第57話 分かたれた道
その日の夜。ハルは地下四階の書庫の奥で、ある資料に目を通していた。
本棚に備えつけられたカウンターに資料を広げ、暗がりの中で小さなスタンドライトの明かりを頼りに資料をめくる。
はじめはただの興味本位だった。
だが資料を読み進めるほどに、なんとも言いつくせない複雑な感情が胸に迫ってくる。
記されていたのは、けっして表沙汰にはならない非人道的な実験の記録と、その犠牲者の名簿だった。
きっと、自分で調べなければ誰も教えてくれなかっただろう。
わずかな成功の裏に隠された凄惨な結末。
詳細に綴られた被験者たちの記録から、ハルは何度も目をそむけたい衝動に駆られた。
だがスペランツァであるということは、この現実を受け止めなければいけない義務があるように思えて仕方がなかった。
「ぅ……っふぅ……!」
こみ上げてきた吐き気と嗚咽を飲み込んで、ハルは冷たい床に座り込む。
心は限界を訴えていた。
そのとき、書庫のセキュリティが解除され、人が入ってくる気配がする。
ハルは慌ててカウンターの下に身を隠すと、両手を唇に押し当てて息をひそめた。
悪いことをしていたわけではないはずなのに、罪悪感に押し潰されそうになる。
徐々に近づいてくる足音に、ハルはさらに身を小さくした。
「っ……」
暗がりに響く足音の主が、カウンターの上に放置したままの資料を見ている気がした。
「…………ハル?」
「っ……!」
ハルは無意識に息を止める。
レンがカウンター下を覗き込むようにして膝を曲げていた。
「ったく……ひとりで泣くなって、前にも言ったよな?」
レンは小さく息をつくと、言葉の響きとは裏腹に眉を下げたままハルへと手を差しのべた。
「おいで、ハル」
おずおずと伸ばした震える指先がふれた瞬間、掴まれた腕を強く引かれる。
ハルに抗う術はない。
背中にまわされた腕に抱きすくめられるまま、ハルは包み込むようなぬくもりにぽろぽろと涙をこぼした。
とめどなくあふれる涙が、暗がりの中の二人を濡らしていく。
「ひとりでいることに慣れるなよ、ハル……」
かすれた声でそう言うレンは、泣きじゃくるハルの体をきつく抱きしめた。
レンとホノカとハル。
スペランツァとしての責務を課せられた三人は、たしかに特別な絆で繋がっていた。
それは彼らにしかわからない苦悩や葛藤によるものが大きかったのだろう。
三人でよくふざけあってマリアに叱られたのが、そう遠くない日のことのような気がしてならない。
いつまでも三人でいられるものだと、当時は信じてやまなかった。
最後に彼を見たのは、いつだったか。
二年前のあの日、スペラーレの候補者との契約に臨んだ彼は、ひどくいびつな顔で笑っていた。
妖しく細められた瞳の奥は光を失い、ただ闇のような深い色合いが吸い込まれそうなほどに澄んでいる気がした。
「レン! あなた自分がなにをしたか、わかっているの!?」
駆けつけた警備員の銃口が彼に向けられ、マリアの悲鳴にも似た叫びが保管室じゅうに反響する。
だがレンはみなの驚愕と困惑のまなざしに臆することなく、口の端からしたたる赤い液体を乱暴に袖口でぬぐった。
「どうしたもなにも、俺はスペランツァの定めに従っただけですよ」
「なにをっ……!」
「あなたたちが、俺にこうさせたんです」
「……レンくん、これは我々にとって看過できる状況ではない。きみがしたことは、重大な違反行為だ」
ユキノリの淡々とした言葉に、レンは一瞬だけ目を見開いた。
だがすぐに彼はまぶたを伏せると、どこか諦めにも似た微笑みを浮かべて息を吐いた。
(レン……どうして……)
おとなしく両手をあげた彼の足元に転がる遺体。
それがいったいなにを物語っているのか。
答えはひどく単純で明快だった。
だが、それを認めたくはなかった。
両手を後ろ手に拘束されたレンが、前を見据えたまま保管室から連れ出される。
彼の瞳が、まるで絶望に染まったかのように暗い影を落としていた。
「天尾レンに隔離措置を実行。保護施設へ収容します。以降の接触は禁止。彼のことは……忘れなさい」
マリアの感情のこもらない声色が、無機質に耳の奥へと抜けていった。
どうして彼は、自分のスペラーレを殺害してしまったのだろう。
どうしてみなの期待を裏切るような真似をしたのだろう。
レンから明確な答えを聞けぬまま、あの日のできごとはまるでなかったことのように日々は淡々と過ぎていく。
ペッカートによる保護施設襲撃の一報が入ったのは、その矢先のことだった。
突如として館内に鳴り響くサイレン。
侵入者を報せる耳ざわりな機械音に、ハルは一縷の望みをかけて屋上へと駆け上がった。
重たい鉄の扉を押し開けて、息を切らしながら青空の下へと躍り出る。
「っレン……!」
追いかけた背中が、そこにあった。
「おいで、ハル。一緒に行こう」
体ごと振り返った彼のまなざしが、憎悪を秘めた哀しみの色に揺らいでいた。
あの頃と同じ優しい響きをした声が、ハルの心を締めつける。
「俺とお前さえいれば問題ない。そうだろ?」
レンの声が、まるで懇願するように震えている気がした。
差しのべられたぬくもりに、手を重ねられたらどんなによかっただろう。
スペランツァとしての使命もしがらみも、なにもかも放り出してしまえたら。
もう、なにが正しいのかなんて、わからなかった。
「っ……! 行けないよっ……!」
その場から一歩も動けぬまま、ハルはこぶしを握りしめて声をしぼり出した。
そらすことのできない瞳からあふれた涙が、頬を伝って落ちていく。
「……必ず迎えにくる。だから……ひとりで泣くなよ、ハル」
「レンっ……!」
彼は、困ったような表情で笑っていた。
屋上へと駆けつけた警備員たちが軒並みレンに銃口を向ける中、彼はきびすを返して空中へと飛び出した。
空の彼方へと去りゆく背中は、漆黒の闇に飲まれていく。
「レンっ……!!」
彼の名を叫び続けたこの声はもう、届かない。




