第1話 つむ、覚醒する
「つむぎぃー!!!」
そんな大声が響くのは、空天小学校にとっては日常茶飯事となっていた。
それに答える天使が一人。
「おねぇーちゃーん!!」
肩まで伸びた黒髪を揺らしながら、小さな女の子がこちらへ駆けてくる。
大きな瞳を嬉しそうに細めて、ランドセルを上下に跳ねさせながら。
工藤紬。私の八歳になる妹だ。
「もう、紬。廊下は走っちゃダメでしょ」
「だって、おねぇちゃん!」
「はいはい」
笑いながら、紬の頭を撫でる。
頭を撫でると紬は嬉しそうにはにかむ。
こうして紬を迎えに来るのは、もう私たちの日常だった。
ただし一つだけ、普通とは違うところがある。
私は高校生だった。
本来なら、まだ高校で授業を受けている時間なのだ。
それでも毎日、紬を迎えに来る。
もちろん、勝手に早退しているわけじゃない。
家庭の事情を考慮して、高校から特例として許可をもらっている。
なぜ、授業を早退してまで迎えに来るのか。
その理由は——七年前にまで遡る。
紬がまだ一歳だった頃。
あの日のことを、私は今でも覚えている。
前触れなんて何もなかった。
予兆も、警告もなかった。
本当に、突然だった。
世界中の至るところに、見たこともない空間への入口が現れた。
今では《ゲート》なんて当たり前のように呼ばれているもの。
その先には、この世界とはまったく違う未知の空間が広がっていて、後に《ダンジョン》と呼ばれるようになった。
でも、あの頃はそんな名前すらなかった。
誰も、それが何なのか知らなかった。
そして——何が出てくるのかも。
ゲートから現れたのは、人間とは似ても似つかない異形の生き物だった。
後に《モンスター》と名付けられた存在。
そいつらはゲートから次々と現れ、人々を襲った。
当然、世界中が大混乱になった。
あまりにも突然の出来事だったから、軍も警察も、行政だってすぐには対応できなかった。
それでも、銃火器がモンスターに通用すると分かってからは、世界各国が総力を挙げて対処した。
そして、ようやく事態が収束したのは——。
ゲートが現れてから、一週間後。
たった七日間。
今なら、たった一週間と思うかもしれない。
でも、その七日間で失われた命は、世界全体で数千万人にも及んだと言われている。
あまりにも多くの人が死んだ。
だから人類は、その七日間を決して忘れないために、後に一つの名前をつけた。
《七日間の惨劇》
人類が初めて、異界の脅威に触れた七日間。
そして――紬と私にとっても決して忘れることのできない出来事だった。
「……」
私は、隣を歩く紬を見る。
私と嬉しそうに手を繋ぎながら歩いている紬は、あの頃のことをきっと覚えていない。
まだ一歳だったのだから、覚えていなくて当たり前。
けれど私は覚えている。
お父さんは、あの七日間に亡くなった。
お母さんは泣いていた。紬は父が亡くなったことを理解できずにいた。
それでもお母さんは次の日から私と紬のために身を粉にして働き始めた。専業主婦だったお母さんにとってそれは簡単なことではなかったと思う。
そうして、私たちの生活は一変した。
——それでも、紬が笑顔でいられるように。
絶対に、紬を一人にしない。学校が終わる時間には、必ず迎えに行く。たとえ自分の授業が残っていても、たとえ少しくらい大変でも、それくらいのことは自分が頑張ればいい。
だから今日も紬を迎えに来た。
「ねぇ、おねぇちゃん」
「ん?」
「今日つむ、図工でお人形さん作ったの!」
「へぇ、どんなの?」
「あとで見せる!」
「楽しみにしてるね」
私は笑う。紬も笑う。
私たちは手を繋いで歩いていく。
――この日常がずっと続くと、そう思っていた。
しかし。
「……え?」
家まであと少しといったところで、私は違和感を感じ、足を止めて空を見上げる。
紬も私につられて顔を上げた。
そこには空間そのものが、歪んでいた。
「……お姉ちゃん?」
紬が不安そうに私の手を握る。
「大丈夫。……大丈夫だから」
紬を落ち着かせるために声をかけるが、自身の声が震えていることに気がついた。
七年前、世界を覆った恐怖。
テレビの中で何度も繰り返し流された映像。
父が帰ってこなかった、あの日。
忘れたことなんて、一度もない。
だからこそ――分かる。
「……ゲート」
私は呟いた。
空間の歪みが、徐々に大きくなっていく。
周囲からも、異変に気付いた人々の声が上がり始めた。
「なんだ、あれ?」
「空が……」
「まさか……」
「ゲートだ!」
誰かが叫んだ。その瞬間、周囲はパニックに陥った。
誰かは泣き叫び、その場にうずくまる。
また誰かは他人を押しのけ、我先にと逃げ出す。
私は紬の手を強く握った。
「紬、走るよ」
「え?」
「早く!」
「う、うん!」
引っ張られるように、紬も走り出す。
だが――遅かった。
空間が大きく裂けた。
その向こう側から、何かが姿を現す。
狼を思わせる頭部。
口元から覗く牙は長く鋭く、真っ赤に染まった瞳がこちらを睨みつけている。
人間のように二本の足で立っているが、その手足は異様なほど長い。
そして指先から伸びる爪は、まるで何かを切り裂くためだけに作られたかのように鋭く尖っていた。
「……っ」
全身から血の気が引いていくことがわかる。
七年前、お父さんを奪ったものと同じ存在。
それが今自分たちの目の前にいる。
「お姉ちゃん……」
「紬」
私は紬の前に立った。
「私の後ろにいて」
「でも……」
「いいから」
咄嗟のことで怖い声を出してしまったかもしれない。紬を怖がらせてしまったかもしれない。
でも、そんなことを考えている暇はなかった。
「絶対に、私から離れちゃ駄目」
「……うん」
紬は小さく頷いた。
周囲を見渡す。探索者らしき人はいない。
……せめて紬だけでも逃がさないと。
モンスターがゆっくりとこちらを見る。
「……来ないで」
私は呟く。
そんなことはお構いなしにモンスターが一歩踏み出した。
「来ないで……!」
もう一歩。
そして——モンスターが跳んだ。
一瞬で距離が縮まる。
振り上げられた長い腕。
その先に伸びる鋭い爪が、私たち目掛けて振り下ろされる。
「紬!」
咄嗟に振り返る。
次の瞬間、私は紬を抱きしめるようにして、地面へ押し倒した。
自分の身体を盾にしてでも、紬を守るために。
直後——。
モンスターの腕が、私の身体を捉えた。
————
――耳が痛くなるほどの大きな音。
その瞬間、身体にものすごい力がぶつかってきた。
「……っ!」
何が起きたのか分からないまま、つむの身体が吹き飛ばされる。
地面にぶつかって、ごろごろと転がった。
「いたっ……」
身体が痛い。
手も、ひざも痛い。
痛くて、泣きそうになる。
でも——。
「……おねぇちゃん?」
おねぇちゃんは?
さっきまで、つむをぎゅってしてくれてた。
「おねぇちゃん!」
痛いのを我慢して、つむは急いで起き上がった。
おねぇちゃんが、少し離れたところに倒れていた。
「おねぇちゃん……?」
動いてない。
いつもなら、つむが呼んだらすぐに返事をしてくれる。
笑って、つむのことをぎゅってしてくれる。
なのに——。
「ねぇ、おねぇちゃん……」
痛いのも忘れて、おねぇちゃんのところまで走る。
「おきて」
肩に手を置いて、ゆさゆさする。
「おねぇちゃん、おきてよ……」
でも、目を開けてくれない。
返事もしてくれない。
「……ねぇ」
もう一度、少しだけ強く揺らす。
「おねぇちゃん……?」
それでも、おねぇちゃんは動かない。
「……やだ」
さっき転んだとき、すごく痛かった。
でも、泣かなかった。ちゃんと我慢できた。
でも——。
「おねぇちゃん……」
これは、我慢できない。
ぽろぽろと涙がこぼれてくる。
「おねぇちゃん、おきてよぉ……」
そのとき、つむの後ろから、大きな影が伸びてきた。
「……っ」
振り返る。
そこには、さっきのおねぇちゃんをいじめたわるいやつがいた。
つむのことを、上からじっと見下ろしていた。
「……っ」
怖い。逃げたい。
でも――おねぇちゃんを置いていけない。
「おねぇちゃんを……」
守らなきゃ。
「いじめるな!!!!」
その瞬間、つむの視界に見たことのない文字が浮かび上がった。
《覚醒条件を確認》
「……?」
泣いていたことなんて忘れ、つむはそれを見つめる。
《対象:工藤 紬》
《特殊条件を達成しました》
《スキルを覚醒します》
「すきる……?」
つむには、その意味が分からなかった。
ただ次に表示された文字だけは、なぜか理解できた。
《生産系スキル》
そして――。
《固有スキル》
《――創造》
「……そうぞう?」




