嬉し涙を知りました
ヴィルディエール様のマントを手に取り、細い針と色の合う糸を用意する。どれも魔物産の安物……というよりもタダ同然の粗悪なものだ。普通の神経をしていたのならば、絶対に他人の衣服に使うことはしないだろう。
けれど、私には今これしかない。
ときおり森に迷い込んだ魔族……魔人族の人々からお裾分けと称して日々の生活に必要なものをいただけたりするのだけれど、それでも私が広く使えるのは魔物を倒して手に入れたものばかり。
本当は失礼かもしれない。
嫌な顔をされるかもしれない。
なんなら失望されるかもしれない。
自分の衣服にそんな粗悪なものを使うなんて、と眉を顰めて怒りを表すかもしれない。
うっ、考えただけで悲しくなってくるわ。
でもでも、ほつれがあるのは気になるんだもの。お料理まで用意してもらって、至れり尽くせりさせてもらって、それだけでお礼を言うことくらいしかできずになにも恩を返せないのは、嫌だわ。
私ばかりもらうのは嫌。もらってばかりいるのは嫌よ。だって、怖いもの。
いつもいつも与えることを強制されるだけで、もらうことなんてなかった。だから、もらってばかりいるのはとても怖い。いつか法外な要求をされてしまいそうで怖い。体験したことがないからこそ、見返りのない善意がとても怖いのだ。
そうして強迫観念じみた意思に押されて手元を動かす。
臙脂色のマントは高級感が漂うものだ。きっと大切なもののはず。私がやるべきなのは、せいぜいしつけくらい。『仮縫い』程度の範囲に留めておいて、彼のご実家のほうで完璧に仕上げてもらえるようにしておくくらいだわ。
きっと彼は良い家柄のかただもの。私なんかの手縫いの跡が残らないよう、しっかりと専門のかたが後からやってくれるはず。今は応急処置。そう、応急処置よ。
「恩返し、したいものね」
たとえ拙くとも。
「せめて、気持ちだけは受け取ってもらえると嬉しいわ」
「もちろん!」
肩口のあたりから大きな返事が聞こえてびくりと肩が跳ねる。
「っ!? ヴィ、ヴィルディエール様、いらしたのですね」
いきなり真横に顔があるのは勘弁してほしいわ。びっくりしたもの! 思わずはしたない悲鳴が漏れてしまうところだった。目の前で気絶したりと失礼なことばかりしていて、すでに弁解は不可能なほど醜態を晒してはいるけれど、素っ頓狂な悲鳴なんて聴かれたくないもの!
「勝手なことをして申し訳ございません。迷惑でしたら、今すぐ取りやめますので……」
「いいや、構わない! 続けてくれ!」
彼は笑いながら私の正面に移動する。お台所の片付けは終わったようだけれど、エプロンはそのままだった。それがなんとなく可愛らしくて目を奪われる。
「そのマントも随分とくたびれてしまっていたようだ。忙しさにかまけて手入れを怠っていた俺の責務だな。気がつかなかったから、手直ししてもらえるのはありがたい!」
なんてこと! 本人から許可が降りるなんて……!
「しかし、私の持っている針と糸は高級なものではありません。このマントには不釣り合いなのでは、ないかと」
「なに、構わない! 魔物の針や糸も立派な道具のひとつ。仕立てる人間の腕がよければ材料の質など気にすることはないだろう! 君は手元を見る限り、かなり上手い! 気にすることはないな!」
「あ……ありがとう、ございます」
おかしい、顔が熱い。こうも真っ正面から褒められると、その……すごく照れてしまう。こんな風に成果を褒められるのがどうしようもなく嬉しくて、心があたたかくなって仕方ない。
「あの、ヴィルディエール様は、どうして私のような者に、このように良くしていただけるのでしょうか? 森に住み着いた、こんなおかしな女ですのに」
こんなにも満たされていていいのだろうか? という不安が付き纏う。
私は崖の一歩手前にいて、その先の幸せな幻影に手を伸ばしたら最後、真っ逆さまに落っこちてしまうんじゃないかなんて後ろ向きな気持ちが拭えない。
不安から溢れた言葉に、彼は「ふむ、そのようなことを思っていたのか」と納得するようにして首を振る。
「持てるものこそ、他者に与えるのが当たり前だ。そして、寛容でいて、弱き者をこそ、愛……するべきだと思う!」
愛。彼はそこで少し言葉を濁して私から目を逸らしたが、言葉は強くまっすぐだった。
「もちろん、博愛が全てではない。しかし君達は100年程しか生きられぬ身。少々拙くても、努力し頑張っている姿こそ美しく素敵で、どうしようもなく愛らしいと感じてしまうものだ」
率直で、素直で、心から本当にそう思っているのだと分かる口調で彼が言う。
私は、その言葉に心を救われながらきゅっと拳を胸のあたりで握った。仮縫いの終わったマントを思わず抱きしめるようにして。
「間違えたのならそれは叱られ、謝りを正されるべきだと思うが、君はなにも間違ったことなどしていない! なにも叱られるようなことはしていない! だから、恐れるものなどどこにもない!」
まっすぐとシトリンが私を射抜き、彼の筋張った人差し指が軽くコツンと私の額に突きつけられる。強くなどなく、ただ触れただけのそれ。真っ正面から見ることになったヴィルディエール様のお顔があまりにも優しかったものだから、私は気が遠くなりそうだった。必死に意識を繋ぎ止めて、揺れる視界を見つめる。
「自信を持ちなさい、君は素敵な人だ。この俺が保証する」
あたたかいものが頬を伝う。
それを彼の指が追い、すくいあげる。
「そう、自分を卑下するものではないぞ」
「わた、し……」
ああ、また。
せっかく恩返しをしようと思っていたのに、また恩が増えてしまった。
「どうして、涙、が」
「君は知らないようだが」
次から次へと流れていく雫をどうにかして止めようとしても止まらず、戸惑っているとヴィルディエール様が優しい声で私を諭すように言う。
「フレアローザ殿。人は、嬉しいときにも涙を流すものなんだぜ」
そのとき、私ははじめて『嬉し涙』を知った。
明日はちょっと難しいので、明後日の火曜日に次を投稿いたします。




