第九章 現魔王と長男の決意
転生者(勇者)軍勢によるセフティーヌ学園強襲事件は、魔王国ヴォルクレイスの歴史において、過去に例を見ない衝撃と教訓を刻み込むこととなった。異界の神から授かったとされる『チートスキル』と『現代兵器の知識』を振りかざし、魔王国の誇る精鋭部隊や防衛結界師団を瞬時に壊滅せしめた勇者タカシ以下五百名の軍勢。彼ら無敵を誇ったはずの脅威が、たった一人の十二歳の少女シャルレット・ル・トロイの手によって、血一滴流されることもなく、あたかも『庭の草むしり』や『部屋のお掃除』のごとき手軽さで完膚なきまでに無力化されたという事実は、瞬く間に魔王城の深部へと打電されたのである。その報せを受けた魔王城は、今やかつてないほどの緊張感と静寂に包まれていた。魔王城最上階、重厚な漆黒の扉に閉ざされた『決断の謁見の間』。 普段であれば、国の存亡をかけた最高幹部会議の場として用いられるその大空間に、選りすぐりの重鎮たちのみが集められていた。最奥の玉座に鎮座するのは、現魔王ヴァルディス・ル・トロイ。その右手には、魔王軍総司令官にして魔王家の長男ゼノヴィア・ル・トロイが重厚な漆黒の甲冑に身を包み、腕を組んで佇んでいた。そして玉座の前には、学園防衛戦から直ちに戻った魔王四天王たちの姿があった。
火の四天王カルミラは、未だにニヤニヤとした笑みを崩さず、どこか興奮冷めやらぬ様子で腕を組んでいる。風の四天王ヴェルナーは、心身ともに疲弊し切った面持ちで右腹を押さえ、絶え間なく胃薬の粉末を水なしで飲み込んでいた。水の四天王ジークフリートは、新調したばかりの片眼鏡のフチを指先で押し上げながら、手中にある魔力測定結果の羊皮紙を凝視している。「……ジークフリート。もう一度、報告を試みよ」 現魔王ヴァルディスが、深く低い声で命じた。その威厳ある声には、隠しきれない困惑と畏怖の色が滲み出ていた。「はっ」 ジークフリートは一歩前に出ると、羊皮紙を広げて静かに口を開いた。「現場となったセフティーヌ学園第九演習場、および正面門付近における魔力残留波長の解析結果です。……結論から申し上げますと、シャルレット様がご使用になられた『お手伝い魔法』と称される術式は、既存のあらゆる魔術体系、古代禁呪、並びに神話時代の神威術式とすら一致いたしません」「一致せぬ、とはどういうことだ?」長男ゼノヴィアが、冷徹な眼光をジークフリートへ向けた。「文字通りの意味にございます、ゼノヴィア様。既存の魔術とは『大気中の魔力を集束し、理論に基づいて現象へ変換する作業』でございます。しかし、シャルレット様の術式は……現象そのものを上書きし、相手の構成概念を『無』へと巻き戻す……言わば、この世界の理そのものを書き換える権限の行使でございます」ジークフリートは一度言葉を切り、喉を鳴らした。「勇者タカシらが誇っていた『チートスキル』とは、異界の神がこの世界の法則に無理やり割り込ませた『概念のバグ(不具合)』のようなものでした。シャルレット様は、それをただ『正しく結び直した』……。彼女にとってあの戦いは、戦闘ですらなく、ただの『歪んだ空間の修正作業』に過ぎなかったのです」謁見の間に、死よりも重い静寂が降り積もる。「ガハハハハ!だから言ったろ!」その静寂を破ったのは、火の四天王カルミラであった。彼女は豪快に胸を叩き、謁見の間の天井を仰いだ。「あの小娘……いや、シャルレット様は別格なんだよ!俺たちが何百年かけて鍛え上げた武技も、魔王家が誇る血統の秘術も、あの御身の前じゃ『おままごと』以下だ! 敵として回ればヴォルクレイス皇国どころか世界が数秒で消滅するが、味方でおわすならこれほど頼もしいお方はいねえぜ!」「カルミラ……口を慎め……」ヴェルナーが胃を押さえながら掠れた声を上げた。「我がバカ息子の件も含め……我がシャプティーナ家は……毎夜あの少女が手拍子一つで我が屋敷を消し去る夢を見て夜も眠れんのだ……。もしあの御方が本気で怒りでもしたら……我が国は『綺麗にお掃除』されて終わるのだぞ……」「ヴェルナー、お前は少し考えすぎだ。シャルレット様は至って純真で心優しいお方だぞ? 現に、傷ついた生徒や校舎をすべて完璧に元通りに直してくださったではないか」ジークフリートが淡々と補足するが、ヴェルナーの恐怖を和らげるには至らなかった。
その時、ずっと沈黙を守っていた長男ゼノヴィアが、静かに一歩前に踏み出した。重厚な甲冑が金属音を立てる。 ゼノヴィア・ル・トロイ。現魔王ヴァルディスの長男にして、次期魔王の第一候補と目されてきた男である。彼は冷徹な戦術家であり、自他共に認める厳しい努力家でもあった。父ゴーゼルの失踪後、衰退の危機にあった魔王軍を建て直し、四天王を束ねてきたのは他ならぬゼノヴィアの功績であった。「……父上」ゼノヴィアは玉座のヴァルディスに向かい、深々と膝を突いた。「ゼノヴィアよ、何をする」「報告を聞き、確信いたしました。……我が妹、シャルレット・ル・トロイこそが、先代魔王ゴーゼル様のお教えを正しく引き継ぎし、真の魔王家を超越した『絶対なる絶対者』にございます」ゼノヴィアの声には、一切の迷いも、嫉妬すらも存在しなかった。あるのは、圧倒的な事実に対する冷徹なまでの納得と、溢れんばかりの忠誠心であった。「私はこれまで、自らが次期魔王としてこのヴォルクレイス皇国を統べるべく、あらゆる剣技を修め、あらゆる魔術理論を叩き込んできたつもりでございました。……しかし、それはあまりにも浅薄な自負に過ぎなかった」ゼノヴィアは頭を垂れたまま、言葉を続ける。「理外の脅威であった転生者どもを前に、我が弟レオンハルトも、妹クレアも膝を突き、我が軍の精鋭すら全滅の危機に瀕した。それを、シャルレットは……わずか十二歳の身でありながら、手拍子一つ、雑巾がけのごとき動作一つで踏みにじってみせた。これはもはや、力の優劣などという次元の話ではございません。『格』が、根本から違うのです」ゼノヴィアの言葉に、謁見の間中の重臣たちが息を呑んだ。 次期魔王の筆頭であったゼノヴィア自身が、自らの敗北と格の違いを、これほどまでに完璧に認めたのだ。「ゼノヴィア……お前は、自らの継承権を放棄し、シャルレットを推すというのか?」ヴァルディスが問いかける。「当然にございます、父上」ゼノヴィアは力強く顔を上げた。その瞳には、熱い決意の光が宿っていた。「我が一族の使命は、魔王国の繁栄と、血統の至高なる力を示すことにございます。シャルレットこそが、伯父ゴーゼル様の遺した最高傑作であり、我がヴォルクレイスの未来そのもの。私が魔王の座に就くなど、至高の存在に対する不敬に他なりません。私は本日限りを持ちまして次期魔王候補の座を辞退し、シャルレット様を『真の魔王後継者』として擁立することを、ここに宣言いたします!」おお……と重臣たちの間からどよめきが巻き起こった。
四天王カルミラは「ハハッ! いさぎよいねえゼノヴィア!」と満足そうに頷き、ジークフリートも深く首肯した。ヴェルナーに至っては、「これで……シャルレット様が魔王になられれば、我が一族への報復も……避けられるかもしれん……」と安堵の息を漏らしていた。ヴァルディスはゆっくりと玉座から立ち上がった。その身からあふれ出る魔王の威圧感。しかし、その内面には、一人の父親としての、そして一人の王としての苦悩と歓喜が入り混じっていた。かつて、圧倒的な強さとカリスマで魔王国を支配していた兄、ゴーゼル・ル・トロイ。ヴァルディスは兄の陰に隠れ、兄が失踪した後に繰り上がりで魔王の座に就いた。自分が兄に及ばないことなど、誰よりもヴァルディス自身が理解していた。そして今、兄が山奥で育て上げた実の娘シャルレットが、兄をも遥かに凌駕する天災的な力を携えて目の前に現れたのだ。「……ゼノヴィアよ。お前の決意、見事である」ヴァルディスは静かに、しかし力強く宣言した。「私とて、あの学園防衛戦の映像を記憶水晶で確認した時、全身の血が凍りつくような衝撃を受けた。……あの力は、人が、魔族が至ることのできる領域ではない。まさに神代の絶対者……『真なる魔王』の再来と言えよう」ヴァルディスは歩み寄り、膝を突くゼノヴィアの肩に手を置いた。「伯父ゴーゼルは、自らの娘に『世界を支配する力』を与えたのではない。『当たり前の日常を楽しむための力』として、あの絶大な神威を授けたのだ。……シャルレット本人は、己がどれほどの力を振るったのか、今なお一微塵も理解しておらんのだろうな?」その問いに、四天王全員が苦笑いを浮かべた。「当然にございます、父上」とゼノヴィア。「シャルレット様は学園の者たちに対し『お掃除がお役に立てて良かったです』と、純粋な笑顔でお話しされていたとのこと。……その無自覚さこそが、最大の脅威であり、同時に最大の救いでもございます」「うむ……」ヴァルディスは深く頷いた。「シャルレット・ル・トロイを、我がヴォルクレイス皇国の『正統なる魔王後継者』として正式に指名する。ただし――」ヴァルディスは言葉を区切り、重臣たちを見渡した。「シャルレット本人の純粋な学園生活を害することは決して許さん。彼女に『お前は魔王の後継者だ』と直接突きつければ、あの子は困惑し、また『普通のお手伝い』で城ごと我が国を綺麗にお掃除してしまうかもしれんからな」「……御意にございます」重臣たちが一斉に冷や汗を流しながら平伏した。「ゼノヴィアよ。お前には今後、シャルレットの後見人、および『筆頭護衛将軍』の任を命じる。シャルレットが学園で伸び伸びと過ごせるよう、影から全力で支えるのだ。そして、いずれ彼女が自らの力と立場を正しく自覚したその時……正式に魔王の冠を授けることとしよう」「ははっ!このゼノヴィア・ル・トロイ、命に代えましてもシャルレット様の平穏と、我が国の未来をお守りいたす所存にございます!」ゼノヴィアは深く頭を垂れ、その心に新たなる誓いを打ち立てた。自分が目指すべき道は、王になることではない。あの純粋で、規格外で、世界で最も恐ろしくも愛おしい妹シャルレット・ル・トロイという『絶対なる太陽』を、影から支える最強の盾となることなのだと。
その頃――セフティーヌ学園の女子寮。
自分が魔王国の最高幹部たちによって「真の魔王後継者」に認定され、長男ゼノヴィアが誓いを立てていることなど、シャルレットは露ほども知らなかった。「う~ん……やっぱり、お掃除の後はすっきりしますね!」シャルレットは小綺麗な部屋のベッドの上で、可愛らしいパジャマに身を包み、ぬくぬくと毛布にくるまっていた。肩の上では、三十センチメートルの漆黒龍ル・レットが丸くなり、気持ちよさそうに小さな寝息を立てている。「ル・レット様、今日はお外でお友達(勇者様たち)とお掃除ができて、とっても楽しかったです」『む……シャルレットよ、お前は少し手加減というものを覚えるが良い。あの人間どもはあまりのショックで魂が抜けかけておったぞ……まあ、余としては不快な虫ケラが掃除されてせいせいしたがな』「ふふ、ル・レット様は相変わらずお優しいですね。明日もまた、学園でたくさんの新しい『普通のお勉強』ができるといいですね」シャルレットは満足そうに微笑むと、すやすやと可憐な寝息を立て始めた。少女の無自覚な神威は、知らず知らずのうちに魔王国の未来を決定づけ、世界そのものを彼女の「普通」の色彩へと塗り替えていく。ヴォルクレイス皇国の新たなる時代『シャルレットの時代』は、こうして誰にも阻まれることなく、静かに、そして圧倒的に幕を開けたのであった。




