深海探索ツアー
ドクターKの仕事は、ルミナスが用意したAIに、すべて引き継いだ。
世界のパワーバランスを極端に崩さないよう、日本の安全性を高める程度に活動しろと、活動の範囲は、きちんと指示してある。
そして、ケイスケは今。
「ま、マジかよ……でけー……」
光の届かない闇の底で、山のような巨体が、ゆっくりと身をよじっていた。五十メートルはあろうかという、巨大なイカだ。
社会で無双したケイスケが、次に望んだのは、地球の神秘や謎に迫ることだった。
そして、最初に望んだのが、昔から気になっていた、この疑問だ。
地球で一番大きいダイオウイカは、どれくらいデカいのか。
ダイオウイカは、男のロマンなのだ。
実際に確認されたダイオウイカは、せいぜい十四メートル。だが、各地に残る伝説や、生物学上の理論値からは、もっともっと大きな個体がいるはずだと言われている。もしも、本当に超絶巨大なダイオウイカがいるのなら、この目で見てみたい。
その願いを聞いたルミナスは、海をスキャンして座標を割り出し、ケイスケを連れてきてくれた。
深海の、ものすごい水圧も、宇宙船の前では、ないに等しいらしい。あっという間に、目的の深さに到達した。
そしてルミナスは、ケイスケを、深海の中に送り出した。
不思議な光が、ケイスケの体を、薄い膜のように包んでいる。冷たさも、水の重さも、まるで感じない。呼吸も、少しも妨げられない。ある程度は、自由に動くこともできる。
音のない世界だった。
自分の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。ゆっくりと闇の奥へ進むと、光の端に、何かが浮かび上がった。
赤みがかった、巨大な壁。
いや、壁ではない。体だ。
見上げても、端が見えない。うねる胴体が、闇の向こうまで続いている。そこから伸びる腕は、ビルの柱ほども太かった。びっしりと並ぶ吸盤の、ひとつひとつが、マンホールの蓋ほどある。
巨体が身じろぎするたびに、海水が、うねりになって押し寄せる。光の膜が、かすかに震えた。
そして。
闇の中から、ゆっくりと、巨大な目が現れた。
直径は、ケイスケの背丈に迫るほどだ。深い深い黒が、ぎょろりと、ケイスケを見据える。
ケイスケは、息をのんだ。
『スキャンの結果、全長は五十二・四メートルです。人類の記録にある、どの個体よりも大きいかと』
頭の中に、ルミナスの声が響く。
「五十二・四……記録の、三倍以上かよ……」
かすれた声で、ケイスケは呟いた。
ダイオウイカは、ケイスケを見つめたまま、ゆらりと腕を動かした。
次の瞬間。
海水が、爆ぜた。
巨大な腕が、鞭のようにしなって、ケイスケめがけて襲いかかる。
「うわっ!」
逃げる間もない。ビルの柱のような腕が、ケイスケを、あっという間に巻き取る――はずだった。
ばん、と、光の膜が、腕を弾き返した。
二本、三本、四本。何本もの腕が、四方から殺到する。吸盤が光に張りつき、ずるりと滑る。ぎしぎしと、力任せに締め上げようとしても、膜は、びくともしない。ケイスケの体には、水の一滴すら、触れなかった。
やがて、巨大な腕は、行き場を失って、ゆらゆらと、闇の中を漂った。
『ご安心ください、マスター。この光は、どのような力も、通しません』
ルミナスの声が、頭の中に響く。
ケイスケは、こわばっていた肩から、ゆっくりと力を抜いた。
「……分かっちゃいても、すげー迫力だな」
巨大な目が、まだ、ケイスケを見つめている。
ダイオウイカは、しばらくケイスケを襲い続けたあと、あきらめたようにゆっくりと闇の奥へ去っていった。
ケイスケは、そのあともぼーっと深海を見つめていた。興奮が少しずつ収まってくる。
(五十メートルってことは……シロナガスクジラより、でかいのか)
ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。
「ところでルミナス、イカの中ではあいつが最大として……もっと大きい生き物が、他にいたりするのか?」
ルミナスは、少しだけ間を置いた。どこか含みを持たせた声で語り始める。
『純粋に実体を持つ物質的な生物、という定義であれば、最大はシロナガスクジラです。全長こそ先ほどのダイオウイカに劣りますが、体長三十メートル、体重は二百トンを超えます』
そして、少し声を落とした。
『……ですが、地球の物理空間の定義を少しだけ広げて、「位相のずれた領域に存在する生命体」を含めてもよろしければ、それを遥かに凌駕する超巨大生物が存在いたします』
「位相が、ずれた……? どういうことだ?」
興味を引かれて問い返すと、ルミナスは深海の暗闇に青白いホログラムのグラフを展開した。
イルカ、シャチ、マッコウクジラ、シロナガスクジラ。生き物たちが大きさの順にずらりと並んでいる。その端に、縮尺を疑うような異様に長い影があった。
二百メートルを軽く超えている。
「な、なんだコイツ……」
『ブループと呼ばれる巨大なクジラです』
「ブループ……聞いたことがあるぞ」
『一九九七年、アメリカの海洋大気庁が南太平洋で捉えた、原因不明の超巨大な水中音です。「Bloop」と名付けられました。科学的には「氷山が割れる音」として処理されましたが……』
ルミナスの声が静かに沈む。
『あの音の正体が、ブループです。ブループは、人間が「幻獣」や「怪獣」と呼んできた存在の一種です。彼らは通常、異なる次元の波長、位相に存在していて、基本的に肉眼で見ることも触れることもできません。ですが極めて稀に、現実の世界にその体が「顕現」することがありますが、死ぬと死体は消失しますので、痕跡も残りません』
ケイスケは、ごくりと唾をのんだ。
『ちなみに現在、南太平洋の深海三千メートル付近で一体のブループが実体化しております。見に行かれますか?』
「マジか! もちろん見てみたい!」
ケイスケの目が、興奮で輝いた。
ケイスケは、一度宇宙船に戻った。
光に吸い上げられ、白い船内に立つ。
ケイスケは部屋の中央にある椅子に腰かけた。
が、
『到着いたしました』
相変わらず一瞬だ。振動も無いため、移動した感すらない。
いそいそと再びリバースポイントに立つ。
再び光の膜に包まれて、ケイスケは深海へ送り出された。
ルミナス曰く水深三千メートル。
光の届かない闇が、ひたすら広がっている。音もない。動くものもない。
どこまで見渡しても、何もいなかった。
「……いないじゃないか」
『ブループの反応が、消失しております』
ルミナスの声が、わずかに曇る。
『ほんの僅かな時間の間に、位相がずれて消えてしまったようです』
「マジかよ……」
ケイスケは、がっくりと肩を落とした。あんなに胸が高鳴っていたのに。闇の底に、自分の落胆だけが沈んでいく。
『ご安心ください、マスター』
「……ん?」
『こちらの位相をブループに合わせることが可能です。そうすれば、ご覧いただけます』
ケイスケは、勢いよく顔を上げた。
「そんなことができるのか! 頼む! やってくれ、ルミナス!」
『かしこまりました』
次の瞬間。
『違和感』
があった。
そう、違和感だ。
音でもなく光でもなく、匂いでもない。
五感のいずれにも基づかない、シンプルな違和感。
これが、位相がずれた感覚か?
しかし次の瞬間。
音のなかった世界に、音が生まれた。
腹の底に響く、低い低い唸り。ケイスケの全身が、ビリビリと震える。
そして闇の向こうから、そいつは突然現れた。
ビルか!? と思った。
ケイスケが勤務していた12階建てのビルなどではない。
東京駅や新宿駅の中でも、特にデカい超高層ビル並だ。
それが、生きて動いている。
とてつもなく巨大な胴体。
黒い皮膚には、幾筋もの古い傷が刻まれている。
巨大な尾びれが、ゆったりと闇を叩き海が揺れる。
そして深海の闇の中へ、沈んでいった。
一瞬の会合。
しかし、常識を超えた「幻獣」の姿を目の当たりにし、ケイスケはただただ言葉を失い、その圧倒的なロマンに酔いしれた。




