第56話 ふたりぼっち
◇◇◇
それは、ハルがスペランツァとなって半年ほど経った頃のことだった。
「ハル、ちょっと出かけないか?」
朝の訓練終わり、レンが唐突に言った。
基本的にスペランツァは、急な出撃に備えて本部から出ることは少ないと聞かされていたハルは、レンの誘いにすぐにうなずくことができなかった。
「……怒られない?」
「ははっ、マリアさん怒ると怖いもんな。大丈夫。マリアさんには許可もらってるから、安心していいよ」
戸惑いつつも応じるハルに手を差しのべて、レンはふんわりと微笑みをこぼす。
「まあ半分は俺の仕事ついでだから、ハルを付き合わせることになるんだけど」
そう言いつつも、「息抜きにはなるだろ?」とレンはハルの手を取って歩きだした。
「あら、あんたたち、もしかして外行くの?」
車庫へと向かう廊下の手前で出会ったホノカに、レンは行き先を濁して肯定する。
「だったらお土産よろしくね。駅前にできたカフェの限定スイーツでいいわよ」
「遠いな」
間髪入れずに返すレンに、ホノカはしたり顔で笑ってみせると、ぽんぽん、とハルの肩を軽く小突いた。
「せっかくのおでかけなんだから、楽しんできなさいよ、ハル」
低いエンジン音を響かせながら、車は険しい山道を下っていく。
本部の所在地からふたつ隣の町は、どこにでもあるありふれた町並みをしていて、どことなく感じた既視感になつかしささえ覚える。
「ハル、着いたよ」
レンがハンドルをきって車体を乗り入れたのは、高い壁と有刺鉄線に周囲を囲まれた場所だった。
敷地の中心には、コンクリート造りの五階建ての建物がそびえ立っている。
「……わたし、ここ知ってる気がする」
「っ……!」
「あ、でも似たような建物なんていくらでもあるよね」
レンの表情がわずかに曇ったのを見逃さなかったハルは、慌ててその場を取り繕う。
乾いた笑顔でごまかそうとするも、レンの「本当はマリアさんに口止めされてるんだけど……」という言葉に、ハルも動きを止めて彼を見つめた。
「ここは、ハルのご両親が亡くなった場所だよ」
「っ……!」
言葉が、続かなかった。
家を不在にしがちだった両親が、研究者だったことは知っている。その二人が、そろって事故に巻き込まれたことも。
(どうして、マリアさんは教えてくれなかったんだろう……)
「さ、行こう。面倒な仕事は、さっさと終わらせたいからな」
そう言って車から降りたレンに続いて、ハルも小走りで彼のあとを追う。
エントランスのセキュリティを抜け、レンは慣れた様子で施設の中へと進んでいった。
「ハル、俺から離れるなよ」
「う、うん……」
差し出された手を取って、前を行くレンを追いかける。
レンに聞きたいことは山ほどあった。
だが彼がマリアに口止めされていた以上、両親について直接的ななにかを聞ける雰囲気ではない。
その代わり、ハルは施設に入ってからの疑問をレンにぶつけた。
「ここは、なんの施設なのか」と。
ハルの問いに、レンは廊下の真ん中で足を止める。
なんの変哲もない白い廊下。
左右の壁には同じようなドアがいくつも並び、そのすぐ横には開かない窓が設置されていた。
窓から見える室内には、簡素なパイプベッドがひとつだけ。
一見すれば病院の個室のようにも見える。
ただ、はめ殺しの窓を覆う鉄格子と、本来室内にあるべきカーテンが廊下側に取りつけられていることを除けば。
「ハル、おいで」
レンは、カーテンの閉められた窓のひとつへと近づいた。
ハルの手を引いて、鉄格子の前へと立たせる。
「ここで見たことは、内緒だよ」
ハルがぎこちなくうなずくのを確認すると、レンは静かにカーテンに手をかけた。
音もなく、ゆっくりとひらかれていく視界。
鉄格子とぶ厚いガラスの向こう側。
ひとりの女が、下着姿のままベッドの上にうずくまっていた。
小さく息を飲んだハルの存在に気がついたのか、女が気だるそうに頭をひねる。
白い素肌にまとわりつく長い赤毛のすきまから、女のぎらついた視線がハルの姿を捉える。
次の瞬間、女はベッドから飛び降りると勢いよく窓へと体当たりした。
ガラスに張りつくようにして、驚愕で動けないハルを舐めるように見下ろしている。
女の吐いた息がガラスを曇らせ、その奥でやけに赤い唇がにったりと弧をえがいてつり上がっていく。
「っひ……!?」
恐怖で弾かれたように後ずさるハルをうしろから抱き留め、レンはすばやくカーテンを閉じて両者の視線を遮った。
同時に空気を震わせた女のものとおぼしき甲高い笑い声に、足の震えが止まらない。
女の声に呼応するかのように、周囲の個室からも笑い声や叫び声がけたたましく響いていた。
「っあ……え、と……」
視線を泳がせてうろたえるハルの手を掴むと、レンは足早にその場をあとにする。
遠のいていく笑い声を背に聞きながら、ハルは必死にその背中を追いかけた。
だがもつれた足が、床のわずかな段差につまずく。
前のめりになる体を抱き留めたのは、前を向いていたはずのレンだった。
彼はそのままハルを抱き寄せて、たどり着いたエレベーターホールの壁へと背中を預ける。
「ごめん。ハルにはまだ早かったな」
レンは深く息を吐き出した。
ハルの早くなった鼓動を落ち着かせるように、レンの手がゆっくりと彼女の背をさする。
廊下に響いていた複数の喧騒は、いつの間にか静寂を取り戻していた。
「要注意管理対象隔離措置」
「え……?」
聞き慣れない言葉に、ハルはレンに体を預けたまま彼を仰ぎ見る。
彼の闇色の瞳が、いつもより深く沈んでいるような気がした。
「ここは、キューブにシンクロできずに精神に異常をきたした子や、スペランツァとして認められなかった子たちの、保護施設なんだ」
キューブにかかわる重要機密。それを知る得体の知れない能力者を、野放しにはできない。
だからこの施設が作られたんだと語るレンは、わずかに目を伏せて哀しそうに笑った。
「俺たちは、ただ運がよかっただけ……」
力なくそう言ったレンが、すがるようにハルの体を抱きしめた。
(運が、よかっただけ……)
レンに抱きすくめられたまま、ハルは言葉の意味を理解すると同時に彼の肩口にひたいを押しつけた。
一歩間違えれば、自分もこうなっていたかもしれない。
死すらも予感させたキューブとのシンクロテスト。
キューブドロップの存在を確認したあと、ユキノリが発した「おめでとう」の言葉が意味するもの。
それを思うと、スペランツァであることが急に恐ろしくなった。




