幕間 終末、チュウチュウっとはじめました
――時は、望月が目を覚まし、世界が融合する前に遡る。
広くもなく、かといって狭すぎるわけでもない応接室に、朝の柔らかい光が差し込んでいた。
つい数時間前まで、そこには異世界の「勇者」がいたはずだが、今はもうすでに気配はない。
残されているのは、「勇者」ではなくただの「モブ」。
応接室の奥の壁際。
布団と毛布を何枚も重ねられ、繭みたいになって眠っている男が一人。
望月友人。
今回の騒動で、たぶん誰よりも過酷な労働を強いられた男である。
ヒステリックでヤンデレ気質な部下に肩と足を刺され。
襲い掛かる数十人の一般人とゴツい警察官に的確にツッコミを入れ。
やっぱり部下に身体をザクザク斬られて。
おまけに自分の血を大量に吸われて、部下の血を吸わされて。
まさにブラックと言わざるをえない激務という名のオーバーワーク。
さらに吸血鬼の眷属(仮)になったことで追加された、日中のデバフ。
その結果、今の彼は――並大抵のことでは起きない。
起きたくない。
起こすんじゃねぇぞ。
と顔に書いてある。
酷い顰めっ面で、いわば「社畜の深い眠り」に沈んでいた。
「望月、もう朝よ。そろそろ起きなさい」
そんな繭の中でスヤスヤと眠っている男を、銀髪の美少女が静かに、いや、ニヤニヤとふやけた顔で見下ろしている。
茜だ。
「望月ったら。ほら、見なさいよ。貴方の好きそうな服を着てきたわよ」
今日の彼女の装いはいつもの黒いコート――望月曰く、強キャラが着てそうなかっちょいいやつ――ではなく、先ほど梅野美鈴にコーディネートしてもらったものだった。
『望月さんは変態だから絶対こういうの好きです。清楚に見えて、体のラインが分かるやつ! 変態だから!』
力説された通り、黒のリブニットタートルネックは茜の豊かな双丘をはっきりと強調していて、茶色のプリーツロングスカートがしとやかさを演出している。
足元は歩きやすさと機能性を兼ねた黒のサイドゴアブーツ。
つまり。
――童貞を殺す服、完成である。
しかも、それを着ているのは茜だ。
銀髪紅眼、Perfect Body(小杉感)の超絶美人。
童貞ではないが、望月でも死ぬだろう。
彼の心の中の童貞が狂喜乱舞すること請け合い。
というか誰でも死ぬのでは? というくらい破壊力が高い。
ちなみに、コーディネートした張本人の梅野も「か、かわいい……推せる……」と悶絶していた。
「……むぅ。起きないわね。せっかくお洒落してきたのに」
茜は長い髪を指で払って、耳に掛けながら小さく呟いた。
男の寝顔は、ひどく無防備だった。
やや垂れ気味の目、シュッと通った鼻筋。
口をへの字に曲げて、眉間に皺が寄っていて顰めっ面。
少し癖っ毛のボサボサの髪。
薄っすらヒゲも生えている。
元社畜でゲームだけが趣味の自称陰キャ30歳男性らしく、少し運動不足気味のひょろっとした体。
「……起きなさい」
茜はそっと膝をつき、望月の肌に指先で触れた。
触れた指先が少し、熱くなる。
軽く肩を揺らす。
反応はない。
「起きてってば」
もう一度揺らしてみる。
やっぱり起きない。
しばらく黙って見下ろして、茜は小さくため息をついた。
「返事がない。ただのしかばねのようだ、ってね。……はぁ、まぁいいわ」
茜は、いつの間にか自分の知識の中にあったどこかで聞いたようなセリフを呟き、ふふっと口元を少しだけ緩めた。
以前までの彼女であれば、ここで「起きなさいよ!」と無理やり布団を剥ぎ取るところだが、今の彼女にそのつもりはない。
むしろ、この静寂が茜にとっては愛おしくてたまらなかった。
そして。
「ふふ、起きないのだったら、仕方ないわよね」
茜は震える手で、しかし確実に、繭となった毛布を剥がしていく。
やがて、露わになった望月の身体に手を伸ばすと――彼のシャツのボタンを音もなく、さりとて速やかに外していった。
「そう、これは仕方がないの。これは……健康確認。上司である彼の体調管理は、部下である私の仕事だもの。だから、仕方ないのよ」
誰にともなく言い訳をしながら、茜の手は止まらない。
一つ、また一つとボタンを外していく。
そして、素早くシャツを脱がし、下に着ていた肌着も難なく剥ぎ取る。
「あら、ヒョロそうに見えて意外と筋肉あるのね……。少し硬くて、骨があって……ああ、貴方も男の人なのね」
どこか感極まった声だった。
剥き出しになる鎖骨と、男らしい胸板。
そこから立ち上る熱に、茜の紅い瞳がチリリと熱を帯びる。
「……なんというか、似てるのよね。本当に」
思い出すのは、百年以上前のこと。
茜が最後に血を飲んだ相手。
命の恩人。
幼い頃の自分を救ってくれた、いずれ「魔王」と呼ばれる、あの男。
長い年月により顔は朧気にしか思い出せない。
だが、あの人もこんな風に世界に対して投げやりで、それでいて致命的な局面で手を差し出すような、救いようのないお節介焼きだった。
あれから、百年余りの月日が流れた。
その日以来、茜は血を吸っていない。
吸おうという気にもならなかった。
「だって、好きな男の人としかそういうのは……しちゃダメだもの」
だから、百年。
ずっと。
そして。
ようやく見つけた。
この顔。
「……ちょっと面倒くさい性格まで似てるしね」
思わず、茜は笑ってしまう。
「本当に、変な人ね。望月」
そして。
彼女は、自分の服も手際よく脱ぎ始める。
脱いだリブニットとスカートは、几帳面な性格のせいか、友達に選んでもらった大切な服だからか、きっちり綺麗に畳んで横に置いた。
「……し、失礼します」
そのまま。
茜は裸のまま、毛布の中へ滑り込む。
望月の少し冷えた肌に、自分の熱を押し当てるように密着した。
抱きしめる。
彼の心音が、肌越しに伝わってくる。
でも、それが彼のものなのか自分のものなのか、分からない。
彼の寝息が、耳にかかってゾクゾクする。
身体が、熱い。
「ねぇ、望月。貴方はどうして私に……『茜』なんて名前をくれたのかしらね」
その問いは、彼女の意識を過去へと沈ませる。
――「アネモネ」と呼ばれていた頃へ。
かつて彼女に名を与えた両親は、アネモネに「君を愛す」という願いを込めたはずだった。
だが、その願いは叶わなかった。
彼女が歩んだ人生は、花言葉の裏側にある「見捨てられた」という言葉を地で行くようなものだった。
彼女は物心がつく頃には、天涯孤独の身であった。
人間と魔物による世界を分かつ大戦。
その戦火に巻き込まれ、両親は戦死し、一族も滅ぼされた。
自身も貴重な吸血鬼の子供として。そしてその幼いながらも輝く美貌ゆえに捕らえられ、人間の国の王への貢物として攫われた。
滅多に生まれない吸血鬼の子供として、大切に大切に蝶よ花よと育てられた彼女。
そんなアネモネが生き残れたのは、運が良かっただけ。
人間の国を滅ぼし大戦を終わらせた、やがて魔王と呼ばれる黒髪黒目の人間の男。
王宮に囚われていたアネモネは、その男に救われた。
そして、その魔王によって戦火の届かない安全な国へと送り届けられた。
しかし、彼女の安寧も、そう続かなかった。
魔王に救われてから暫く経った頃。
彼女は、ただの実験道具だった。
吸血鬼の真祖という希少な血を効率よく採取するため、錬金術師に利用され囚われ、毎日のように血を抜かれた。
魅了の魔眼のスキルが発現してからは、どこから嗅ぎつけたのか魔眼目当ての権力者には常に狙われ、人間からも仲間であるはずの魔物からも追われる日々。
孤独だった。
本当に、どうしようもないくらいに。
そんな絶望の中で出会ったのが――
あの勇者アリスティアだった。
命を助けられ、ともに旅をして。
最初は恩人で、やがて友人になり。
そして――いつしか、親友になった。
初めての友、初めての親友。
しかも、《《同性》》の。
少なくとも、アネモネは。
アネモネだけは、そう、思っていた。
けれど。
『君が今までしてきたこと。それは、紛れもない悪だよ。だから――』
茜は、また裏切られた。
助けてくれたはずの、恩人に。
信頼していたはずの、親友に。
正義の味方であるはずの、勇者に。
正義の名の下に、奴隷商へ二束三文で売られた、あの日。
乱暴に詰め込まれた馬車の中で、茜の心は完全に折れた。
もう、人を信じるのに疲れてしまったのだ。
このまま人間の奴隷になって、辱めを受けるくらいなら――いっそ。
そう思った矢先。
世界が一変した。
周りを見れば、先ほどとは違う景色、違う空気、違う世界。
ギリギリのところで命が助かり、そして惜しくなる。
照りつける太陽の下で、死にたくないと叫んだ。
あれだけ裏切られて、あれだけ傷ついて。
なのに、まだ生きたいと、まだ死にたくないと叫ぶ己の命の灯がまもなく消える。
そんな時、竹原に拾われた。
そしてまた利用され、自分のどうしようもなさにうんざりして。
……そして、望月友人。
この男に出会った。
「ふふ……最初から分かっていたのよ、望月」
茜は眠る彼の頬をそっと撫でる。
「貴方の目当てが私の『魔眼』だってことくらい。魔物使いですもの、当然よね」
茜は彼のほっぺを指で摘み、ぷにぷにしながら。
「貴方、顔に出過ぎよ。自分ではポーカーフェイスだと思ってるのね」
優しく語りかけるように続ける。
「でも……貴方は面倒くせぇって顔しながら、私の話を聞いてくれた」
「『魔眼』じゃなくて、『私』のことを見てくれた」
「だから、最後に……もう一度だけ、信じてみてもいいかなって」
「そう、思ったの」
そして、竹原に魔眼を奪われたあの時。
過去のトラウマを、無理やりこじ開けられて、心が張り裂けて壊れそうになった、あの瞬間。
茜は本当は、自分の意思で抗うこともできた。
吸血鬼の真祖としての意地。
けれど、彼女はあえて魅了に身を委ねた。
賭けてみたのだ。
望月という男に。
「もし、ね? 貴方に見捨てられたら、その時は竹原を殺して、今度こそ死のうと思ってた。……なのに」
この男は、望月だけは違った。
望月友人だけは――逃げなかった。
真正面から。
魔眼なんて便利な道具じゃなく、この「どうしようもない吸血鬼」のために。
「あんなにボロボロになって……本当に、バカな人」
不器用で、めんどくさそうな顔をして。
それでも「茜」と叫んで、自分を抱きしめてくれた男。
「……ズルいわよ、望月。そんなことされたら、もう一生離してあげられないじゃない」
茜の目が、スッとハイライトを失う。
ハイライトのない紅い瞳。
それは、彼女が「愛」と「憎悪」を等価に抱いている証拠。
独占欲という名の、彼女なりの究極の防衛機制。
「アネモネは、あの馬車の中で死んだわ。……今の私は、貴方が形作った、貴方が定義した、『茜』よ」
名前を呼ばれるたびに、彼女の魂はこの男の色に染まっていく。
それが、たまらなく気持ちよくて。
たまらなく、愛おしい。
望月の首筋に顔を埋め、トク、トクと刻まれる鼓動を聞く。
「だから責任取ってね? 貴方は私の上司なんだから。……私を裏切らないで」
茜はその艷やかな唇から小さな牙をのぞかせると、望月の首筋に顔を埋めた。
チュウ、と小さく湿った音がする。
「……っ、……ぅ」
吸血の刺激に、望月がわずかに呻く。
だが、起きない。
温かい血が体に流れ込む。
吸い上げた血は、これまでのどんな美食よりも甘く、彼女の渇きを癒していく。
「ん……、はぁ……っん……」
茜は夢中になって貪り喰らう。
それは栄養摂取ではない。
自身の命を、相手の命と混ぜ合わせ、一つになるための儀式。
同時に、茜の心の奥に残っていた「アネモネ」という空洞が、どろりとした独占欲で満たされていく。
「……離さない。もう、絶対に」
顔を上げた茜の紅い瞳が、さらに暗く、昏く。
ハイライトのない眼差しで、愛おしそうに望月を見て、嗤う。
「コレは……私のものよ。私の居場所……私の、モチヅキ」
暗い情念が、吸血によって昂った本能をさらに煽る。
望月の首筋には、小さな二つの穴。
その周りには、誰が見ても分かるくらい鮮やかなキスマーク。
それは。
「この男は私の獲物だ」と宣言する、吸血鬼の刻印。
茜は満足そうに目を細め、望月の胸に頬を寄せた。
勇者に、女神。
過酷な運命。
世界の融合。
――そんなものは、どうでもいい。
この温もりさえあれば。
私は、どこまででも堕ちていける。
「おやすみなさい、私のモチヅキ……」
幸せそうに目を閉じる茜。
ちなみに。
この後、吸血により昂ぶったせいか、望月が起きるまで2時間ほど。
彼女は「堪能」したのである。
それはもう、欲望のままに。
それともう一つ。
茜はこっそり血液魔法を使い、望月の体内の血流を微妙に操作し、絶対に目を覚まさないよう「調整」していた。
血流操作して、何してたんだろうね?
ナニしてたんだろうね。
……彼女の愛は、ちょっとだけ重い。
いや、まあ、だいぶ重い。
頑張れ、望月。




