はやわらかく煮えていたが、味がよく分からなかった。
食後、結菜が和樹へ電話するため部屋に入ると、紗枝は床に掃除機をかけた。破片はもう見えなかった。それでも、椅子をずらし、食卓の脚の裏までノズルを差し込んだ。
18年の間に、結菜と二人で暮らす部屋は二度変わった。家賃の安さで選んだ一階の部屋から、駅に近い今の部屋へ移る時、娘は窓から線路が見えると喜んだ。
ここでよかったと思ってきた。
結菜が学校へ通い、仕事を見つけ、好きな人と結婚するところまで来た。自分の選んだことは、大きくは間違っていなかったのだと、今夜くらいは思ってよいはずだった。
掃除機を止めると、娘の笑い声が壁を通して聞こえた。
紗枝は携帯電話を取り、連絡先を開いた。
18年前に離婚した相手、河合康文。その名前の下には、昔から変わらない番号がある。
結菜から連絡があると思います。
そこまで打ち、消した。
驚く顔が見たいのかもしれない。紗枝は入力欄が空になっているのを確かめた。
電話を伏せると、居間の戸が開いた。
「お母さん、明日のお昼どう? 和樹、来られるって」
「大丈夫。何が食べたいか、聞いておいて」
「買ってこようって言ってる。お母さんがゆっくり話せるように」
「そんな、気を使わなくていいのに」
結菜は笑って、戸を半分閉めた。
紗枝は卓上の予定表を引き寄せ、日曜の欄に「和樹さん」と書いた。丸をつけようとして、ペンを止める。
お父さんに会う日は、まだ聞いていなかった。
隣の空いた欄へ目をやってから、紗枝は予定表を元の場所へ戻した。




