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汁物の鍋を大きくかき回す腕の重さに、ジェーンは額に滲んだ汗を袖で拭った。
「ジェーンさん、大丈夫?」
様子を見て声を掛けてくれたのは、ここ最近よく一緒になる中年女性だ。
「大丈夫、ありがとう」
星夜見の塔を辞したあと、ジェーンはすぐに新たな職を得た。ちょうどベルウェン海側エリアで始まった造船現場だ。その旨についてはメーガン長官に申し出たが、「わかった」としか返されなかった。
ジェーンたち末端の人間まで詳細が知らされることはないが、どうやら国も噛んだ事業らしく、黒手袋たちも多く雇用してくれた。女性は主に現場の掃除や労働者たちの食事の用意、男性は荷運びや職人たちの補助をしている。
あれから黒手袋への補助金は減額されることに決まったが、月々としてはわずかな減額に留まった。それでいてこうして大口の雇用も用意してくれたため、表立って騒ぐ者はいなかった。
「ずいぶん寒くなってきたからね、
美味しい汁物が染みるだろう」
「ええ、そうですね」
星夜見の塔ほどではないが、この仕事も内容の割に良い給金を出してくれている。おかげで生活には困っていないし、毎日よく身体を動かすので寝付きも良い。
「お子さんの風邪はどうですか?」
「大丈夫、昨日は急に休んですまないね」
「いいえ、お気になさらず」
黒手袋だけでなく、子供が小さく満足に働けない者や親の介護をする者、そういった就労に制限のある者が多く雇い入れられ、皆感謝しながら働いている。「この冬はこの現場のお陰で何とかなりそうだ」、そんな声もよく聞いた。
「しかし、何の船なんだろうね。
こんなに大規模な造船なんて」
「さあ。でも噂はありますよね。
大国エウレクへの使節団の乗る船じゃないかって」
「まぁ、そうなら凄い現場にいるんだね、私ら。
頑張らなきゃ」
「そうですね」
日が山の頂にあるノーヴァのあたりに差し掛かる。もうすぐ昼休憩だ。いっそう急がしさを増す炊事場で、ジェーンはまた力強く、鍋をかき回した。
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「それにしても、良かったわ。
ジェーンが落ち着ける職に就けて」
リーゼロッテはシチューにパンを浸しながら、感慨深そうに息をついた。
リーゼロッテは変わらずレオンのパン屋で働いている。変わった事と言えば、彼女が身につける衣服の値段と、周りからの呼び名だけ。
「リーゼロッテはどう?
新しい名はもう慣れた?」
「まあ、もともと自分の名の一部だからね。
ロッテ、って呼ばれても違和感ないわ」
リーゼロッテ、とは一般的に華美で高貴な響きを持つ名のため、「ちょうどいいわ、これも変えることにする」と言い、通称名を「ロッテ」にして生活を始めた。着せられていた「ご令嬢」の皮を脱いだリーゼロッテは、もともとの利発で快活な性分を取り戻し、すっかり下町のパン屋に馴染んで立派に看板娘をやっているらしい。
毎日余り物のパンを貰ってきては、それに合う料理を研究していたりする。
「そういえば、最近めっきり来ないわよ、あの人。
ザックさん」
…ジェーンは口にシチューを入れて誤魔化した。
『ごめん』
ジェーンが塔に辞表を出した数日後、自宅のポストにすっかり洗って綺麗になった黒手袋が突っ込まれていた。それに添えられていたカードに、名も書かず綴られていたたった一言。
ジェーンはすぐに、それがザックからのものだろうと気付いた。
『きっと気に病んだわよね』
それを手に取った時は、彼を傷つけてしまっただろうことに、胸が締め付けられるように痛んだものだ。
だが、再び自分たちの道は分かたれた。もしこの街のどこかでまたばったり会うことがあれば、にっこり笑って会釈できるくらいの関係性であれればいいな、と思う。
「そう。お忙しいんじゃないかしら」
「最近この街でも噂だものね。
政府のお偉いさんがお忍びで来てるって」
「占いを頼ってこられるのね」
「使節団の席を巡っていろいろ競争があるみたいよ」
「皆大国に渡って箔を付けたいのかしら」
きっとザックのところにも、彼の家の伝手や彼の実績を見て、貴人が訪れているのだろう。そう考えると、殿上人である彼とつくづく奇妙なご縁があったものだと思うが、ジェーンにとっては過ぎたものだった。
「さ、明日も早いわ。
もう寝てしまいましょう」
ジェーンは大きく伸びをして、食べ終わった食器を川の水が溜まったシンクに沈めた。
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そして、冷たい木枯らしが和らぎ、木々から新芽の香りが立つ頃。
ベルウェンの造船所で、その船は完成した。
海に浮かぶ城のように大きく、豪華絢爛な装飾が至る所に施してある。新聞では大々的にその詳細について報じられ、国中から見物客が訪れた。
しかしその船を見て、ジェーンは眉を顰める。
「…酷いものだったわ」
船は噂通り、大国エウレクへ向かう使節団のための船だった。
造船は前例のないほどの急ピッチで進められ、国中からあらゆる分野の職人が続々と集まった。
最初は良かったのだ。
雑用を担う黒手袋たちにも十分な賃金が支払われていた。しかし次々に職人が増えるに連れ、現場の監督は「すまん、人が増えて資金が分散してしまって」と言い、徐々に黒手袋に支払われる賃金は減らされていった。造船終盤には半分ほどになり、挙げ句の果てには。
「結局このふた月のお給金はなかったね」
隣で船を見ていた、子供を抱える女性の同僚は言った。
「契約期間外…そう言ったんですよね」
「ああ。
私らの契約は船の基礎構造が出来るまで。
その後の家具の搬入や内装工事の間は契約期間外だとさ」
「それならそう言うべきだわ」
「言う必要が無かったのさ。
あいつらからしたら、
契約期間後ものこのこタダ働きにやってくる、
奉仕精神豊富な人たちがいたってだけ。
ありがたく労働だけしてもらっただけだとさ。
…馬鹿にしやがって」
「…騙したのね、私たちを」
契約期間、などと言うが、就労の際にはそんな契約書を交わした覚えはなかった。…恐らく、最初からこうするつもりだったのだろう。黒手袋や就労に難のある人々は、難があるからこそ、簡単には職を離れられない。賃金を減らそうが騙そうが、泣き寝入りするだろうという目算だったのだろう。
今、これでもかと着飾った人々が、ジェーン達の作った船に乗り込んでいく。全ての準備が整った船は、間近に迫った春の気配の中、これからついに大国へと処女航海へ繰り出すのだ。職人たちは皆船の近くで盛大なセレモニーを楽しんでいるようだが、ジェーン達はその場に入ることすら許されなかった。
引かれたロープの外側に集まり、国を挙げての華やかな祝いの場を蚊帳の外から見る。まるで自分たちが最初から存在しなかったような扱いだ。
「……惨めだな」
ロープの外、誰かの呟きが低く染みこむように響いた。
「帰ろう」、どこかで漏れたその言葉をきっかけに、ぽつぽつと船に背を向けて去って行く。ジェーンも踵を返して歩き出したが、ふと気配を感じて振り返った。
『あれは』
セレモニーの壇上、この造船プロジェクトの主導だという大臣が拡声器でスピーチをしている。その隣で、上等な旅装に身を包んだ金色の髪の女性。
「また、この船には導きの巫女にも乗船頂く。
彼女の導きにより、この船は滞りなく完成した。
このプロジェクトの立役者と言っていいだろう。
…紹介しよう。
ここベルウェンの誇る美しき星読み、
オーレリア先生だ」
沸き起こる拍手に向かって深い淑女の礼を取るのは、確かにあのオーレリアであった。
深く下げた頭を、オーレリアが上げた瞬間。
「ーー!」
蚊帳の外のジェーンと、目が、合った気がした。
『……もう、関係ないはずだわ』
ジェーンは今度こそ港に背を向け、家に向かって歩き出した。




