第60話 ブロークンピース
いったいどれほどの敵を斬っただろうか。
すでに全身が、自分のものか、そうでないのかも判別できないほどに赤く染まっていた。べったりと肌に絡みつく液体が、気持ち悪くて仕方がない。
いっそ雨でも降ってくれればと思えども、雲は厚さを増すばかりだった。
「捜しものは、見つかったか?」
「っ!」
あざ笑うかのように耳元で響いた声に、ハルは一瞬で嫌悪感をいだいた。
直感的にハルは身をかがめ、体を反転させながら空間を切り裂く。
手応えは皆無だった。
だがハルは、チャンスとばかりに次の一撃を繰り出すべく体勢を整える。
しかし駆け出そうとした足は、視界に飛び込んできた光景にその動きを阻まれてしまった。
「っホノカ!?」
レンに腕を掴まれたホノカが、引きずられるようにして地べたに座り込んでいた。
なにも映し出さない瞳は固く閉じられ、力なく傾く体は、レンが手を離せば今にも倒れてしまいそうだった。
血の気のない肌の上を、真っ赤な液体がすべるように流れ落ちていく。
呼吸しているかどうかなど、この距離ではわからなかった。
「ハル、今のお前の力じゃ、なにも守れやしない」
「っ……!!」
「お前のしがらみは、全部俺が始末してやるよ。そうすれば、お前は心おきなく俺のところに来れるだろ?」
レンの手には、ハルのものとよく似た漆黒の剣が握られていた。
その切っ先が、ためらいなくホノカに向けられる。
「やっ……! ホノカあああああっ!!」
ハルは無意識のうちに走り出していた。
勢いを殺さずに、肩からレンに体当りする。
「っな……!?」
なんの躊躇もなく全体重をぶつけてきたハルに、レンの腕から一瞬だが力が抜ける。
ハルはすばやくホノカの体を引き寄せると、少しでもレンから離れようと足に力を込める。
「チッ」
「っああっ……!?」
脇腹に激痛が走った。
黒い刃が自身の体を斬りつけていると理解する間もなく、ハルの足は二人ぶんの体重を支えながら、懸命に大地を蹴る。
(死なないでっ、ホノカ……!)
動きを止めたペッカートの群れのすきまが、待機している輸送機へわずかな道を繋げていた。
それが罠かどうかなど、考えている余裕はなかった。
脇腹の傷に全身の体温が奪われていく。視界がかすみ、朦朧とする意識の中で、ハルは地面に赤い線を引いていった。
「ここで待ってるよ、ハル」
遠ざかっていくハルのうしろ姿を見送りながら、レンが小さくつぶやく。
「約束、しただろ?」
戦場を離れる輸送機を、レンはただじっと見上げていた。
ハルが目を覚ましたのは、それから半日もしないうちだった。
いつもの見慣れた医務室の天井が、彼女にまだ生きているのだと告げている。
体内に宿るキューブドロップのおかげで、体じゅうに刻まれた小さな傷はすでにふさがったようである。
しかしその力をもってしても、脇腹に受けた致命傷はいまだ癒えていない。
処方された鎮痛剤だけでは抑えきれなかった痛みが、ピリピリと傷口に突き刺さる。
体が、熱い。
包帯だらけの全身にのしかかる倦怠感に、今にも意識を手放してしまいそうになる。
「くっ……!」
痛む脇腹を押えながら、ハルは無理やり上体を起こした。
あまりの苦痛に、自然と体がこわばり眉間にしわが寄る。
ほんの少し動いただけなのに、思った以上に体が重く呼吸が乱れた。
腕の血管に繋がれた点滴の針を力任せに引き抜けば、そこからじんわりと血がにじんだ。
「っはぁ……! 行かなきゃ……」
ハルはベッドのふちに手をかける。
足裏に、床の冷たさが滲みた。
激痛に歯を食いしばり、裸足のままドアに向かい足を踏み出す。
「っ!?」
しかし本人の意思とは裏腹に、ハルの体はその場に座り込む形で崩れ落ちた。
サイドテーブルの上からからっぽの花瓶が転がり落ちて、半透明の青いガラスがハルのすぐそばで無残にも砕けた。
飛び散った破片が、彼女の頬にひとすじの赤い線を引く。
「ばかハル! なにやってんだ!!」
ひらいたドアから、キョウヤが目尻をつり上げて叫んだ。
駆けつけた彼はすぐさまハルを抱きかかえると、彼女の体をゆっくりとベッドに横たえる。
「キョ……ヤ……?」
「ばか、安静にしてなきゃダメだろ?」
無茶をして動いたハルを叱るキョウヤの声が、言葉とは対照的にやわらかい響きをしていた。
髪をなでる大きな手から、安心するぬくもりが伝わってくる。
「ホノカ、は……? ホノカはどこ……?」
かすれた声で問いかけるハルの瞳が、不安げに揺れていた。
キョウヤは割れた花瓶の破片を足で隅に追いやると、ベッドのふちに腰かける。
今にも泣きだしてしまいそうなハルの頬に手を添え、落ち着かせるようにふんわりと彼女の頬をなでた。
「ホノカなら大丈夫だ。アキトがついてるから」
「そっ、か……よかった……」
「ああ……」
だがキョウヤは、ハルには気づかれないようにそっと視線をずらす。
(正直あんな状態じゃ、『無事』とは言えねーよな……)
戦場から引き上げた輸送機の中で意識をなくしたハルは知らないのだ。
処置室へと運ばれたホノカの状態は、誰の目から見ても絶望的だった。
彼女が負わされた怪我は、それほどまでに重傷だったのである。
体じゅうを引き裂かれたような深い傷からはとめどなく血液が流れ出し、腕のみならず肋骨も何本か折れていた。
息があるのが不思議なほどだと、マリアがひとりごとのようにつぶやいていたのを覚えている。
ホノカがスペランツァでなければ、確実に命はなかっただろう、と。
しかし予断を許さない状況であることには違いない。
ホノカの意識はいまだ戻ってはおらず、ICUで眠る彼女のそばで、アキトが祈るように手を握り続けていた。
機械越しの呼吸音と鼓動のリズムだけが、無機質な室内に響く。
うわ言のように彼女の名前を何度も何度もつぶやくアキトは、片時もホノカのそばを離れようとはしなかった。
「キョウヤ……わたしの服、取ってきて……」
「なっ!? バカかお前!」
再度起き上がろうとしたハルを、キョウヤはベッドに押さえつける。
彼は瞬時に、ハルの言わんとすることを理解していた。
「こっちは大丈夫だから、お前は寝てろ!」
「やだ!」
叱りつけるキョウヤに、ハルは声を張った。
腹に力が入った拍子に傷口がひどく痛んだが、そんなことに構っていられない。
「わたしが行く。行かなきゃ、いけないの……わたしがっ……わたしがみんなを守るからっ……!」
「っハル、なんでっ……!」
キョウヤから視線をはずさずに訴えるハルの瞳が、みるみる潤んでいく。
あふれだした涙はこめかみを伝い、白い枕にシミを作っていく。
キョウヤの袖を掴むハルの手が、小刻みに震えていた。
「もうっ……! 誰かが死ぬのは、嫌なんだっ……!!」




