第16話 招待してもいい、の意味
一月の終わり、結菜から、二人で話す時間がほしいと連絡が来た。
紗枝は日曜の午後を空けた。何を言われるかを考え、考えても分からないまま、家の掃除をした。
娘の部屋には入らなかった。居間の棚に残った物も、動かさなかった。台所を拭き終えると、することがなくなり、湯を沸かした。
結菜は時間どおりに来た。今日は大きい袋を持っていない。
「寒かったでしょう」
「うん。でも、電車は暖房で暑いくらいだった」
娘はコートを椅子へかけ、手を洗った。紗枝が茶を注ぐと、ありがとうと言って向かいへ座る。
これから始まる話が怖くても、この家に慣れた娘の動きは変わらなかった。
「式のこと、和樹と話した」
結菜が鞄から封筒を出した。まだ、紗枝には渡さなかった。
「お母さんにも、来てもらおうと思う」
紗枝は返事をした。したつもりだったが、声が出ていなかった。結菜が封筒を机へ置いた。
「お母さん?」
「はい。行きたい」
娘はうなずいた。紗枝の手が封筒へ伸びる前に、結菜が続けた。
「でも、招いたから、全部終わりにはしないで」
「うん」
「私、来てもらうって決めてからも、嫌になる日がある。お母さんの声を聞くと、あの話を思い出す日」
結菜は封筒の角を押さえた。
「今日も来る前、和樹に、お母さんの顔見て決められなくなったらどうしようって言った」
「そんなに無理なら」
「無理して招くって言ってない」
紗枝は口を閉じた。娘は一度息をつき、少し声を落とした。
「ごめん。私も、うまく言えない。来てほしいと、平気になったは、違うんだよ」
紗枝は手を膝に戻した。娘は同じ説明をするために来たのではない。そのことだけは、もう分かっていた。
「招いてくれて、ありがとう」
結菜が封筒を押した。紗枝は、ようやく受け取った。
宛名は、野宮紗枝様、と印刷されていた。手に取ると、厚みのある紙が指に当たった。
自分が親戚の名前を先に書き始めた日には、この一通を受け取れるかどうか考えもしなかった。
「席は、お父さんと別にする。待つ場所も、必要なら別にしてもらう」
「お父さんには、私がそうしてほしいって言ったの?」
「私たちが決めたって、話した」
「うん」
「挨拶とか、式で何をしてもらうかも、私たちで決めたい。親の役目だからって、あとから増やさないでほしい」
紗枝は招待状を見たまま、返事をした。
「特別に何かをさせて、とは頼まない」
「あと、過去の話を当日しないで。お父さんに謝るために呼び止めたり、私に手紙を読ませたり」
紗枝は顔を上げた。娘は、母がしそうなことを一つずつ考えてきたのだった。
「しません」
「私の友達に、私をよろしくって言うのはいい。でも、お母さんも寂しいんだよって、私のことを頼まないで」
胸の奥が痛んだ。
冗談の形なら言えたはずの言葉だった。娘の友人に、たまには帰るよう言ってねと頼む自分を、すぐに想像できた。
「分かった」
結菜はお茶を飲んだ。言い終えるまで、手をつけていなかった。
「当日、もし何かあって席を外したくなったら、自分で係の人に伝えてほしい。私を探したり、和樹を呼んだりしないで」
「園子もいるし、大丈夫。困ったら、係の方に言う」
「うん。当日は、私、お母さんのことばっかり見てられないから」
「見てなくていい」
言ってから、紗枝は封筒を握る手をゆるめた。結菜が縁のしわを見たからだった。
「私も、余裕ないと思う。写真で笑ってる時でも、誰かの顔まで見て、考えられないかもしれない」
娘の声は小さかった。
「うん」
結菜は空になった湯のみを置いた。紗枝が足そうかと聞くと、少しだけ、と答えた。
湯を注ぐ間、二人とも黙っていた。
「服は、どうしたらいい?」
「会食はあまり大きくしないけど、親族は落ち着いた服でお願いしてる。お母さん、前に着た紺のワンピース、使える?」
「使えると思う。少し直せば」
「無理なら、別の物でもいい。着付けとかは必要ないから」
紗枝は、母親としてもっと正式な装いにするつもりだった。娘の支度を手伝い、自分も早い時間から式場へ入る。そんな姿を思い描いていた。
「集合の時間も、招待状のとおりでいい?」
「うん。頼みたいことができたら、その時に聞く」
「分かった」
封筒から中の紙を出すと、会場の地図が入っていた。駅からの道順と、送迎の案内。娘の新居の方へ向かう路線も、小さく地図に入っている。
「お父さんにも、もう送ったの」
尋ねてから、紗枝は娘を見た。
結菜は答えるかどうか迷った様子もなく、うん、と言った。
「お父さんとは、別に連絡してるから。席とか服とか、お母さんが確認しなくて大丈夫」
「はい」
結菜は引っ越しの日程を話した。二月の初めに荷物を運び出し、新居で暮らし始める。二人で使う家具は、先に届けるという。
「玄関と廊下、空けておけばいい?」
「うん。あと、引っ越し当日の朝、私の部屋の窓を開けておいてくれたら助かる」
「分かった」
頼まれたことは、書いておこうと思った。紗枝がメモ用紙を出すと、結菜は引っ越しを始める時刻を読み上げた。
食卓に二人で紙を広げている。それだけで、元に戻ったような気がしてしまう。紗枝は、メモに引っ越しの用件だけを書いた。
「和樹さんにも、ありがとうって伝えて」
言ってから、紗枝は続けた。
「引っ越しの日のこと。二人で段取りしてくれて」
結菜が、少しだけ笑った。
「分かった。お母さんが言葉を考えてるのは分かる。でも、全部、言い直さなくてもいいよ」
「ごめん」
「それも」
紗枝はうなずいた。
娘はコートを着る前に、部屋を少し見てくると言った。紗枝は居間で招待状を読み返した。
日時、場所、二人の名前。親の名前を並べて出した招待状ではなかった。娘と和樹が、自分たちの式へ紗枝を招いている。
結菜が戻ると、片手に薄いマフラーを持っていた。
「これ、探してた。ここにあったんだね」
「前に置いていった時、椅子にかけておいた」
「そうだった。ありがとう」
紗枝は微笑んだ。娘はマフラーを首に巻き、襟の内側へ端をしまった。
玄関で、結菜が振り返った。
「返事は、はがきでもらってもいい?」
「もちろん。期限までに出します」
「うん」
娘が帰ると、紗枝は返信用のはがきを取り出した。出席のところに印をつけ、名前と住所を書いた。
余白へ、呼んでくれてありがとう、と書きかけて止める。さっき伝えたばかりだった。
二人の新しい門出を楽しみにしています。
短く書き、ペンを置いた。
自分が出席してよいのか、翌日もう一度聞きたくなるかもしれない。それでも、このはがきを出したら、娘の決めたことを疑って確かめ続けるのはやめようと思った。
翌朝、紗枝は出勤の途中でポストへ寄った。
投入口の金具にはがきが触れた。紗枝は指で押し込み、はがきが落ちる音を聞いた。
それから、駅へ歩いた。




