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娘が結婚する日まで、私は嘘をついていた  作者: 雨宮 弦


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18/18

第18話 三時の待ち合わせ

 三月の土曜日、紗枝が冷蔵庫の残り野菜を切っていると、結菜から電話があった。


「今日、お父さんに会うことにした」


 包丁を置いた。式場へ行く日だったかと聞きかけると、結菜が先に言った。


「私が誘ったの。三時に駅で会うだけ」


 紗枝は窓の外を見た。雨は朝から細く降り続いている。


「駅って、どっちの出口?」


「西口の予定」


「西口は工事中だよ」


「じゃあ、お父さんに聞いてみる」


 紗枝は通話の履歴を見た。康文の番号はすぐに出せる。西口に行かないよう伝えるだけなら、短く済む。結菜から聞くと言われたばかりなのに、自分のほうが先に教えられることを探していた。


 棚の上には、結菜が引っ越した日に置いていった合鍵の受け皿がある。鍵を返してもらった日から、何も載っていない。紗枝は画面を閉じ、携帯をそこへ置いた。夕飯の時間も聞かなかったことに、遅れて気がついた。娘が引っ越してからは、自分の分だけ作ればよかった。


 電話が切れたあと、まな板の上のにんじんを全部、同じ薄さに切った。


 小学校の高学年になった頃、結菜は康文と会う日が近づくたび、同じようなことを聞いた。何時に帰ればいい。お母さんはその間、何してるの。紗枝は一人で買い物に行くから平気だと答えた。買い物から戻ると、結菜が出かけたままの家には、テレビの音をつけておいた。


 ある日、帰ってきた結菜が紙袋を差し出した。康文と入った店で選んだという、小さな丸いパンが二つ入っていた。


「お母さんも食べる?」


 先に出たのは、ありがとう、ではなかった。


「お父さんは何て言ってた?」


 何について聞かれたか分からず、結菜は紙袋の口を広げたまま首をかしげた。紗枝は袋を受け取り、「何でもない」と言った。パンには砂糖がまぶしてあった。夕飯のあとで一緒に食べた。それでもあの日を思い出すと、娘に最初に何を聞いたかを思い出す。パンの味より、そちらのほうがはっきりしていた。


 *


 家を出る前、結菜は和樹に、夕飯までには帰ると思う、と言った。和樹は台所で米を量っていた。


「遅くなりそうなら送るね」


「うん。先に食べてるかもしれないけど、結菜の分は置いとくよ」


 それを聞いて、結菜は時計を見た。まだ約束の一時間以上前だった。何時に帰るか決めてしまえば、向こうで会話が止まったとき、切り上げる理由にできる。けれど、話が途中だったら、時計を気にしながら続きを聞くことになる。


「やっぱり、何時になるか分からない。店に入ってから決めていい?」


「いいよ。米はどっちでも炊くし」


 和樹が計量カップを傾けた。乾いた米の音がした。結菜は傘を取って玄関を出た。


 駅に向かう途中で、父から連絡が来た。


〈西口は工事で通れないらしい。改札の前でいい?〉


〈うん。着いたら連絡する〉


 送ってから、結菜は一つ前のやり取りを開いた。父と会う日を決めるとき、待ち合わせの場所は父に任せようとしていた。父は「結菜が帰りやすいところは?」と聞き返してきた。結菜がこの駅を選ぶと、父は路線図を見たらしく、出口の名前まで送ってきた。結局、その出口は使えなかった。次は改札で、と二人で決めれば済む話だった。


 小さい頃は、父と何時にどこで会うのか、母が紙に書いて冷蔵庫に貼った。自分の予定なのに、母の字で書いてあった。あとから時間が変わると、母は古い時刻に線を引き、余白に新しい時刻を書いた。線の下の数字は読めた。父が時間を変えたのか、母が変えたのかまでは、紙を見ても分からなかった。


 〈着いたら連絡する〉の下に、父から〈了解〉と返ってきた。結菜は携帯を上着のポケットに戻した。


 三時を過ぎてから、結菜は駅の改札のそばで父を見つけた。康文は傘を閉じたまま、券売機の前を行く人をよけて立っていた。


「ごめん。工事の案内に沿って歩いてたら、遠回りした」


「俺も。階段を一つ間違えた」


 結菜は式の資料をかばんに入れてきた。話に困ったら出すつもりだった。


「どっか入ろうか」


「うん。駅の外、少し歩いてもいい?」


 建物を出ると、向かいの店の軒までが思ったより遠かった。結菜が傘を開くと、康文も自分の傘を開いた。向こうから来た人をよけて、二人はいったん離れた。歩道が広くなったところで、結菜はまた隣に戻った。


 途中で康文が、駅前にも座れる店はあった、と言った。結菜は店に入りたくないわけじゃない、と答えた。外を歩きたかった理由は、父に言ってから自分でも分かった。向かい合って座ると、相手の返事が来るまで待つしかない。歩いていれば、まだ言葉が見つからなくても、次の角まで行ける。


「仕事の帰りも、この駅使うの?」


「前はね。いまは一つ先まで乗る」


「仕事、変わった?」


「会社は同じ。行く先が変わった」


 聞けば、それだけの話だった。昔は父の仕事を聞かれても、会社に行っているとしか答えられなかった。いまの自分の仕事だって、父から見れば同じかもしれない。


「私も、春から職場の席が変わるよ。仕事は同じだけど、窓の近くになる」


「窓、開くの?」


「開かない。でも空が見える。今の席からは壁しか見えないから」


 父が「それはいいな」と言った。父がよかったと言ったのは、結婚や仕事の話そのものではなく、窓の近くに座れることだった。結菜は、父に何を話すか考えていたとき、こんなことを話すとは思わなかった。


 横断歩道で止まると、通りの向こうに食事の写真を貼った店が見えた。父がそちらを見ていたので、お昼を食べたか聞いた。康文は食べたと答え、結菜にも聞き返した。二人ともお茶だけでよさそうだった。


 信号が青に変わった。歩きだす前に、結菜は言った。


「私、今日、式の打ち合わせじゃないつもりで呼んだ」


「うん」


「でも、何から話せばいいか決めてない」


「じゃあ、まず座るところを決めよう」


 康文が指した店の窓に、空いた席が見えた。結菜は店の手前で傘を閉じた。父が後ろから来る足音を聞きながら、自分で先に戸を開けた。

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