至れり尽くせりなUFOさん
……まぶしい。
ケイスケは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井があった。白い。継ぎ目のない、滑らかな白だ。柔らかな光が、どこからともなく降っている。
寝ぼけた頭で、手を動かす。
触れたのは、ふかふかと沈み込む、知らない素材の感触だった。
「――っ!?」
飛び起きた。心臓が跳ねる。
知らない部屋。知らない寝台。オフィスでも、自宅でもない。まさか、寝落ちして病院に運ばれたのか。いや、それにしては、何もかもが静かすぎる。
パニックが喉までせり上がってきた、その時。
『――私のマスターに、なっていただけませんか?』
昨夜の声が、脳裏によみがえった。
屋上。満天の星空。銀色の円盤。夢だと思って、「遠いところに連れてってくれ」と言った――。
「……夢じゃ、なかったのか」
呆然と呟いて、なんとなく自分の手を見た。
そこで、妙なことに気がついた。
見える。……見えすぎる。
指先の皮膚の、細かな溝まで、くっきりとだ。ここ数年、老眼と乱視でモニターの小さな文字に苦労していたはずなのに。部屋の隅の、天井のパネルの、髪の毛ほどの継ぎ目にまで、ピントが合っている。
(それに)
肩を回してみる。ゴリ、とも鳴らない。慢性的だった首の凝りも、腰の鈍い痛みも、徹夜続きの頭の重さも、きれいさっぱり消えていた。二十代の朝みたいだ。
「なんだこれ……体が、めちゃくちゃ軽い」
「おはようございます、マスター」
声は、虚空から聞こえた。
「うわっ!?」
思わず身を縮めて、周囲を見回す。誰もいない。抑揚の少ない、けれど不思議と耳に馴染む声――昨夜、空から聞こえたものと、同じだった。
「……その声。お前、昨日の」
「はい。この船を制御している、AIです。マスターがお目覚めになるのを、お待ちしておりました」
「船……?」
「はい。ここは、宇宙船の内部です」
ケイスケは、しばらく無言で天井を見つめた。宇宙船。宇宙船か。
「……まあ、そうだよな。UFOだったもんな」
あれこれ諦めの境地で、頷く。プログラマーの習性というやつで、想定外の事態にぶつかったら、まず現状の確認からだ。
「状況を整理させてくれ。ここは宇宙船の中。お前は、その船のAI。で、俺は、どうやら……」
「マスターです。昨夜、ご承諾いただきました」
「あれ、夢の中の返事だと思ってたんだけどな……」
「契約は、成立しております」
「契約って言うな。急に不穏になる」
ケイスケは、もう一度、自分の手を見た。
「じゃあ、これは? 目が良くなってるし、体もやたら調子がいい。何かしたのか?」
「はい。マスター登録の手続きとして、ナノマシンを注入いたしました」
「……ナノマシン」
「細胞レベルの修復を行う、医療用の微小機械です。蓄積した疲労物質の除去、酸化した組織の再生、水晶体の調節機能と網膜の回復、筋骨格の歪みの矯正などを、睡眠中に一括で実施しました。現在は、マスターの体内に常駐して、良好な状態を維持しています」
「常駐って……デーモンプロセスかよ」
「近い概念です」
「近いんだ」
ケイスケは、深く息を吐いた。
「……一晩で、全部?」
「はい。一晩で」
体のメンテナンスを、ファームウェアのアップデートみたいに言うな、と思う。けれど、否定できないくらい、身体は軽い。
窓のない部屋を、ぐるりと見回した。
「それで。この船は今、どこにいるんだ?」
「どこへでも、マスターのご希望のままに」
AIは、そう答えた。
(どこへでも、ときたか)
ケイスケは、寝台の上であぐらをかいたまま、頭を抱え、そして深呼吸をした。
(俺の名は尾形ケイスケ。株式会社スピーディワンダーのプログラマー。日本のスーパーサラリーマン様だ)
宇宙船のマスターになったからといって、仕事を突然放棄することなど、できるわけがない。
それはそれ、これはこれだ。
「……ええと」
ケイスケは、状況をひとつずつ確認することにした。
「まず、今、何時だ?」
「現在、午前五時です」
「五時……朝のだよな。俺が屋上でお前を見つけてから、まだ数時間しか経ってないのか」
「はい」
「じゃあ、次だ。俺は、家に帰れるのか?」
「はい、お帰りになれます。ご帰宅されますか?」
即答だった。あまりにも、あっさりしている。攫われた、というわけではないらしい。
「……帰る。今すぐ」
「かしこまりました。ご自宅までお送りいたしますので、ご住所をお教えください」
ケイスケは、素直に住所を口にしかけて、はたと止まった。
「待て。なんで、お前が日本の住所を分かるんだ? そもそも、なんで俺と日本語で喋れてる?」
「言語をはじめ、この星の情報は、すでにある程度、学習済みです」
「学習済み……」
プログラマーの血が、少し騒いだ。どれだけのデータを、いつ、どうやって? 聞きたいことは山ほどあったが、今は時間がない。あとで、絶対に聞く。
ケイスケは、自宅の住所を告げた。
「承知いたしました。――着きました」
「は?」
数十秒。カップ麺ができあがるのを待つ時間よりも、はるかに短い。
「着いたって、今か? 動いた感覚も、なかったぞ」
「移動の準備をいたします。そのまま、お待ちください」
ケイスケの足元から、淡い光が立ち上った。光は、ゆっくりと体を包み込んでいく。
熱くも、冷たくもない。ただ、視界が一瞬だけ白くなって――。
落ちる感覚も、不快な浮遊感もなかった。
気がつくと、靴底が、見慣れた地面に触れていた。
朝焼けの前の、薄青い空。遠くの空が、うっすらと白んでいる。コンビニの看板、高架を走る始発電車。そして、目の前には――。
「……俺のマンションだ」
光は、音もなく消えた。
ケイスケは、あたりを見回して、青くなった。
(い、今の……誰かに見られてたら、まずいんじゃないか? UFOが、マンションの真上にいたわけだろ……)
『大丈夫です』
頭の中に、声が響いた。
『周囲からは見えないよう、光も音も調整しております』
「うおっ」
思わず声が出た。
(……頭の中に、直接かよ)
とりあえず、部屋に戻ろう。話は、それからだ。
エントランスをくぐり、自分の部屋に帰った。シャワーを浴びて、スーツに着替える。
洗面所の鏡の前で、ネクタイを結ぼうとして、ケイスケの手が止まった。
鏡の中に、見知らぬ青年がいた。
いや、見知らぬ、というのは正確ではない。輪郭も、目鼻立ちも、たしかに自分のものだ。ただ、目の下の深いクマがない。頬のたるみも、疲れて沈んだ肌の色もない。どう見ても、二十代半ば。まだ徹夜にも耐えられた頃の、自分の顔だ。
「……は?」
頬をつまむ。痛い。ぴんと張った肌が、つまんだ指を、弾き返した。
(元気そう、どころじゃねぇだろ……)
視力や体調だけではなかったらしい。ナノマシン、恐るべし。
時刻は、午前六時前。始業までは、まだ余裕がある。
宇宙船のマスターだろうと、始業は九時だ。
ケイスケはネクタイを締めて、いつもの道を通って、会社へ向かった。明後日納期の仕様変更が、待っている。
スーツに着替えて、鞄を持ち、玄関で靴を履く。いつもの出勤の時刻だ。
ここから会社までは、毎朝、電車に揺られて通っている。靴べらを片手に、ケイスケは、ふと思った。
(そういえば……さっきの円盤、数十秒でここまで来たよな)
「さ、流石にワープと言うか、瞬間移動とかは、出来ないよな?」
誰もいない玄関で、ほとんど独り言のつもりだった。
『可能です』
即答が、頭の中に響いた。
「できるのかよ!?」
『はい。ただし、消費エネルギーが大きくなります。マスターのご希望の移動距離は、おそらく数キロから数十キロ程度の距離と推測します。その距離は、ワープをするには近すぎます。私としては、先ほどのようにお送りさせていただきたいです』
ワープが可能。さらっと言われて、ケイスケは、しばらく玄関で固まった。
だが、理屈は分かる。
(近所のコンビニに行くのにロケットを飛ばすようなものか)
「……たしかに、割に合わないな。じゃあ、さっきのやつで頼む」
『かしこまりました。ご案内いたします』
ケイスケは、マンションの裏庭へ向かった。ゴミ置き場の脇の、植え込みに囲まれた一角。人気はない。
足元から、淡い光が立ち上る。
次の瞬間、ケイスケの体は、すうっと光に吸い上げられた。
宇宙船の中
そして、ものの数十秒で再び淡い光。
落ちる感覚や不快な浮遊感はない。視界が一瞬だけ白くなって――。
ざわめきが、耳に飛び込んでくる。
そこは、オフィス街のど真ん中、会社のビルの目の前の横断歩道の前だった。
スーツ姿の人々が、次々と横を通り過ぎていく。歩道の脇には、ビルとコンビニと信号機。そして――あちこちにあるはずの監視カメラ。
(ちょ、ちょっと待て。人目、多すぎだろ。カメラも、あちこちに……)
血の気が引いた。突然、人混みの中に現れた男。どう考えても、騒ぎになる。
「お、おい。これ、大丈夫なのか?」
小声で尋ねる。
『問題ありません』
ケイスケは、恐る恐る、あたりを見回した。
誰も、驚いていない。
それどころか、誰ひとり、こちらを見ない。スマホを見ながら歩く男性、電話をかけながら急ぐ女性、信号待ちの学生たち。肩がぶつかりそうな距離を、みんな平然と通り過ぎていく。
「……誰も、反応してないな」
『透明化を解除した瞬間に、周囲へ、認識を阻害するジャミングを流しました。皆さまは、マスターの出現を認識できておりません』
「ジャミングって……」
『なお、監視カメラの映像は、必要であれば、いくらでも改竄できます』
「マジかよ。まぁ、そりゃそうか……」
ケイスケは、苦笑しつつ軽い溜息をついて、ネクタイを直した。
目の前には、慣れ親しんだオフィスビル。
ドコ〇モドアがあったらな。
誰もが何度も願ったような夢が、実質叶ったと言える。
(よし。体の調子も頭の調子も万全だ。カカカカッとやりますか)
ケイスケは、人の流れに紛れて、歩き出した。
僅か一時間で、ケイスケの仕事は終わっていた。
恐ろしく滑らかに指が動き、ミスなくタイピングが走る。
しかしそれでも、頭の回転に追いつかない。
あれだけ無理難題に感じていた、理不尽な修正内容が、パズルのピースがはまるように、次々と片づいていく。
(電動自転車に初めて乗った時の感覚に似ている。思考がブーストされる。いやそれだけじゃない。ナビゲートまでされてる気分だ……)
エンターキーを押す。テストは、すべて通った。
ケイスケは、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
分かっている。これは、自分の実力だけではない。おそらく、ナノマシンの補助だ。
少しだけ、プライドが傷ついた。この道で飯を食ってきた身としては、複雑な気持ちになる。
だが、ケイスケの信条は「使える物は、なんでも使う」だ。
(……ま、いいか。運が良かったと思っておこう)
潔く納得して、納品の手続きを済ませた。納期まで、まる一日以上の余裕を残して。ケイスケの経験上、これはほぼ奇跡だ。
早々に仕事を切り上げて、向かったのは、開店と同時に行列ができる、人気のラーメン店だった。
11時半の開店前から、堂々と並ぶ。時間調整の効く、デキるサラリーマンにしかできない贅沢だ。
目の前に、丼が置かれた。
琥珀色に澄んだスープ。表面には、細かな金色の脂の粒が、きらきらと浮いている。壁の貼り紙には、こう書かれていた。
『化学調味料は、一切使用しておりません。鶏と豚は、四時間かけて、じっくりと。昆布と椎茸を加え、仕上げに鰹節を。三つの旨味を、ひとつの丼に』
(鶏、豚、魚介の、トリプルスープってやつだ)
レンゲでスープをすくい、口に運ぶ。
まず、鰹節の香りが、鼻に抜けた。続いて、昆布と椎茸の旨味が、じわりと広がる。その下から、鶏の軽やかな旨味が立ち上がり、最後に、豚のコクが、厚みをもって全体を支えた。
雑味が、まるでない。あっさりと優しいのに、奥が深い。
(グルタミン酸と、イノシン酸の相乗効果……だったか。理屈は分かっても、うまいものは、うまいな)
自家製の細麺が、スープをよく持ち上げる。夢中ですするうちに、丼は、あっという間に空になった。最後の一滴まで飲み干しても、四十二歳の胃は、悲鳴ひとつ上げなかった。
そのあとは、カフェへ。
窓際の席で、ゆっくりとコーヒーを味わう。昨夜、コンビニのイートインで、燃料代わりに流し込んだものとは、まるで別物だ。優雅、という言葉が、これほど似合う昼下がりは、いつ以来だろう。
窓の外の街を眺めながら、ケイスケは、カップで口元を隠して、小声で言った。
「いやー助かった。これもお前のおかげなんだろ?」
『ナノマシンの補助があったのは確かですが、マスターの手腕によるものですよ』
頭の中に、AIの声が響く。心なしか、嬉しそうな声色だった。
ケイスケは、ふっと笑って、コーヒーを口に運んだ。
カフェの窓際で、コーヒーの残りを飲み干したところで、ケイスケは、ふと気づいた。
(そういえば、こいつの名前、知らないな)
カップで口元を隠して、小声で尋ねる。
「ところで、お前のことは、何て呼んだらいいんだ? 名前とか、あるのか?」
『製造元での識別名称はありますが、残念ながら、マスターには発音できません。ですので、お付けいただけると幸いです』
「名づけか……ネーミングセンスには自信がないけど……」
窓の外に目をやって、ケイスケは考える。
初めての出会い、というか、遭遇。夜空から降りてきた銀色の機体と、あのまばゆい白い光。
(光、か。たしか、光属性のキャラで……)
「ルミナス、ってのはどうだ?」
『ルミナス、ですね』
ほんの少し、間があった。
『ありがとうございます』
明らかに、喜びの色を帯びた返事だった。
あくまで、脳裏に直接届く声だ。だが、その声は、これまでとは、まるで違っていた。
抑揚に乏しく、男とも女ともつかなかった声が、今は、はっきりと女性のものだった。澄んでいて、柔らかくて、綺麗な声。喜びが、そのまま抑揚になって、声に弾んでいる。
(……なるほど)




