第二章 一流への道 14-泥沼からセレナーデを 中編
正直、一番古い記憶を思い返しても親の顔はわからない。気づけばすでに孤児だった。
毎日が戦いで、人から食べ物を盗む日がほとんどだった。
『食べ物を盗むな』と皆が言うが、じゃあ誰が俺に食わせてくれるんだ。
俺に説教をする人間にそう言ってみたら、黙るどころか殴ってきた。
人間なんて、そんなものか。
真っ当な人間なんてこの世には居ないんだろう。
どうして俺は一人路地裏で過ごして、大通りを歩く知らない子どもには手をつなぐ家族が居て、当たり前に家に帰るのか。
そんな問いが頭を埋め尽くすこともあったが、そんなこと考えた所でどうしようもない。
だったら、力でどうにかするしかない。
そうでもしないと、俺は生きられないんだから。
ある日路上に捨てられた瓶を叩き割って、凶器に変えた。
その凶器を相棒だと思って毎日を過ごすと、不思議と心が強くなれた気がした。
物は裏切らない。つまりこれは、最高の相棒。
『今なら何かできそうだ』と思って、普段居る路地裏から出てしばらく歩く。
夜の闇に紛れて歩けば、人の目はあまり気にならなかった。
どこに行くのかは特に決まっていなかったが、途中に市場などあれば食べ物を盗んで……などと思っていた。
しかし夜に食べ物を外に置いておくような不用心な屋台などありはしなかった。
腹が鳴る。この体が、『生きたい』と訴えている。
それでもどこかに行かなければ。足を止めることなどできない。
しばらく歩いていると、目の前の路地に人の姿を見つける。
少し小太りの男だった。
「……っ、……」
乾いた喉で、ありもしない唾を飲み込んだ。
自然と相棒である凶器を握り締める。
あの男がどこかの建物に入る前にやらなければ。
そんなこと、できるか? いや、やらなければ自分が死ぬ。
脅すだけだ、脅すだけ。
何かきっかけさえあれば、この足は踏み出せる。
――バサバサバサッ!
そう思った途端、カラスが飛び立った。
今しかない。
俺は走り出して一気に目の前の男と距離を詰め、男が振り向いた時に凶器を向けようとした。
だが。
――ゴッ!
「ぐはっ!」
その前に腹に強い衝撃が加わって、俺は地面に転がった。
……何が起きた?
こみ上げる胃酸が喉を焼き、俺はせき込んだ。
とっさに思ったのは、しくじったということ。
ついに、死ぬのか。
まぁでも、もういいかな。
「何を、笑ってる?」
男が問いかけた。気づかぬうちに自分は笑っていたらしい。
「……ころせ」
一言だけ、声が出た。
普段誰とも喋らない自分の声が、こんな声だったかと意識の隅で思う。
男は黙り込む。
俺の声が聞こえてないのか?
もう一度言うのもだるいが、声を出しかけたその時。
男は腰元から工具を取り出し、俺に向けてこう言った。
「……盗みや殺しはしないと誓え。それができるなら……美味いもんは食わせてやれねぇが何か食わせることはできる。ついてくるか?」
男の顔は街灯の逆光で見えなかったが、声にはどこか温かさがあった。
俺は、生きててもいい?
『まだ死ねないのか』と、かったるい気もしたが、俺は少し考えてから寝た体制のままうなずいた。
「どうして、すぐうなずかねぇんだ?」
男が腰を下ろしたことで、初めてその顔を見た。
ひげが生えてて無骨ではあるが、温かみのありそうな顔をしていた。
そのまま手を差し伸べられ、茫然としながら手をとる。
「もう死んでもいい、と思った」
「……そうか」
俺はその時、人の手は温かいものなのだという当たり前の事に気づいて驚いていた。
「歩けるか? 俺の工場まではもうちょい歩くぞ」
男の言葉に俺は一つうなずいて立ち上がり、男の隣を歩いた。
知らぬ間に、相棒の凶器は無くなっていた。
*
「ここだ」
古めだがそれなりに広く、物でごった返した家だった。しかしゴミが多いわけではなく、色んな機械が置かれている文字通りの『工場』だった。
「こっちへ来い」
言われるままついていくと、男は蛇口から水を出して手を洗う。
「お前も手を洗え。食べ物を食べる前の基本だぞ」
「あ、あぁ……」
手を洗うと、手に着いていた土埃がどんどん落ちて自分の本来の肌の色がわかるようだった。
「今さらだが、自己紹介をしてやろう。俺はアラン。修理工をしている。お前の名前はなんだ?」
「……わからない」
「名前が無ぇのか? それはそれで、呼びづれぇな。俺がつけてやるか。名前を付けるのは得意なんだよ。この前死んだ猫はタマ、その前に死んだ犬はポチだった」
「……」
正直、それが良い名前かはわからない。というか、自分に名前? 信じられない気持ちだ。
男はふむ、と腕を組んで、しばらく俺を見つめた。
気まずくて俺は目をそらす。
「……よしわかった。お前の名前は、『スヴァン』だ。よーく覚えとけよ。『スヴァン』だ」
「スヴァン?」
「あぁ。良い名前だろ」
がははと笑ってアランは戸棚からパンとチーズを取り出して、テーブルの上に置いた。
そして二つのカップにミルクを注いで、それもテーブルに置く。
俺がその様子を茫然と見つめていると、アランは意外そうに俺を見た。
「意外だな。孤児となりゃすぐ食べ物に手を出すもんかと思ったんだが」
「……」
俺としては、この男の腹の内を探るので精一杯だっただけだ。
食べ物を恵んでくれる人も今までゼロではなかったが、俺に名前まで付ける人間は初めて見た。
「まぁいいか。よし、準備ができたぞ。食え食え!」
俺はアランが食べ始めるのを見てから、おずおずと食べ始める。
その食事は質素なものだったが、なぜかすごく美味しく感じた。
*
食べ終えてからアランの方を見ると、一足先に食べ終えていたアランは時計の修理をしていた。道具で小さい金属を回しているが俺には何をしているのかさっぱりわからなかった。
やがて俺の視線に気づいたアランは、「やってみるか?」と言って俺に手元の道具を渡す。
俺は『武器になりそうだ』としか思えなかったが、さっきアランがやっていたように道具を持って小さな金属を回してみる。意外にも、面白かった。
「ほう、手先は意外と器用なんだな。面白いか?」
アランの問いかけにうなずくと、「そうか!」と嬉しそうにアランは笑った。この人の嬉しそうな顔を見て、心がなぜかきゅっとした。
「お前が今持っているのは『ドライバー』って言ってな。そのちっこいのは『ネジ』って言う。おもしれぇだろ、回すとその蓋が固定されるんだ」
「……終わった」
アランがやって見せた一つを除き、三つのネジを回し終えてアランに渡すと、「締まりが甘いな。もうちょっと強く締めねぇと……」と言って仕上げをしてくれた。
「お前、歳は? 誕生日もわからねぇのか?」
「わからない」
アランは手元の機械をいじっていたが、俺の答えに一度こちらを見て、再び機械をいじりながら言った。
「じゃあ今日が誕生日ということにしよう。今日は『6月4日』だ。歳は……そうだな、見た目的に十一歳だな! お前の誕生日は6月4日、歳は十一歳。わかったな?」
「なんで、俺に名前とか誕生日とか決めてくるんだ」
「お前のことが気に入ったんだ。俺がお前を拾ってやる。今日から寝る場所も食うものも、まぁ裕福にはさせてやれねぇが心配しなくていい。その代わり、俺の助手になれ」
「!」
「嫌か?」
俺は首を横に振る。
その時、お礼の言葉を知らない俺は言いたくても言えなかった。後にアランから「ありがとう」という言葉を教わった時も、照れくさくて言えないままだった。
それでも……嬉しかった。
***
アランの助手として工場に住み込みで働くようになって数か月。
最近になって趣味ができた。
「また絵描いてんのか。えらく上手ぇじゃねぇか」
アランが横から覗いてくる。
「勝手に見んな」
とは言うものの、実は褒められるのが嬉しい。
画材は木炭で、消す時は腐りかけのパンを使って消す。この日は工場の室内を描いていた。
俺はどうやら、絵の才能はあったみたいだ。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「客だ。出迎えてやってくれ」
「わかった」
ドアを開けると二十代半ばほどの美しい女性が立っていて、驚く。
向こうも俺を見て、ひどく驚いた顔をした。
「あら? アランさんついにお弟子さんとったんですか!?」
「またお前か、シャロン。まぁ、その通りだがな。……スヴァンだ。よろしく頼む」
俺が頭を下げると、女性も軽く頭を下げた。
そして工場に入ってくる彼女のプラチナブロンドの長い髪が揺れて、嗅いだことのない華やかで優しい匂いに驚いた。
「お前、今度は何を壊したんだ?」
「今度はオルゴールを壊してしまったの。直せるかしら?」
「俺を誰だと思ってるんだ、『天才のアラン』だぞ?」
「そうね。納期はいつでもいいわ。よろしくお願いします」
アランはシャロンという人が持ち込んだオルゴールを見て言った。
「これならすぐ直せるぞ。ちょっと待てるか? 一時間か二時間で終わる」
「ほんとに!? じゃあ待たせてもらおうかしら。……あら?」
シャロンは俺が描いた絵を見て優雅に口元を抑える。絵を隠すの、忘れてた……!
「素敵な絵ね……! すごく上手いじゃない!」
「あぁ、それはスヴァンが描いたんだ。俺に似て天才だろ!」
「アラン、余計なこと言うな……!」
俺はキャンバスを裏にして絵を隠す。
するとシャロンは俺の顔を覗き込んできた。
「ねぇスヴァン、私の絵を描いてもらえない?」
「なっ……人なんか、描いたことねぇ……」
「良いじゃない。すべての事には始まりがあるものよ。あなたの描く初めての人間は私でどうかしら? お金も払うわ」
「上手く描けねぇかもしれないから、金はもらえねぇって……」
「じゃあ分かった。お金は払わないけど、今後もあなたに絵を描いてもらう顧客になるわ」
俺たちの様子を見たアランはがははと笑った。
「もうわかったと思うがな、その女はなかなか引き下がらんぞ。押しが強いんだ、こう見えて」
「いいじゃない。若者の才能に惹かれているの、それだけよ?」
「いや、でも俺は……」
俺が口を出すと、シャロンは優しく笑った。
「失敗してもいいの。失敗は成功のもとだから」
「……、……わかった」
「ありがとう、スヴァン! 私はここに座ってなるべく動かないでいるから、お願いね」
シャロンが椅子に座るのを見て、アランも『俺もそろそろ始めるか』と言ってオルゴールの修理を始めた。
俺は緊張しながら木炭を手に取り、シャロンを描き始めた。
描くためにはじっくり見なきゃならないが、見るほどにシャロンという女の顔は美しかった。鼻も目も唇も、整っている。
「そういや、恋人とはうまくいってんのか?」
アランの問いかけについ手が反応し、木炭が折れる。慌てて平静を装い、でも耳はしっかりシャロンの言葉を待っていた。
「ジェームズのこと? えぇ、上手くいっているわ。……ってちょっと、私今動いちゃいけないんだからアランさんは話しかけないで」
「へいへい」
「……ごめんなさいね、スヴァン。続けてちょうだい」
「あぁ」
少し声が上ずるが、どうか気づかれないでほしい。
こんな美人に恋人がいるなんて、当たり前だろ。それに俺とは歳の差が……。いや、っていうか、その前に。
……俺は、まだ子どもだ。
その事実に心が痛んだ。
早く、大人になりてぇ。
一時間半経って描けたシャロンの絵は予想以上に上手くいき、シャロンは喜んでその絵を受け取った。
代金はもらわなかったが、その日の夜。
「シャロンからだ」
と、アランからお金を受け取った。
「? 俺、受け取らなかったけど」
「俺が提示したオルゴールの修理代より金額が多くて、『お釣りは結構よ』って言ってたからな。お前へ差額を渡してくれってこったろうなって思ったんだ」
それは、俺が初めて自分で働いて得た金となった。
***
それから六年経ち、俺は十七歳になった。
ある日、工場のドアを叩く音が聞こえて戸を開けると、見たことのない短髪の黒髪の男が立っていた。
「夜分にすまんな。腕時計が壊れてしまって、修理をお願いしたいんだが」
「今、修理工のアランは外に出てる。あと三十分くらいで帰ってくるはずだけど」
「? というと、君は誰だ? ……あぁ、まずは俺が名乗ろうか。――ダルクだ。よろしく頼む」
「俺はスヴァン。アランの助手をしている。待ちたかったらここで待っててもいいけど」
「じゃあ、待たせてもらおうかな。助かるよ、スヴァン」
しばらく世間話をしていて仲良くなったダルクに職を聞いてみる。しかし、何気なく聞いた問いにダルクは表情を曇らせた。
「あまり表で言えない職業なんだが、ドン引きされないか心配だ」
……その手の人か、と思った。
ここで働いていて、色んな客を見てきた。中には、ダルクのように表で言えない職種の人間もいた。
むしろシャロンのような金持ちの家の娘がここに来る方が珍しかった。
「別に、気にしない。俺も元孤児だ。表ではあまりいい顔されねぇけどな」
「そうなのか! 大変だったな。俺はイタリアのマフィアなんだが、プエルトリコでうちのマフィアが営業してるカジノで働いてるんだ」
「マフィア……ね。俺は運良く今まで人殺しはしてねぇけど、あんたはしたことあんの?」
「いや。俺は麻薬関係の目利きにしか使われてないから、殺しはしたことないよ。ただ……この前、信頼していた人が抗争で亡くなってな。親しく話した数分後、俺が振り返った時には死んでいて。さすがに気が狂うかと思った。いいか、スヴァン。マフィアには入らない方がいい。抜けられなくなるぞ、俺みたいにな」
「あんたも大変だったな。俺はこのままアランの技術を継いで修理工にでもなるのかもしれない。マフィアに入らないよう、肝に銘じとくよ」
俺はその時まだ知らなかった。
その二年後、アランが死ぬことになるなんて。




