第17話 父の席
二月の引っ越しの日、娘の部屋から、大きな荷物は思ったより短い時間で運び出された。
荷物を運び終えたあと、壁に四角い色の違いが残った。本棚を置いていた場所だった。結菜が窓を閉め、和樹が床に落ちていた小さいねじを拾った。
「これ、棚のかな」
「一応持っていく。向こうで分かるかも」
二人の会話を、紗枝は廊下で聞いていた。頼まれていた立ち会いは終わった。和樹に、残った荷物がないかと聞かれ、紗枝は押し入れも空いていると答えた。
「今日はありがとうございました」
「気をつけて。向こうで、無理して一日で片づけなくてもいいからね」
「うん」
結菜は鍵を返した。これからは連絡してから来るから、と言って、鍵につけていた小さい飾りだけ外して鞄へしまった。
紗枝は鍵を受け取り、玄関の引き出しへ入れた。
和樹が、トラックの方へ先に袋を運んだ。結菜は部屋に戻り、窓際のコンセントを見た。
「何か忘れた?」
「ううん。コードを外したか、最後に確かめただけ」
紗枝は部屋の入口に立った。空いた壁に、仕事の資料を置く棚が収まりそうだった。
「ここ、お母さんの仕事の資料とか置いていいからね」
結菜の方が先に言った。
「置いていく本は、あとでまとめる。部屋をずっとこのままにしなくていい」
「分かった。残ってる物だけは、勝手に捨てたりしない」
結菜はうなずいた。
玄関へ戻る前、娘は一度だけ部屋を見渡した。紗枝がその視線を追うと、壁の色の違うところで止まっていた。
「棚、こんなに長く置いてたんだね」
「越してきた時からだから」
「そっか」
それだけ言って、娘は外へ向かった。
玄関に出ると、和樹が空いた手で結菜の袋を受け取った。二人は一度手を振り、新居へ向かった。
その日から三週間ほどして、結菜は式の進行表を送ってきた。
当日の集合、挙式、会食。家族の写真を撮る時刻もある。紗枝の名前には、集合時間と、会食で座る卓が書かれていた。
康文の名は、挙式の入場のところにあった。
娘と並んで通路を歩く。
紗枝は、画面で進行表を拡大し、見つめた。
母が娘の身支度に加わる場面はなかった。父親と歩く前に、母親が何かを整える段取りもない。二人の選んだ式の形が、初めて具体的に見えた。
電話が震えた。結菜から、確認できたら返事がほしいと来ている。
紗枝は、分かりました、と送った。
進行表には、まだ確認中の箇所もあった。写真の組み合わせや、会食中に席を回る順番。紗枝が担当者へ電話をすれば聞けることもあるのだろう。
以前、娘が小さい頃には、学校から届く紙に必ず目を通した。分からなければ学校に聞き、娘が困らないようにしてきた。そのやり方が、まだ手に残っていた。
今日は、紙の上に書かれた自分の名前だけを確かめた。
その夜、ワンピースを出してみた。袖を通すと、肩はきつくなかったが、裾の長さが気になった。姿見の前で少し折り込み、まち針を打った。
鏡の中に、招かれた一人の女がいた。
そのことを受け入れたつもりで、紗枝は電話を取り上げた。康文へ、進行表は見ましたか、と打つ。
見たかどうかを知る必要はなかった。
入場の時、自分はどこから見ているのか。親族が何か言ったらどうするのか。康文が娘の横で笑った時、自分はどんな顔をすればよいのか。
その心配を、彼にも分けて持ってほしかった。
文を消し、裾のまち針を外した。
翌週、会場へ提出する連絡先の確認があった。結菜から、両親それぞれで間違いがないか確認してほしいと頼まれた。母を通して父と連絡を取る必要はないという。
紗枝は自分の欄を確認して返した。康文の番号も、長年変わっていないものだった。娘の表には、父の住所も正しく入っていた。
自分の古い住所録を開かなくても、結菜はもう知っている。
それでも夕方、紗枝は康文へ電話をした。
「連絡先、確認しました。娘から、そちらにも届いてますね」
「うん。返したよ」
そこで用件は済んだ。紗枝は台所の窓を見た。まだ外は明るかった。
「入場、一緒に歩くんですね」
「結菜に頼まれた。俺でいいのかって聞いたら、お父さんと歩きたいって」
紗枝は息をついた。
「練習とか、するんですか」
「当日、教えてもらうらしい。あまり歩幅を大きくしないようにって、結菜にはもう言われてる」
彼の声に、少し笑いが交じった。
「頼まれた時、何て答えたの」
「喜んで、って。それから、何をすればいいか教えてくれって言った」
紗枝は、返す言葉を探した。
娘に役割を頼まれて、うれしいと答える。難しいことではないはずなのに、元夫が先に母親の都合を確認しなかったことが、紗枝には新しかった。
「よかったですね」
言葉が少し遅れた。それでも康文は、うん、と素直に答えた。
「うれしいよ」
「歩く練習だけは、しておいた方がいいのかしら」
「結菜にも、二人で速くなったら困るって言われた」
紗枝は笑い、すぐに黙った。
自分がいないところで交わされた冗談がある。娘は父を選び、父はそれをうれしそうに話している。
「入場は、和樹さんとじゃ駄目なのかしら」
声にしてから、紗枝は机の端へ目を落とした。
「何で?」
「二人で始める式だし。その方が自然なことも――」
「俺と歩くのが、不自然だって?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どんな意味?」
紗枝は説明を探した。会場には和樹の親族もいる。娘の友人も、母と暮らしていたことを知っている。そこまで考えて、また言い方を探しているだけだと分かった。
「私が、見ていて、つらいかもしれないから」
康文は何も言わなかった。通話が切れたかと思い、紗枝は画面を見た。
「結菜が、俺に頼んだんだよ」
「ええ」
「歩くって答えた。あとで、紗枝さんが嫌ならやめる、とは言ってない」
紗枝は、すみませんと答えた。康文の返事はなかった。
「今の話、取り消します。結菜に、変えてほしいとは言わない」
「俺からも、変更を頼むつもりはない」
「はい」
電話が終わってから、紗枝はまち針の箱を開けた。一本、数が足りない。机の下へ落ちていないか、椅子を引いて探した。
ワンピースの裏に残っていた。抜いて箱へ戻すまで、電話をかけ直したいと思っていた。
その夜、結菜へ短い連絡を送った。
〈お父さんに、入場は和樹さんとでは駄目かと聞きました。断られました。私が見ていてつらいからと頼んだ。そんなことを頼むべきではありませんでした〉
最後の一文を書くのに、何度も前を消した。つらいのだと知ってほしい気持ちは、送っても残った。
しばらくして、娘から返事が来た。
〈変更しません。私がお父さんに頼んだので〉
紗枝は、はい、と返した。
〈当日、もう一度お父さんに言わないで〉
〈言いません〉
結菜からの連絡は、それで終わった。紗枝は返信欄を閉じ、ワンピースをハンガーにかけた。
三月になると、娘から席順の最終確認が来た。
紗枝は園子夫妻と同じ卓だった。康文は、娘たちの選んだ別の卓にいた。誰かを遠くへ追いやるような配置ではなく、会食室のどの席からも二人が見えるようになっている。
園子は、その席順を見て、当日は一緒に行こうかと連絡してきた。
「駅で待ち合わせよう」
紗枝が答えると、姉は、美容室に寄るから時間を決めよう、と言った。
紗枝は駅の時刻表を見て、美容室を出てから間に合う電車を提案した。
進行表を印刷し、冷蔵庫ではなく、自分の引き出しへ入れた。
夕飯の支度をしていると、娘から電話が来た。新居で使っている鍋が大きすぎて、少量の煮物を作りにくいという。
「小さい鍋、前に使ってたよね。買う時、どのくらいのがいい?」
紗枝は戸棚の鍋を出し、底の表示を確かめた。
「うちのはこれ。二人分なら、もう少し大きくてもいいかもしれない」
「そっか。和樹、よく食べるし」
娘はそれだけ聞き、礼を言った。紗枝は通話を伸ばさなかった。
紗枝は小鍋を洗い、一人分の味噌汁を作った。
鍋の火を止めると、紗枝は自分の分だけを椀によそった。




