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第一章 山を降りる

 その山は、下界の者が『神絶ちの峰』と呼び恐れる人外の領域であった。雲を突き抜けるほどに高い山頂付近には、一年を通じて重苦しい魔力が渦巻き、普通の人間はおろか並の魔族であっても足を踏み入れることすら叶わない。しかし、その峻険な岩肌を削って作られた小さな庭では、一人の少女が軽やかな足取りで跳ね回っていた。「ル・レット様、参ります!」愛らしい声を響かせたのは、十二歳になる少女、シャルレット・ル・トロイである。 柔らかい栗色の髪を揺らし、素朴な麻の作業着に身を包んだ彼女は、次の瞬間、常人の目には捉えられない速度で地を蹴った。少女の手首がしなやかに翻る。その指先が描いたのは、空間そのものを歪める異形の大魔法陣であった。発せられた衝動波は数千の刃となって突風を巻き起こし、周囲の巨岩を瞬時に灰燼へと帰していく。だが、その破滅的な一撃を受け止めたのは、山よりも巨大な漆黒の影であった。 全身を硬質な漆黒の鱗で覆い、太古の神気すら纏う伝説の存在『漆黒龍のル・レット』。 ル・レットは巨大な一翼をわずかに振るい、シャルレットの放った魔法陣を次元の歪みごと打ち消してみせた。「ふむ……シャルレットよ。踏み込みの甘さが残っておるぞ。次元の結び目を解くのがコンマ一秒遅い。それゆえに余の領域を穿つに至らぬ」「あちゃぁ……申し訳ありません、ル・レット様。せっかく組み手の相手をしていただいたのに、また次元の隙間に捕まって抜け出すのに半日もかかってしまいました」



 シャルレットはポリポリと頬をかき、心底恐縮したようにペコリと頭を下げた。世間一般において、漆黒龍は『邪竜ルーレット』として畏怖され、その名を口にすることすら禁忌とされる存在である。しかし、この山奥で育ったシャルレットにとっては、幼少期から遊び相手になってくれた親しい「お祖父様」のような存在であった。世間では『漆黒龍のルーレット』という間違った名で轟いているが、シャルレットは幼い頃から『漆黒龍のル・レット』と正しく呼んでいる。「まあよい。十二歳で余の次元干渉を破りかけるだけでも、異常を通り越して狂気の域じゃ。お前の父親も、少々教え方が過激すぎるのではないか?」「そんなことありません!お父様は『これが世間の普通の手習いだ』とおっしゃっていましたもの。私、まだまだ勉強が足りません」ニコリと無邪気な笑顔を浮かべるシャルレット。彼女の本質的な「普通」と、世界の「普通」の間には、この時点で天と地ほどの絶望的なズレが存在していた。山頂の粗末な丸太小屋に戻ると、土間に腰掛けた一人の男が深く息を吐き出していた。シャルレットの父、ゴーゼル・ル・トロイである。かつてヴォルクレイス皇国において、次期魔王の第一候補と目された傑物。しかし、三十年前の血で血を洗う魔王位継承戦において、実の弟に敗北。敗者となったゴーゼルは、実の父である先代魔王の手によって両拳の骨をことごとく砕かれ、二度と戦えぬ体にされた上でこの地に追放されたのだった。「お帰りなさいませ、お父様。ル・レット様との組み手、本日も大変勉強になりました」「……そうか。シャルレット、怪我はないな」「はい!ル・レット様が手加減してくださったので、打撲が三十箇所ほどで済みました」ゴーゼルは痛む胸を押さえながら、愛娘の頭を優しく撫でた。砕かれた両手は今も硬直し、まともに開くことすらできない。弟への烈火のごとき恨みと、落ちぶれた己への悔恨。しかし、この山奥で拾った命を燃やすようにしてシャルレットを育てることだけが、彼の生きた証であった。



その時――。



 突如として、小屋の周囲の空気が凍りついた。山全体を震わせる壮絶な魔力の渦。重厚な足音が、ゆっくりと小屋へ近づいてくる。扉が開かれ、地に届くほどの漆黒の外套を羽織った男が姿を現した。威厳に満ちた角、冷徹な眼光。ヴォルクレイス皇国の現魔王にして、ゴーゼルの弟――ヴァルディス・ル・トロイであった。「……兄者」ヴァルディスの声には、抑えきれない焦走と苦悩が滲んでいた。ゴーゼルは一瞬にして目を血走らせ、いびつに固まった両拳を握りしめた。凄まじい殺気が狭い小屋の中に充満する。「……ヴァルディス。何の用だ。我が前にその面を晒すか」「兄者……頼む。魔王国に戻ってくれ!」現魔王が、屈辱に唇を噛み締めながら頭を下げた。ゴーゼルは吐き捨てるように鼻で笑う。「ふん、白々しい!我が一族の魔王は一子相伝!俺はお前に敗北し、父に二度と戦えぬよう拳を潰された身だ!今更、どの面下げて国に戻れと抜かすか!」「しかし近年、勇者を名乗る謎の『転生者』どもが次々と現れ……我が国は疲弊しております! 奴らは見たこともない異常なスキルを操り、我が軍を脅かしている!もう一度、兄者の……兄者の知恵と力を借りたいのだ!」「くどい!!我に生き恥を晒せというのか!!」ゴーゼルの激怒が爆発した。拳が潰れていようとも、体内に残る魔力の残滓を絞り出し、弟を殺殺せんと踏み出す。「お前を殺して、俺の三十年を終わらせてやる――!」「お父様!」静観していたシャルレットが前に飛び出した。ゴーゼルとヴァルディスの間に割って入り、両手を広げる。



 「お父様、ダメです!お客様に暴力を振るうなんて、お行儀がよくありません!」「シャルレット!そこをどけ! そこの魔王の面汚しを、一瞬で灰にしてくれるわ!!」ゴーゼルが咆哮し、殺意をむき出しにして前に出ようとした瞬間――。ガクリ、と膝が折れた。「ガハッ……!?」ゴーゼルの口から、鮮血が撒き散らされる。「お父様!!」「兄者!!」シャルレットとヴァルディスが同時に駆け寄る。ゴーゼルの体は、すでに命の灯火が消えかけていた。弟への執念と、娘を育てるという義務感だけで保っていた肉体は、限界を迎えていたのだ。ゴーゼルは血に染まった手で、シャルレットの細い手を力なく握りしめた。「シャルレット……」「お父様、しっかりしてください!今、薬草をすり潰してきますから!」「……よい。シャルレット……聞け。お前には……魔王の素質がある……」「え……?」「お前は……私を超えた……。正しく学べば……その力の正しい使い方が……わかるはずだ……」ゴーゼルの視線が、最後に弟ヴァルディスに向けられた。そこには激しい憎悪と、親としての切実な哀願が混ざり合っていた。「ヴァルディス……この子を……」それが、かつて最強と謳われた男の最期の言葉となった。力尽き、倒れ伏すゴーゼル。小屋の中に、シャルレットの嗚咽と、風の音だけが空虚に響き渡った。夕暮れ時。山頂の開けた場所に、粗末な石の墓が建てられた。夕日に照らされる墓標の前で、シャルレットは静かに佇んでいた。横には、静観するヴァルディスがいる。「……シャルレット。山を降りるか」ヴァルディスの問いかけに、シャルレットは涙を拭い、しっかりと頷いた。「はい」彼女は父の墓石に向き直り、丁寧にお辞儀をした。「お父様……私、ちゃんと勉強します」「……魔王になるためか?」ヴァルディスが尋ねると、シャルレットは少し首を傾げた。「わかりません。でも、お父様が最後に『正しく学べ』とおっしゃったから。私、世間のことを何も知りませんし、立派な魔族になるために学校へ行きたいです」少女の瞳には、一切の濁りも、父を死に追いやった運命への恨みもなかった。ただ純粋に、父の遺言を果たそうとする決意だけが宿っていた。ヴァルディスはその背中に、自分が決して届かなかった兄ゴーゼルの影を見抜き、密かに背筋を凍らせるのであった。



 数日後。魔王国の首都中央に佇む巨大な建造物――魔族最高峰の名門校『セフティーヌ学園』。天を突く幾つもの尖塔、重厚な石造りの城壁、空中に浮かぶ幾層もの防衛魔法陣。そこは、ヴォルクレイス皇国の未来を担うエリート魔族が集う場所であった。その学園の編入試験場となった裏山で、惨劇(?)は起きた。「ええと……ターゲットの標的に魔法を当てればよろしいのですね?」編入試験の担当教師であるヴァルディ・オルロック(結界魔法教師)は、ボソボソとした声で「そうだ。あの山頂に置かれた特級結界標的を破壊してみろ」と指示を出した。ヴァルディが展開したのは、自慢の三重複合絶対防御結界である。シャルレットは「はい!頑張ります!」と元気よく返事をすると、父から教わった『初級の挨拶魔法』を放った。



――ドカアアアアン!!!!



 瞬の光。そして、空間を削り取るような凄まじい衝撃波。 結界どころか、標的が置かれていた裏山の山頂、いや、山そのものの半分が跡形もなく吹き飛んだ。静寂が包む。試験場にいた受験生や教師たちが、口を半開きにして白目を剥いていた。「……あ、あの……少し、力を入れすぎてしまいましたでしょうか……?」シャルレットが冷や汗をかきながら振り返る。監視していた学園長のアルベルト・フォン・ノルドは、白い髭を蓄えた顔に満面の笑みを浮かべ、目を輝かせて拍手を送った。「合格じゃ!即刻、特進クラスへの編入を認める!」そして、初登校の日。豪華な意匠が施された特進クラスの教室。貴族然とした少年少女たちが談笑する中、教室の扉が開いた。シャルレットは緊張した面持ちで壇上に立ち、深々と頭を下げる。「初めまして!私はシャルレット・ル・トロイと申します。山奥から参りました。未熟者ですが、よろしくお願い致します!」(良かった……!お父様に教わった通り、普通に挨拶できたわ!)シャルレットが胸を撫で下ろした瞬間、教室中の生徒たちがざわつき始めた。「あ、あいつか……? 編入試験の時に……」「ああ、試験会場の山ごと吹き飛ばしたっていう……」「見たこともない怪しい魔法陣を使ったらしいぞ。まさか平民の野良魔術か?」「ル・トロイだって? 聞いたこともない家名だな……」ひそひそ話を聞きながら、シャルレットは不思議そうに首をかしげる。「……?」自分がすでに「規格外の危険人物」として全校生徒から認識されていることに、本人はまったく気づいていなかった。そこへ、教室の後方からカツカツと靴音を響かせて一人の少年が歩み出てきた。 美しく整えられた金髪に、高級な制服。両脇に太鼓持ちの側近を従えたその少年は、見下すような視線をシャルレットに向けた。「ふん!くだらん!!」声を張り上げたのは、魔王四天王筆頭ヴェルナーの息子、アールト・シャプティーナであった。「入試組の無能どもが大ボラを吹いて、この名門セフティーヌ学園に混乱を招こうとしているだけだ!山を吹き飛ばしただと?そんな荒唐無稽なハナシ、四天王シャプティーナ家の僕が信じると思うか!」アールトは腕を組み、シャルレットに指を突きつけた。「おい、田舎者!お前、待ち時間に『漆黒龍と知り合いだ』などと吹聴していたそうだな!」「え?はい、漆黒龍のル・レット様とは昔から親しくさせていただいていますが……」「愚か者が!!」アールトが一喝する。「『漆黒龍ルーレット』といえば、世界を滅ぼしかけた伝説の神獣!そのようなおとぎ話の存在と組み手をしたなど、大嘘も大概にしろ!入試組のドブネズミが、ハッカクを売るのもいい加減にしろ!」「はっかく……?」「ここでは一ヶ月も持つと思うなよ!ここは皆が魔王を目指す、魔王界随一の名門校セフティーヌ学園なのだ!お前のような嘘つきの野良魔族が居座っていい場所ではない!」シャルレットは言葉の意味がよく分からなかったが、相手の肩書だけは理解した。「あ……魔王四天王の御子息、アールト・シャプティーナ様ですね」「そうだ! 自分の身の程を知ったか!」「はい、失礼いたしました。アールト様の素晴らしいお召し物に見とれておりました」シャルレットが素直に謝罪すると、アールトは調子に乗ってさらに踏み込んできた。「フン、口先だけは達者だな!では聞こう!お前が本当に漆黒龍と知り合いだという証拠はあるのか! 出せるものなら出してみろ!」シャルレットは人差し指を顎に当て、少し考えてから答えた。「……証拠、と言われましても。漆黒龍のル・レット様とは、よく山で組み手の相手をしていただきました。ル・レット様は次元魔法をお使いになりますので、そこから抜け出すのにいつも半日ほどかかってしまいまして……」教室の温度が、一瞬で氷点下に下がった。シャルレットの表情があまりにも真剣で、微塵の嘘も感じられなかったからだ。アールトの額から、ツッと一筋の冷や汗が流れる。「っ……な、何をバカなことを……」「あ、あとアールト様。先ほど少しお名前を間違えておられました」「……なに?」 「『ルーレット』ではなく、正しくは『漆黒龍のル・レット様』です。間違えると、ル・レット様がすねてしまわれますので……」シャルレットが言いかけた、その時であった。



グラグラグラ……!



 突如として、セフティーヌ学園全体が激しい地鳴りに襲われた。教室の窓ガラスがガタガタと震え、空の色が一瞬にして漆黒の闇へと染まっていく。「な、なんだ!? 地震か!?」 「空を見ろ!雲が……空が裂けていくぞ!?」生徒たちが悲鳴を上げて窓際に駆け寄る。アールトも顔を青くして窓の外を見上げた。セフティーヌ学園の上空。雲を押し裂いて現れたのは、学園の敷地全体を容易く覆い尽くすほど巨大な、漆黒の巨大龍であった。放たれる太古の圧迫感だけで、校庭の樹木が次々とへし折れ、防衛結界が悲鳴を上げて軋み出す。「な……なんだあれは……」「ドラゴン……!?いや……あの大きさは異常だ……神話の怪物かよ!?」全校生徒と教師たちが恐怖で膝を突く中、シャルレットだけがパッと表情を輝かせ、嬉しそうに窓へ駆け寄った。そして、空に向かって無邪気に手を振る。「あ! ル・レットお祖父様!わざわざお見送りに来てくださったのですか!?」教室中の全員が凍りついた。 アールトはガクガクと足を震わせ、目の前の少女を。そして空に君臨する絶望の象徴を交互に見比べた。(い……いや……こいつの言ってたこと……全部本当なのかよ……!?)セフティーヌ学園におけるシャルレットの「普通」で「規格外」な学園生活が、今、壮絶な開幕を告げたのだった。


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