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確かあの日は、今日みたいな土砂降りの雨の日だった。
得意げに胸を張る、今より幼いジェーンの肩に、
困惑した顔で両手を置くおじいさん。
『いいかいジェーン、
このことは僕と君との秘密だ。
秘密のおまじないにしよう』
誰もいない本の森で、指切りをした記憶。
ー…自室の窓を開け、窓枠を打つ雨を眺めながら、ジェーンは呟いた。
「ポルフィリオ、ロサ、ノーマ。
ベリジェリオ、オルフェ、ダ、ヴァルツドトーチ」
窓のほうに差し出した手袋のない掌が、ほんのわずかに濡れる。
リンゴーン、
と玄関のベルが鳴る。
今日は土砂降りでジェーンの仕事は急遽休みになり、リーゼロッテはサイゴンに呼ばれて役所に行っている。久しぶりに家にひとりの状態だ。
「誰かしら」
階下に下りてドアを開けると、
「ジェーン・カンタベリーさん。
お届け物です」
とよく日に焼けた配達員の青年が立っていた。
彼は小脇に大きな箱らしきものを抱えていて、それを布でぐるぐる巻きにしている。
「本って書いてあったから、
濡れちゃなんねぇと思って。どうぞ中へ」
そう言うと、器用に布だけ外してずっしりとした木箱をジェーンの足元に丁寧に置いた。
気遣いに感謝し、「ちょっと待って」と配達員を玄関の中に引き留めたジェーンは、洗面所に走って新品の柔らかくて大きい、綿のガーゼタオルを持ち出した。
「どうぞ使ってください。
今日は本当によく降りますから」
「ええっ、いいんですか、これ新品でしょう?」
配達員の青年は驚いたように大げさに身じろぎすると、受け取って良いやら悪いやら、気まずそうに手を顔を横に上げた。
「いいんです。
この荷物、とっても楽しみにしていたから。
お気遣いがすごく嬉しかったの」
「…じゃぁ、お言葉に甘えて。
ありがとう、ジェーンさん」
青年は白い歯を出してにっと笑い、また雨の中を去って行った。配達用の魔導自動車が走り出すのを窓越しに見届けると、ジェーンはいそいそと木箱へ近寄り、その蓋を開ける。
『親愛なる我が教え子 ジェーンへ』
箱の一番上には、懐かしい字で書かれた手紙が入っていた。
中の便せんを急いた気持ちで開け、頬を緩ませる。
『ジェーン、元気にしているようで何より。
ベルウェンとは驚いた。
今の季節はさぞかし風が気持ちいいことだろう。
ところで、ご所望の品を贈るよ。
あれからいくらか蔵書もまた増えた。
君の助けになることを祈る。
追伸
僕と君との秘密のおまじないが、
君の支えになることを願ってる。
ゾフ爺さんより』
ジェーンは手紙を丁寧にダイニングテーブルに置くと、木箱の中身を確かめた。懐かしい愛読書たち、幼いジェーンが書いたノート。そして、真新しい見覚えのない蔵書がいくらか。
「先生…」
それらを見つめて、ジェーンは目を細めた。
……西の村では、友達ができなかった。
「魔力の無い子」「追われた子」と陰口を言われ、同年代の女の子とは当たり障りない距離でしか接することができなかった。気に掛けてくれた人たちもいたが、当時の村長が黒手袋を嫌悪する人だったため、おおっぴらには仲良くできなかった。
学校にいても孤立し、次第に足が遠のいてしまった頃、声をかけてくれたのがゾフ爺さんだ。村でいちばん賢かったが、変わり者だと後ろ指を差されて首都に出て、司書の仕事をしていたという。村に帰って来るなり大きな土地を買い、私設の図書館を作り、日がなそこで暮らしていた。
『僕の夢の図書館じゃ』
そう言ってゾフはジェーンを迎え入れた。
図書館には村の人より外から来た人のほうが多く訪れていて、意地悪な顔が見えなくてジェーンは少しほっとした。ゾフ爺さんはジェーンに机を与え、好きなだけ本を読ませてくれ、またその内容について議論したがった。
『先生、この単語は何て意味?』
『先生とは、こりゃ照れくさいな』
そう言って、『先生』と呼ぶのを許してくれた。
村での幼少の記憶の大半は、この図書館と共にあった。
大きくなって働くようになっても、休日は必ず図書館に向かったものだった。
その本の森の中で、ジェーンはとある分野に夢中になった。
ジェーンは昔の自分が書いたノートをぺらぺら捲る。
長い時間をかけて学び、試し、そして村の外から来る客たちにも教わった事柄が書かれている。
最後のページには、
『免許皆伝!
小さなユベリオス言語学者さん』
と、先生からの大きな花丸が書かれていた。
…ジェーンの秘密のおまじない。
「ポルフィリオ、ロサ、ノーマ。
ベリジェリオ、オルフェ、ダ、ヴァルツドトーチ」
これは、黒手袋の魔法陣に書かれたユベリオス語の呪文。
そして、世界の誰も、ユベリオス語の研究者すらまだ知らない、ジェーンと先生だけが知る秘密の事実があった。
…この呪文を唱えると、ジェーンでもほんの少し、手袋なしで魔法が使えるのだ。
ーーーーーーーーーー
「初めてのお客様ね」
オーレリアは自身の小店を訪れたくたびれた男を素早く値踏みした。
オーレリアは天文学者であり、占星術師である。観測がない日は副業として、不定期に『夜の街』に占いに出ている。
ミステリアスな印象を持たせるため、豪奢な金の髪を下ろし、口元に藍色のヴェールを身につける。薄暗い小店の灯りは色とりどりのモザイクガラスの吊り下げランプ。官能的な香を炊き、幻想的な演出をする。
「は、はい。
ええっと…ミス・オーレリア。
お会いできて光栄だ」
客はスラックスの裾を濡らし、雨の香りを引き連れてやってきた。
どうぞと促すと、客は卓越しに置かれたベロアの椅子に力なく腰掛ける。
「お疲れのようですわね」
「ええ、それはもう。
良い占星術の先生を探して、
せっかく遙々ベルウェンまでやってきたのに。
この雨でしょう?ツイてません」
オーレリアは赤い唇を鈴のように鳴らし、笑った。
笑いながら客のスラックスのポケットについたタグと傘のしつらえを見る。…首都の小規模ブランド。
「あら、そうでもありませんわ」
「そうなのですか?」
「占星術師は曇りや雨の夜のほうが多く店を出すの。
ようこそ、ベルウェン夜の街へ。
首都からは機関車で?」
客はポケットから取りだしたハンカチで額から落ちる滴を拭いながら、
「なぜ首都からだと」
と驚いた顔をした。
まぁね、と答えず、オーレリアはまたちらりと客を見る。雨に濡れた前髪をかき上げたその顔に、見覚えがあった。
『どこだったかしら。
新聞だと思うけれど、どの欄?
スポーツ、は違うわね。芸能も違う。
文芸?科学?それとも…』
「ミス・オーレリア。
占ってくださいませんか。
この一週間で東の海で何が起こるか」
「東の、海」
「私はこれから1週間この街に滞在します。
最も近い結果を導いた方に、
今後の私の占いをお任せしたい」
「あら、まるで競りのようですわね」
「失礼なのは重々承知です。
こちらもそれなりに真剣だということ」
「結構ですわ。
では、占いを」
オーレリアは男から産まれた日や時間、場所を聞き出すと、卓に広げた大きな円の描かれた用紙に、丁寧に角度や距離を測り、天体図を書いていく。
『この一週間の星の動き。
…文字通り東の海ならば、
特に目立った吉兆・不吉兆なし。
…だが更に範囲を広げると』
「裏切りの星、争いの星、と出ました」
「…それはどこで?」
「東の海のさらに向こうで」
オーレリアは客の目を見つめ、ゆっくりと一度瞬いた。客はごくり、とその喉を鳴らす。
…恐らく、この夜の街に座する占星術師たちの中ならば、同じ結果まで辿り着く者は少なくないだろう。その上でこの客に、自分を選ばせるならば。
オーレリアは自らの口元を覆ったヴェールを剥ぎ取る。席を立って卓を回り込み、濃い雨の匂いの残る客の肩に自らの細い指をそっと置く。そして背後から客の耳に赤い唇をそっと近づけ、
「…一週間後、またお目にかかれますことを」
と囁いた。
…そして一週間後。
「こんばんは、ミス・オーレリア」
オーレリアは競り勝った。
「東の大国エウレクで、
クーデターによる新王が立ちました」
大国エウレク。軍事に特化し、未だ絶対王政を守る国。
オーレリアは客の姿を見る。
先週より数段仕立ての良い服を身につけ、短髪を後ろに撫でつけた立派な姿。
その姿で、オーレリアはこの人物が誰であるか、ようやく分かった。
「これからあなたに、私の占いをお願いしたい」
「承知致しましたわ、
グランドール旧公爵。
…大臣、とお呼びしたほうがいいかしらね」
『運が向いてきたわ』
オーレリアは口角を高く吊り上げ、野心の火をその瞳に燃やした。




