18
「ジェーンが来ていない?」
「ああ、ザック、何か聞いていないか?」
夕方になって出勤したザックの元に、ひとりの星読みがやってきた。
今日はジェーンにデータの書き写しを手伝ってもらうつもりだったというが、現れなかったのだという。
「部屋には行った?」
「ああ。荷物はあるんだよ。
だが彼女自身はいなかった。
別の仕事かと思ったが、この時間まで現れない」
「変だな」
「ザックも聞いていないか。
…いや、彼女に限ってないとは思うが。
もしかしたら逃げたんじゃ、なんて言う者もいて」
「ない。絶対ない」
「だよな。
ほら、最近世論がきな臭いだろう?
彼女も肩身が狭いんじゃないか」
「であっても、
職務を投げ出すような人じゃねえよ」
「そうだよ、な」
俺ももう少し聞いてみるよ、と同僚は去って行く。
ザックは妙な胸騒ぎを覚え、ジェーンの小部屋に向かった。
「ジェーン」
ノックをしても返答はない。かちゃりとドアノブを回すと、施錠もされていなかった。小部屋は夕日が入り、薄い生成りのカーテンが橙色に染まって揺れている。窓も開いたままだ。コートハンガーに彼女のバッグが下がっているが、彼女の姿はない。
思わずザックは窓に近寄り、その真下を見た。
…何もない。
『何を馬鹿げた考えを』
確かに、ここ最近の黒手袋への風当たりはずいぶん強い。大国エウレクに対して我が国が打ち出す華々しい外交の話題の裏面として、黒手袋を巡る予算の駆け引きが記事の定番になってしまっている。
軍事主義国のエウレクの若い新王の覇気に乗せられ、まるで我が国まで好戦的な空気になってきているようだ。この塔でも、ジェーンの存在を疑問視する声も上がっている。
それであっても彼女は逃げ出す人ではない、そう言い聞かせると、ザックはジェーンの痕跡を探して歩き始めた。
「ジェーン?いないのか?
ノーヴァは探したか?」
長官室に顔を出すと、面倒くさそうにそう言われた。
「ノーヴァ?ジェーンが?」
「ああ、最近ちょこちょこ出入りしてるんだよ。
備品の棚、綺麗になったろ。
あの魔窟を整理してくれる勇者が現れるとはな」
「行ってみます」
意外ではあったが、まさかあのガラクタだらけの棚の下敷きになったんじゃ、と背筋が冷えたザックはノーヴァへ走った。
「ジェーン?見てないわよ。
どうして彼女がここに?」
観測準備をしていた女性の星読みは、不思議そうに首をひねった。
「この棚の整理をしてくれてたみたいでさ、
ここにいるかと思って」
「あぁ、だから少しスペースに余裕があったのね。
ありがたいわ」
「いないならいいや。じゃな」
「あ、待ってザック」
呼び止められて振り向くと、同僚は気まずそうに下を向いて、内緒話をするように声を潜めた。
「あのね、ここだけの話。
今日、ものすごくオーレリアの機嫌が良いの。
何だか出張で首都に行くとか言ってたけど…
それだけじゃないような気がして。
その…ジェーンに何もないといいけど」
それだけよ、行って、と背を押され、ザックはノーヴァを出た。嫌な予感がザックの足を前に運ぶ。大部屋に引き返したザックは近くにいたケヴィンに問いかけた。
「なあ、オーレリアを見たか」
ケヴィンは何か信じられない物を見たかのような顔をし、「今帰ったとこ」と口を開く。すぐさまザックは床を蹴り、ゴンドラ乗り場へ走る。橙色の強い西日を反射させ、ゴンドラが到着したところだった。
「オーレリア!」
強い逆光の中で誰かが振り返る。
「ザック様!」
こちらに駆け寄ってきたのは、金の髪を赤く染めたオーレリアだ。
「どうかしましたの?
あぁ、もしかして明日からの首都行きのことかしら」
オーレリアは夕陽を纏って上気した頬で話す。
「さるお方から、首都のパーティーに招待頂きましたの。
ドレスアップも楽しみだわ。
そうだわ、ザック様もいらっしゃらない?
もしかしたらケンドール家のご両親もおられるかも」
「行かねえよ。聞きたいのはそんなことじゃない」
ザックは乱れた息を整え、オーレリアに向き合った。
「ジェーンがいない。
オーレリア、知ってることはないか」
そう一気に聞くと、オーレリアは不自然なほど落ち着き払って黙り込み、ザックの目をじっと見返す。
「なぜ、ジェーン・カンタベリーの事を私が?」
「お前が俺に何かしらの思惑を持ってることは知ってる。
ジェーンにも、これまでいた何人かの職員にも、
お前が嫌がらせをしてたことも」
「嫌がらせ?馬鹿げたことを。
…あれは正当な抗議ですわよ。
身の程も知らずザック様に近づいた輩への、ね」
「誰がそんなことをしろと頼んだ」
「頼まれなくても、私が必要と思ったからやるの。
将来のあなたの伴侶たる私が、ね」
悪い虫を排除するのも、パートナーの役目でしょう?
秋の日暮れは駆け足でやってくる。藍色の夜の帳を先取りするように、オーレリアの瞳は深い影をたたえていた。
「は?お前、頭どうかしてんのか?」
「いいえ、ちっとも。
あなたが抗おうと、星はそう導くから。
私たちは天のメッセージを受け取る星読み。
そうでしょう?」
「…お前、何をするつもりだ」
「さあて。
勝算のない賭けはしない、とだけ。
…ところで、よろしいの?
あの黒手袋、逃げたんじゃなくて?」
そうだ。今は自分のことより、ジェーンの無事を確かめる方が先だと思い至り、ザックは踵を返してまた走り出した。
「…そうよ。
あなたがどう思おうと関係ない」
走り去ったザックの足跡を見つめ、オーレリアは昏く呟いた。
ーーーーーーーー
誰も来ない。
ついに日が暮れてしまった観測室で、ジェーンは途方に暮れた。
夜になったら誰か観測に来るだろうと目していたが、運悪く今日は誰もこの部屋を使わないらしい。外を見たら曇りだったから、それも仕方ない。この数時間、ジェーンの声に誰も気付くことはなかった。そもそも外からも何の足音も聞こえないから、誰も来ていないのかもしれないが。
「トイレがあって、本当に良かった」
夜通し観測することもあるこの部屋にはトイレがあり、しかもタンクに水の補充がしてあったのは不幸中の幸いだった。
そうでなかったら本当に尊厳に関わるところだった。
「しかし、どうしよう。
今日の仕事も結局全部すっぽかしちゃった」
こういう事情だから許して欲しいが、果たして監禁されていたなど信じて貰えるだろうか。できれば誰かに見つけて貰ってその人に証言して欲しいが、それも今夜は期待できないかも知れない。
「リーゼロッテが心配するわ」
辺りはみるみる暗くなり、部屋の家具や観測道具が闇に溶けて姿を隠す。自分の手足の所在すら視認が難しくなってきて、ジェーンは恐ろしくなり慌てて扉に背を預けるように座りこんだ。
髪を解き胸元に垂らすと、白いぼんやりとした髪の輪郭が見える。それがジェーンの心を幾分か安堵させた。
「大丈夫。朝まで頑張れば、何とかなる」
大丈夫。
そう言い聞かせながら、ジェーンは秘密のおまじないを口にした。
「ポルフィリオ、ロサ、ノーマ。
ベリジェリオ、オルフェ、ダ、ヴァルツドトーチ」
きゅ、と両手を握ると。
ふわ、と背後の扉が青白く光った気がした。
「え…?」
確かに、このユベリオス語の文言を唱えると、ごくわずかだが魔力の発動の兆しがある。だがそれはほんのわずかで、魔道具を発動させるレベルには到底足りなかったはずだ。
『でも、もしかしたら』
ジェーンは扉に両手をびたりと付け、深く深呼吸をした。
「ポルフィリオ、ロサ、ノーマ。
ベリジェリオ、オルフェ、ダ、ヴァルツドトーチ」
『出たい』、そう強く願いながらおまじないを唱えると。
フォン、と扉は更に強く光り、がちゃりと音を立てた。
「…開いた!!」
解錠されたのを確認すると、ジェーンはゆっくりと扉を押し開く。
そしてその先には、
「ジェーン。…今のは?」
息を切らして髪を乱し、額から汗を滴らせたザックが、
咎めるような鋭い目で、こちらを見ていたのであった。




