第55話 フィクサー
一夜明け。ユキノリは研究室を兼ねた自室で鼻歌を口ずさみながら、丸い体を左右に揺らして植物の間を行ったり来たりしていた。
「どう? なにかわかった? マリアちゃん」
向けられた視線の先で、マリアがデスクの上の書類を睨みつけるようにしてうなっている。
眉間にしわを寄せたマリアが顔を上げると同時に、彼女はハルとキョウヤの検査結果を記したカルテを手の甲で軽く叩いた。
「わかったもなにも、科学的に説明できないのよ。どうしていきなり、キョウヤがハルのスペラーレになったのか!」
マリアは目の前の応接用のソファに座るハルを見遣る。
なんとなく理由がわかっているホノカとアキト、そしてキョウヤは、生暖かい笑みを浮かべたままやりとりを見守っていた。今のところ三人とも、ハルに助け船を出す気はないらしい。
「ハル、なにか心当たりはないかい?」
「や、えっと……あの……」
「はっきりおっしゃい」
ユキノリの質問に対して歯切れの悪いハルの物言いに、マリアの眉間のしわが増えた。
このままでは警察署の取調室よろしく、本格的に彼女への尋問が始まりそうな勢いである。
「まあ、心当たりというかなんというか」
おろおろと視線を泳がせてキョウヤを見上げるハルの瞳に、彼は小さく微笑んで彼女の肩を抱き寄せた。
「こーゆーこと、だったりするわけで」
「ちょっ……! キョウヤ……!」
されるがままに傾いたハルの体を腕の中に閉じこめて、キョウヤは軽い口調で宣言する。
抗議の声を上げてじたばたと暴れるハルを無視して、彼は紅潮する頬にふれるだけの口づけを落とした。
「…………はぁ~、そーゆーこと……」
「え、なになに? そうなの? おめでとう!」
マリアの表情からはすでに苛立ちは消え、その代わりにあきれたようなため息がこぼれた。キョウヤの行動ひとつで、おおかたの事のなりゆきを理解したのだろう。
ユキノリまでもが、手入れの手を止めて彼らのほうへ駆け寄ってきていた。
「これは興味深いね。つまりは、言霊なしでも契約できるということでしょ?」
デスク近くの予備のイスを引き寄せながらユキノリが言う。
広くはない座面に腰を下ろすと、彼は口元に手を当てて天井を仰いだ。
「だけどそうすると、儀式の必要性はなくなるわけで…………だとしたらこっちのほうが科学的に説明がつくのかな。けどホノカたちのときはそんなかんじじゃなかったしなぁ。んー……できればもっとくわしく聞きたいんだけど」
「ダメです!」
大して息継ぎもせずにつらつらと持論を展開するユキノリを、マリアはぴしゃりと遮った。
どうやら彼女の苛立ちの矛先はユキノリに向いたようだ。
「そりゃ僕も見当がついてないわけじゃないけど、研究者としては不確定要素に左右されるのは得心がいかないというか」
「プライベートなことなんだから察してあげなさい!」
「けどさマリアちゃん」
「ダメです!」
「あのー、そろそろ本題に入りませんか?」
「あたしたちを集めた理由は、二人のことだけじゃないんでしょ?」
顔を真っ赤にして涙目になるハルを抱きしめたままのキョウヤと、マリアに頭が上がらないユキノリにひとしきり生暖かいまなざしを送ったあと、アキトとホノカが口々にそう言った。
スペランツァとスペラーレ、そして組織のトップの人間がユキノリの部屋にこうして集められることなど、普段ならありはしない。
否、過去にも一度しかなかった。
そのときは、他者には聞かせられないような深刻な話だった。
張り詰める空気の中、ユキノリはデスクの上から飲みかけのコーヒーカップを手に取り、冷めきったそれに口をつけた。
彼がひと息つく時間が、やけに長く感じる。
誰もがユキノリに注目する中、彼は静かに全員を見回した。
「ハルもホノカも、そろそろ気づいてるでしょ? 黒幕が誰なのか」
ユキノリの言葉に、テーブルをはさんで座る二人は互いの顔を見合わせた。
彼女たちの中で、すでに一人の人物が思い浮かんでいる。
確証はない。
だがしかし、直感的にそんな気がしている。
「たぶん……」
わずかにハルが口ごもる。
「……レン、だと思うわ」
「レン……?」
引き継いだホノカの言葉を聞き返したのはキョウヤだった。聞き慣れない名前に、彼の目が細められる。
「あれ? キョウヤくんは、レンくん知らないんだっけ?」
あっけらかんとしたユキノリの声色に、キョウヤは困惑しながらうなずいた。
「キョウヤが入隊したのは、二年前の事件のあとでしたからね。まあ、僕も彼とはあまり親交があったわけではないですけど」
苦笑いするアキトに対して、ハルとホノカはどこか視線を合わせぬように顔をそむけていた。
マリアもまた、まぶたを伏せて小さく息を吐く。
「天尾レン……かつて、優秀なスペランツァだった男よ」




