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第二章 契約とマスコット降臨

 ヴォルクレイス皇国の首都上空は、恐慌という名の暗雲に呑み込まれていた。天を覆い尽くすのは、漆黒の翼。一匹一匹が城砦を一夜にして崩壊させるほどの威容を誇るドラゴン。それが数百、数千という大群をなし、セフティーヌ学園の上空を完全に包囲していた。大気を震わせる不穏な羽音と、咆哮の轟音。学園の生徒も、精鋭たる教師陣も、誰一人として動くことができない。ただ青ざめた顔で天空を見上げ、死の訪れを待つ地獄の絵図がそこにはあった。「ひ……ひえええええっ……!?」「な、なんだあの龍の群れは……!?世界の終わりか!?」特進クラスの教室では、先ほどまでシャルレットを「野良魔族」「大嘘つき」と見下していたアールト・シャプティーナが、ガタガタと膝を打ち鳴らして床に崩れ落ちていた。その両脇にいた取り巻きの生徒たちに至っては、白目を剥いて失禁寸前である。だが、その破滅的な光景の渦中で、ただ一人――シャルレット・ル・トロイだけが、爛々とした瞳で空を見上げていた。



 「わあ……!ル・レットお祖父様だけじゃなくて、山のご近所さんたちもみんな来てくださったんですね!」シャルレットは嬉しそうに窓枠へ足をかけ、無邪気に手を振った。その純粋無垢な笑顔と、窓の外に広がる末世的な絶望感のギャップに、周囲の生徒たちは恐怖を通り越して脳の理解を拒絶し始めていた。その頃、学園の広大な中央広場には、ヴォルクレイス皇国の最高権力者たちが集結していた。「……何という魔圧だ。これが……伝承に謳われし神話の災厄、『漆黒龍のル・レット』の真の姿か……!」重々しい声を漏らしたのは、現魔王ヴァルディス・ル・トロイである。その周囲には、急報を聞きつけて駆けつけた魔王四天王たちの姿があった。「ヴァルディス様!全軍に迎撃の陣を敷かせますか!?」声を荒らげたのは、第一軍総司令官を務める火の四天王、カルミラ・ヴァルハイト(十八歳)であった。最年少にして第一軍を率いる彼女の鋭い瞳には、戦慄と、それを上回る武者震いが宿っている。「無駄じゃ、カルミラ」重厚な声を響かせたのは、土の四天王ボルドー・グランヴァル(五十八歳)だ。老将の頑強な皮膚に、冷や汗が幾筋も伝う。「我が『金剛要塞』の絶対防御を以てしても、あの頭上に君臨する王龍の一撃どころか、周囲の配下どもが一斉に息を吐くだけで、この首都ごと消滅する」「お言葉ですがボルドー殿、理論上は……いいえ、計算するだけ無駄ですね」水の四天王ジークフリート・メルヴィル(二十八歳)が、眼鏡の奥の切れ長な目を細め、絶望的な数値を吐き捨てた。「我が国の総魔力量を以てしても、あの群れの一%の魔力に満たない。……手詰まりです」「くっ……!アールト……無事なのか……!?」風の四天王ヴェルナー・シャプティーナ(四十二歳)は、学園の校舎を見上げて青ざめていた。息子の身を案じつつも、胃を締め付けるような激痛に耐えるのが精一杯であった。



 天と地が完璧に分断された緊張感の中、上空の巨龍。漆黒龍のル・レットが、緩やかにその巨大な頭部を地上へと下げてきた。一過性の風圧だけで、学園を取り囲む三重複合結界がバリバリと音を立てて亀裂を生んでいく。『――現魔王ヴァルディスよ』脳内に直接響く、太古の神威を帯びた思念波。それだけで、周囲の並の兵士たちが次々と眩暈を起こして倒れ伏した。『余の愛しきシャルレットを、このような卑小な檻に閉じ込め、謀殺せんとするか。兄ゴーゼルを死に追いやり、今度はその愛娘までをも害しようというのなら……今この瞬間を以て、ヴォルクレイス皇国を地図上から消滅させてやる』殺意。あまりにも圧倒的な、理不尽なまでの破滅の意思。現魔王ヴァルディスは唇から血を流しながらも、一歩前へ踏み出し、必死に声を張り上げた。『待たれよ、漆黒龍!私とて兄者の遺志を継ぎ、シャルレットを正しく学ばせるためにここに呼んだのだ! 彼女を害する意図など毛頭ない!』『戯れ言を。シャルレットは純粋ゆえ、お前のような不実な者に騙されておるだけじゃ。……シャルレットよ、戻るぞ。お前をこのような不毛な地上に置いておくわけにはいかん』ル・レットがその巨大な爪を掲げ、空間そのものを切り裂こうとした――その時であった。



「ル〜〜〜〜・レ〜〜〜〜ッ〜〜〜〜〜〜〜〜様〜〜〜〜っ!!!!」



 甲高い、しかしどこか朗らかな叫び声が響き渡った。学園の三階の窓から、一人の少女が勢いよく飛び出してきたのだ。「シャ、シャルレット!?」ヴァルディスが驚愕の声をあげる。シャルレットは落下しながら、空中でくるりと可憐に一回転すると、何もない空間の「結び目」を踏み台にしてトントンと蹴り、まるで階段を駆け下りるかのような軽やかさで地上へと降り立った。その着地の美しさと、空間干渉のデタラメさに、水の実力者ジークフリートが「……は?」と呆け声を漏らす。シャルレットはそのままトコトコと巨龍の鼻先まで歩み寄ると、腰に手を当ててペシッと巨龍の鱗を叩いた。「ダメですよ、ル・レット様! お見送りに来てくださったのは嬉しいですけれど、そんなに大暴れしてお友達(他のドラゴンたち)まで連れてきてしまっては、学園の皆様が困ってしまいます!」『ぬ……?しかしシャルレットよ、お前は騙されておるのだぞ?この魔王めはお前の父を裏切り――』「お父様は最後に『正しく学べ』とおっしゃいました!私、ここでたくさんお勉強をして、立派で普通の魔族になりたいんです!だから、ここは私の意志で決めた場所です!」真っ直ぐで、一片の濁りもないシャルレットの瞳。それを見た漆黒龍ル・レットは、ぐぬぬ……と唸り声を上げた。『だ、だがじゃな……お前を一人にしておくなど、余の気が気でないのじゃ。万が一にも、この有象無象どもがお前に不敬を働いたらどうする』「大丈夫です!皆様とってもお優しい方ばかりですもの!さっきもアールト様が、私の着ているお洋服を褒めてくださったばかりです!」教室の窓からそのやり取りを見ていたアールトは、「褒めてない!!ただ見下そうとしただけだ!!」と心の中で絶叫し、己の失言(とシャルレットのポジティブすぎる誤解)が世界を滅ぼしかけている恐怖に失神した。『うぐぐ……そこまで言うのであれば……むむむ……』巨大な黒龍は、大きな溜息をついた。その吐息だけで周囲の温度が五度上昇する。『分かった。お前の熱意に免じて、今はこの国を滅ぼすのは留保してやろう。……ただし!余がお前の一番近くで見守る。これだけは譲らんぞ』「え?でも、ル・レット様はそんなに大きいから、教室に入れませんよ?」『フン、余を誰だと思っておるのだ』ル・レットがくくっと喉を鳴らした瞬間、天を突くほどの巨躯が、まばゆい漆黒の光に包まれた。 光はみるみるうちに凝縮し、小さくなっていく。 空を埋め尽くしていた数千のドラゴンたちも、主の合図を受け取ると、一斉に翻転して遥か彼方の『神絶ちの峰』へと引き返していった。そして、光が収まった時――。シャルレットの掌の上に、ポスンと一匹の「何か」が降り立った。「……あら?」そこにいたのは、頭から尻尾まで合わせても三十センチメートルほどしかない、手のひらサイズの可愛らしい子供の黒龍であった。つぶらな紫色の瞳、丸みのある頭部、パタパタと可憐に羽ばたく小さな翼。『ふむ。この姿ならば、お前の肩に乗って共に学園生活を送れよう』可愛い見た目に反して、声だけは重厚な老竜のままである。「まあ! ル・レット様、とっても可愛らしいです!まるでマスコットみたいですね!」『む、無礼者め。余は神話の王龍じゃぞ……まあ、お前に撫でられるのは悪くないが……』シャルレットが指先で顎の下を撫でると、三十センチメートルのル・レットは気持ちよさそうに目を細めた。その光景を、地上で呆然と眺めていた魔王ヴァルディスと四天王たち。



 「……おい、カルミラ。あれは幻覚か?」「ヴァルディス様……私にも、世界を滅ぼす災厄の神獣が、ただのトカゲのように愛でられている姿が見えます……」「信じられん……」老将ボルドーが絶句する。「神話の龍を、己の使役龍(使い魔)として従えたというのか……十二歳の少女が……!?」「ヴェルナー殿……息子の心配をしている場合ではないかもしれませんぞ」ジークフリートが乾いた笑いを漏らす。「我が国は……とんでもない爆弾を抱え込んだのでは?」当の風の四天王ヴェルナーは、あまりの衝撃に胃を押さえたままその場に崩れ落ちていた。シャルレットは手に乗ったル・レットを愛おしそうに抱きかかえると、現魔王ヴァルディスの元へとトコトコ歩み寄った。「叔父様!」「っ……!な、なんだシャルレット……」「ル・レット様とお約束しました。私、一生懸命お勉強します!学園の皆様にもご迷惑をおかけしないよう、普通を心がけますので!」ニコッと満面の笑みを浮かべるシャルレット。その肩に乗った三十センチメートルのル・レットは、ギロリと低い眼光でヴァルディスを睨みつけ、脳内に直接釘を刺した。『――聞いただろうな、ヴァルディス。もしもシャルレットの身に髪の毛一本ほどの傷でもつこうものなら……その時は、このヴォルクレイス皇国を跡形もなく消滅させる。よいな?』『……は、はは……肝に銘じよう……』現魔王は、冷や汗をダラダラと流しながら、ただ頷くことしかできなかった。こうして、常識と非常識が複雑に交錯する中、シャルレット・ル・トロイの『セフティーヌ学園』での学園生活が、正式にスタートしたのである。



 翌日。 昨日の「事件」により、学園内はシャルレットの話題で持ちきりであった。「見たかよ……あの漆黒龍を手のひらサイズにして連れ回してるぞ……」「編入試験で山を吹き飛ばしたのも本当だったんだ……」「触らぬ神に祟りなしだ。絶対に彼女に関わるなよ……!」廊下を歩けば、生徒たちが左右に割れて道を開ける。しかし、当のシャルレットは「皆様、朝の挨拶をしてくださるなんて、なんて礼儀正しい学校なのでしょう!」と勘違いし、一人一人に「おはようございます!」「本日も良いお天気ですね!」と笑顔で挨拶を返していた。肩に乗ったル・レット(三十センチメートル)は、パタパタと翼を羽ばたかせながら、シャルレットの栗色の髪をすりすりと撫でている。「さて、ル・レット様。今日の最初の授業は『魔術理論』です!どんな新しい知識が学べるのか、とっても楽しみですね!」『ふむ。まあ、人間の教える理論など退屈なものだろうが……お前が楽しそうなら付き合ってやらんでもない』シャルレットは期待に胸を膨らませ、特進クラスの扉を開けた。その先に、己を陥れようとする「嫌な教師」の陰謀が待ち受けているとも知らずに――。


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