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「預かっておく、とだけ」
朝いちばんで辞表を持って現れたジェーンに、長官はそう言った。
「昨日切羽詰まった顔でザックがお前を探しに来たが、
関係があるのか」
「…いいえ、ありません」
「あと、何人かから、
朝ジェーンが来たら知らせるよう詰め寄られてる。
心当たりは?」
「…ありません」
そうか、とだけ言った長官は、ジェーンが出した辞表を引き出しにしまった。
「とりあえず今日は帰れ。
辞める意思が固いとしても、
処理には相応の時間が必要だ。
ひとまず休職、くらいのつもりで」
「でも、長官、私はもう」
「いいから。
まぁ、次の仕事が見つかったら、
そのとき改めて進退を決めればいい。
それまでは繋ぎで持っとけ」
と、辞表と共に返却したゴンドラの乗車許可証を押しつけられてしまった。そのままとんぼ返りで家に帰ってきたジェーンは、もやもやする気分を誤魔化すように、溜まった家事を片付けた。
日の光をきらきら跳ねさせながら洗濯物がぐるぐる回る水桶を、東屋に座って眺める。
昨日は何だか色々ありすぎた一日だった。
職を離れる決意をしたのもそうだが、まだあの時なぜ魔力解錠ができたのかも、腑に落ちていない。
「ポルフィリオ、ロサ、ノーマ。
ベリジェリオ、オルフェ、ダ、ヴァルツドトーチ」
手袋なしでもう一度唱えてみるものの、やはりほんの少し魔力が漏れるくらいで、昨日ほどの出力には全く達していない。
『まぐれかしら』
掌を摺り合わせてひとつため息をつくと、
「珍しい、ユベリオス語だね」
と背後から声を掛けられた。少し色あせた芝を踏んで歩いてくるのは、星揺だ。
「分かるのですか」
これまでこのおまじないがユベリオス語だと気付かれたことはないジェーンは、単純に驚いた。星揺は自分もジェーンの隣に腰掛け、穏やかに笑って言った。
「ああ、分かるさ。
黒手袋の魔法陣の文言だろう?
ちょっと間違ってるようだがね」
「ふふ、そうかしら」
「なんだい、含みがあるね」
ジェーンは昨日の今日で少し自棄になっていたことと、ユベリオス語について分かる人に出会った喜びで、つい口を滑らせた。
「間違ってるのは世間の通説のほうよ。
発音が違うというのでしょう?
正しいのはこっち」
そう言ってまた、今度は気分よくおまじないを唱える。
「ポルフィリオ、ロサ、ノーマ。
ベリジェリオ、オルフェ、ダ、ヴァルツドトーチ」
途端に掌からばちり、と火花が上がる。
「わぁ!」
思いのほかの高出力に驚いたジェーンの隣で、星揺はさらに大きく目を見開き、信じられないというようにジェーンの顔を見つめている。
「なんとまぁ、これは…」
やってしまった、と後悔するのには遅すぎた。
ジェーンは慌てて誤魔化すように手をじたばたさせ、最終的にパン!と手を合わせる。
「星揺さん、お願い!秘密にして欲しいの」
「あ、ああ、それは構わないが。
ユベリオス語の正しい発音?
それで魔法が発現する?
すごい発見じゃないのかい」
「いいの!お願い、秘密にしてね!絶対よ!」
そう言って東屋を飛び出し、水浸しのまま洗濯物を籠に回収して走り去ったジェーンの後ろ姿を、星揺は呆然と見つめていた。
「これは…とんでもない子がいたもんだね」
と呟いて。
ーーーーーーーー
「悪かったよ」
ノーマンはザックに向かって頭を下げた。
昨夜、ジェーンが飛び出してしまった後。
その背中を追わず、星読みたちを睨み付けたザックは、黒手袋を握った拳を震わせて憤った。
「許さねえ、許さねえぞ!
お前ら、ジェーンに石を投げて楽しいか?!
ジェーンを良いように使うだけ使って、
末はこの扱いかよ!!」
「落ち着けって、ザック」
「それになぁ、それに・・・!
好きな女に肩入れして何が悪い!!
何で俺が肩入れして彼女が責められるんだよ!!」
ザックの悲痛な慟哭に、ノーマンはじめ居合わせた星読みたちは言葉を失った。
だがレイチェルが、小さな声でザックに声を掛ける。
「ねえ、ザック。
その手、どうしたの。ポケットも」
その言葉にザックが自身の白手袋を見ると、ジェーンの黒手袋を握ったほうの生地が黒く染まっている。さきほどまで黒手袋を突っ込んでいたズボンのポケットにも、黒い染みができていた。
「なんだ、これ・・・インクか?」
「ねえ、もしかしてその黒手袋、
インクが染みこんでるんじゃない?
いつから監禁されてたか知らないけど、
まだ乾いてないくらいたっぷり」
聡明な星読みたちは、すぐにとある仮説に行き当たった。
「なあ、まさか」
「だからジェーンは黒手袋を脱いだのか?」
「インクに濡れたからといって、
ジェーンがこれを投げ捨てるはずがない」
「じゃあ、やっぱり、誰かが意図的に」
そうして皆、ノーマンを見た。
気まずそうに肩をすくめたノーマンは両手を顔の横に上げ、
「降参。悪かったよ、疑って。
夜勤の後残って、明日ジェーンにはキッチリ謝罪する」
そう言って、場を納めたはず、だったのに。
朝に大部屋に来た長官はひとこと、
「ジェーンが辞表を出した」
とだけ告げた。
ノーマンの他にもジェーンに謝罪しようとしていた者がいたらしく、部屋は騒然となる。
「おい・・・ザック」
怒るでもなく悲しむでもなく、机を見つめたまま全く動かないザックを、皆が見遣った。ノーマンはザックのデスクに駆け寄り、
「ザック、悪かった」
と頭を下げたが、ザックの耳には入らない。がたんと弱い音を立てて立ち上がると、
「お疲れ」
と力ない足取りで部屋を出てしまう。
残された星読みたちはただ言葉なく、気まずそうに口を閉ざすしかなかった。
ーーーーーーーーーー
「メーガン長官、お客様です」
ジェーンが出勤しなくなって数日。
星読みたちの雰囲気はすこぶる悪く、大部屋の空気はギスギスしっぱなしだ。
雑用や整理整頓をしてくれていたジェーンの不在は、戸から吹き込む隙間風のように、時折寂しさを呼び起こした。
「客?…聞いてないが」
「アポなしのようです。
従者も連れてずいぶん偉そうな若い男」
「ほお。名は聞いたか?」
「エイダンとだけ」
通せ、とだけ告げると、すぐにその男は長官室に案内されてきた。
茶色いくせ毛をぺったりと撫でつけた、恰幅の良い男。
後ろには年かさの夫婦らしき男女と、にこにこと感じの良い壮年の男。そして最後に、年端もいかない少女を連れていた。
「ずいぶん大勢ですな」
実務長官メーガンは彼らが厄介な客であることを本能的に感じ取った。これはなるべく早く帰す方が良さそうだ。
「お話を伺いましょう。
本日はどのようなご用件で?」
若い男は示されたソファにどっかりと座った。メーガンは他の人間にも座るよう促したが、彼らはそれをせず、壁に背を向けて立っている。
「うちの者を引き取りに。
退職の手続きを頼みます」
「うちの者…とは?」
「オーレリアというのがいるでしょう」
「オーレリアですか。
あいにく出張中でしてね、今日は難しいでしょう」
「構うことはありませんよ。
本人がおらずとも手続きはできるでしょう。
出張とやらも早く切り上げさせてください」
「本人不在では退職手続きは開始できません」
「頭が固いな。…ほら」
そう言ってエイダンは、立って控えた夫婦を顎でしゃくった。
「オーレリアの親です。これならいいでしょう」
「駄目ですな。親であっても本人ではない。
そもそもオーレリアは了承しているんですか」
「そんな確認は取る必要がない。
これはあいつの役目です。責任がある」
「責任?役目?話が見えませんな」
「オーレリアは次の僕の世話係なんですよ。
今は僕の母がやってますが、体調を崩してね。
次はオーレリアの番です」
「世話係…?
失礼だが、貴殿は世話係が必要な身分なのか?」
「僕は生まれつき魔力がありません。
だから魔力のある健康な女が、
一生僕の世話をする義務があるんです」
そうふんぞりがえったエイダンに、メーガンは心底呆れた。
「な、なかなか面白いことを仰いますな」
失笑と共に出た言葉にエイダンがむっとして口を噤む。するとにこにこと人好きのする笑いを浮かべた壮年の男が口を挟んだ。
「エイダンは歴史ある我が家の跡取りなのです。
ですから、傍流の娘であるオーレリアは、
エイダンを支えることに心身を捧げなければ」
「あなたは?」
「父です。エイダンの父。
といっても僕は婿養子で、家を継ぐ資格はないんです。
現当主はエイダンの祖父、エイダンは次代です」
「オーレリアの奴、
僕の世話係という名誉を与えられながら、
勝手に家を出てしまいやがって。
どんな教育をしたらそんな不義理ができるのか」
エイダンがじろりとオーレリアの両親を睨むと、夫婦は恐縮したように気まずそうに身を縮める。
「オーレリアが戻ってこないなら、
次はこいつです」
さらに顎をしゃくった先には、身体を固くして立つ少女。口は真一文字に引き結ばれていて、全身で嫌だと叫ぶような姿が哀れだった。
「オーレリアの末の妹です。
でも僕の本意じゃなくてね。
こいつは器量は悪くないが幼すぎる。
体つきも女らしさが足らん。
だからやっぱりオーレリアだ」
「器量や体つきが世話に関係あるのか?」
「当たり前です、
こいつらは僕の全てを世話する義務がある。
ならば夜の勤めもしかり。
今の世話係は母親ですからね、
夜の勤めをさせるわけにはいかんので。
いずれ子も産ませなきゃならん」
ヒッ…とおぞましさで喉が引き攣れるのを、メーガンはどうにか堪えた。
「とにかく、ここは公的機関です。
本人不在での退職手続きは違法。
違法なことを強要して罰せられるのは貴殿らだ。
法に勝る事情があるなら国に直訴するんですな」
さぁ、話はここまでだ、お引き取りを。
そう言うとメーガンは退室を促すが、でっぷりしたエイダンの身体は微塵も動く様子がない。
「お引き取りを」
「なぜ僕が?要望を叶えて貰っていないのに?」
「執務の妨げになるからです」
「じゃあ僕が来た意味がないじゃないか」
子供のように何の疑問もなく居座ろうとするエイダンに、メーガンは目眩がしそうになる。しかもエイダンの父も深く頷くと、
「そうですよ、
あなたはエイダンの希望をまだ叶えていない」
などと嘘のような妄言を吐き出す。
「じゃあ何か?
私があなた方の言うとおりにしないうちは、
梃子でも帰らないつもりか?」
「当たり前でしょう。
早くしてください、ランチの時間が来てしまう。
エイダンがお腹を空かせてしまうでしょう」
あまりの話が通じなさに、メーガンは思わず呆れや怒りを通り越して感嘆した。
『オーレリアも話が通じないきらいがあるが、
なるほどこんな化け物が身近にいるとそうなるのも筋か』
と。
メーガンは冷静に職員をひとり呼びつけると、
「憲兵をこちらへご案内しろ。
彼らは留置所に招かれるべき客人だ」
と嫌味たっぷりに命じた。
憲兵と聞いて焦る頭はあるのか、エイダンはようやくその腰を上げ、「無礼な振る舞い、忘れんぞ」と捨て台詞を吐いて退室していった。
ようやく静かになった執務室で、メーガンはジェーンに思いを馳せた。塔の中を行ったり来たりする、勤勉な白い髪の残像。
「ジェーンのように真っ当に生きる者もあれば、
自ら努力することを端から放棄する者もある。
…黒手袋といえど色々だな」
さあ、面倒ごとがまた増えたぞと、口に出して自身を鼓舞したメーガンは、日常の業務に取りかかるため使い古したペンを握るのだった。




