第1章 代理と何でも屋【6】
湯浴みを済ませ、寝室のひとり掛けソファに腰を下ろすと、シリルは深く息をついた。アイレーが差し出したグラスの水をゆっくりと飲み干し、またひとつ息をつく。それを待っていたトラインが案ずるように言った。
「あのおふたりをどう思われますか?」
トラインの言葉に、あの兄妹を頭の中に思い浮かべる。取っ付きにくさを感じさせる空気を纏うロス。対照的に親しみやすい雰囲気の快活なメリフ。一時間ほど顔を合わせただけで、まだふたりの為人を掴むことはできない。そもそも、シリルにとってそれは難しい作業である。
「わからない……。トラインが信用できないと判断したら追い出しましょう」
シリルがそう言って微笑むと、トラインは重々しく頷いた。トラインは若くも人を見る目がある。トラインに任せておけばシリルは安心できる。自分の当てにならない目より、確かな目を頼ったほうがいいだろう。
「ですが、もし寝込みを襲われでもしたら……」
アイレーがシリルの髪をブラシで梳きながら心配そうに言う。まだあのふたりを信用することができず、シリルを狙う刺客のように思っているような口振りだった。
「デュランの警護を掻い潜られたら諦めよう」
寝室のドアの外には、騎士のデュランがいる。夜から朝にかけて警護するシリルの護衛だ。年齢はシリルとそう変わらないが、宮廷騎士を目指していたこともあり実力は確かである。
「そうですね」トラインが頷く。「彼らが情報通りの実力を持っているとしたら、きっとこの屋敷は壊滅します。信用に値するかどうかは、これからの言動を見て判断するしかありませんね」
アイレーは不満げな様子だ。それでシリルの首と体が離れれば元も子もない、という話である。だが、あの執務室にはトラインがいたとは言え、噂になるほどの実力があるとすればシリルの息の根を止めることは容易だっただろう。わざわざ油断させて寝込みを襲う必要はない。それはおそらく、トラインもアイレーもわかっているはずだ。
「シリル様は優しすぎます」
アイレーはシリルの髪に丁寧にオイルを塗り込みながら言う。シリルは答えに困って曖昧に笑った。
「僕には、よくわからないから……」
シリルにはそう言うことしかできない。頭の中は空っぽで、物を考える仕組みすらなくなってしまったように感じられる。それはトラインもアイレーも承知しているだろう。
「シリル様、どうぞ」
アイレーがトレーをテーブルに置く。シリルはゆっくり水を飲み干すと、一日の締め括りの一本に火をつけた。窓の外に向けて吐いた煙は、風にさらわれて宵闇に呑まれていく。今夜は風向きがちょうどよく、煙が部屋の中に入ってくることはなかった。
吸い殻を灰皿に押し付け立ち上がる。何時になったのかはよくわからないが、もう寝る時間のようだ。
ベッドに潜り込む。適当にかけた布団を、アイレーがシリルの肩まで引き上げた。それからいつも通り、シリルの胸元をぽんぽんと優しく叩く。
「おやすみなさいませ。良い夢を」
「うん、おやすみ」
シリルは寝付きが良い。アイレーが寝室を出てドアの音を最後に、あっという間に夢の世界へと引き込まれる。夜の静かな空気も好きなのだが、睡魔がそれを許してくれないようだ。
柔らかいベッドに体を沈め、波打ち際で砂浜に埋もれるような、そんな感覚に身を委ね、目を閉じる。現実の一日は終わり、夢の一日が始まる。
夢は綺麗事の空間。世界中から掻き集めた輝きが、失望されまいと瞬いて、抗いきれずに消えてゆく。そんな夜も、嫌いではない。
所在なく立ち竦むと、宵のカーテンの向こう側で星空が煌めいている。ぽたぽたと落ちた黒い雫が肩に纏わり付く。それは重く、とても重く、体の自由を奪って嘲笑った。
星屑が堕ちる。三日月がクッキーのように崩れ、雨となって降り注ぎ、眼下の暗い水溜まりで弾けた。
なんて美しい光景だろう。この世界で生きることができたなら、それ以上に良いことなんてない。
叶うはずのない切望が、足元を掬った。
「……そうだね」
誰にでもなく呟く。それは風に掻き消され、きっとどの耳にも届くことはないだろう。
「きっと、きみが正しい」
――……
――ああ、また遠退いた。これで何度目だ。
憎悪に埋もれた愉悦が、贅沢な願望を懐いて枯渇する。
こびり付いた硝煙と、見え隠れする焦燥が、屑に躓いて跪く。
深淵の縁で嘲う警告音が、まるで張り裂けんばかりに泣いている。
不快な雑音に眉をひそめ、苛立ちとともに水面を蹴ると、忌々しく赤い雫が飛び跳ねた。
このままでは息が止まってしまう。いまはまだ、その時ではない。
一度限りの過ちが、二度目の隠れた燈に、五度の頷きをもたらした。
嗚咽は醜く朗らかに、伸ばした手を落とされて堕落する。
――ああ、そうさ。いつだってきみが正しい。




