第1章 代理と何でも屋【5】
秘め事のような話し声にゆっくりと目を開くと、視界にふたりの人影があった。よく杖から頬が落ちなかったものだと感心しながら顔を上げる。窓の外はすっかり夕暮れだ。シリルの覚醒に気付いて話すのをやめたふたりが、軽く姿勢を正すのがわかった。
「おはよう。随分とよく寝ていたわね」
その張りのある可愛らしい声には聞き覚えがある。ニコルと話していた少女の声だ。
「あたしたちが誰だかわかる?」
「……何でも屋のロスとメリフ……」
見上げるほどに長身のロスと、ポニーテールの少女メリフ。何でも屋兄妹だ。ニコルの情報が正しいか確かめるために目を擦るシリルに、へえ、とメリフが感心したように言った。
「本当に感覚を共有しているのね。じゃあ、あたしたちがなんの依頼を受けたかわかる?」
「……わからない……」
ぼんやりとした頭は上手く回らず、シリルは自信を失くして俯く。呆れられるのではないかと構えたが、ふうん、と呟くメリフは平然としていた。
「肝心なところが聞き取れなかったのね。いいわ。改めて確認しておきましょ。依頼主はあなたなんだし」
メリフは、感覚共有の曖昧さを知っているのかもしれない。そう考えつつ、シリルは申し訳なさとともに小さく頷く。
「ニコルから聞いた依頼は、グレンジャー男爵とシドニー・グレンジャーの調査よ。ニコルの口振りから、グレンジャー男爵があなたのお父様の死に関係している可能性があるわ」
「そう……」
「あなたはどう考えてるの?」
「……わからない……」
寝起きの頭はいつも回転が鈍い。ニコルがシリルの頭の中をそのまま話せたらよかったのだが、そもそもこの頭に考える力など期待できない。ニコルがそう問われていたとしても、おそらく答えることはできなかっただろう。
「では、シドニー・グレンジャーはどんな人間だ」
低音の落ち着いた声が言う。少々厳しさを感じさせられるロスの気配に、シリルはきつく手を結んだ。まともに答えることができたなら、この緊張も必要なかっただろう。だが、そんなことは考えたところで意味がない。
「わかりません……。起きると必ず居る、ということくらいしか……」
「必ず居る?」と、メリフ。「どこに?」
「えっと……寝室……」
「いつも居るのにどんな人かわからないの?」
「うーん……どうかな……」
今朝は何を話しただろうか。そもそも、あの人影は本当にシドニー・グレンジャーだったのだろうか。顔がよく見えないのに、どうやって判断したのだろう。考えれば考えるほど、シリルにはよくわからなくなっていく。
「シドニーは、子どもの頃からそばにいる……それくらいしかわからない……」
依頼主なのに不甲斐ない。そう思ってみたところで、シリルにはこれ以上はどうすることもできない。自分が役立たずであることはとうに承知している。だから、俯くことしかできない。
「まあいいわ。それはあたしたちがこれから調査するから」
「うん……ごめんなさい」
「いいのよ。ゼロから調査を始めるのは慣れてるわ」
メリフとロスから感じられるのは、確かな自信だ。頭のぼんやりしたシリルから聞き出した曖昧な言葉より、自分たちで集めて来た情報のほうが格段に当てになるだろう。彼らはそうやって生きて来たのだ。シリルには、暖炉の利いた部屋で昼過ぎから夕暮れまで居眠りをする自分とは別格に感じられた。ぼやけた頭で導き出した答えの中で、それはおそらく最も正しいのだろう。
……――
ああ、何も見えない。あの美しい光景が、何もかも。
『その目はもう不要だな』
圧倒的で暴力的な正義を前に、為す術もなく蹂躙される。拒絶はすでに意味を成さない。
『どうせ役立たずだったわ』
――どうして……僕は、ただ……。
喉の奥に張り付いた言葉は、降り注ぐ赤に掻き消されて。塗り潰された鼓動は、張り裂けんばかりに叫び続けた。
『ああ、汚らしい。本当に鬱陶しいわ』
――どうせなら、もう、いっそのこと……。
諦めにも似た怨嗟の果てに、踊り狂う笑い声が木霊する。
もう何にも届かない。この願いは、叶うことも、消えることも許されない。
許される必要はない。
もう何もかも、必要なくなってしまったのだ。
……――
ようやく呼吸を取り戻すように目を覚ますと、ひたいを汗が伝うのがわかった。全身が汗だくで、服は冷たく湿っていた。部屋の中は暗く、すでに日が暮れていることがよくわかる。
起き上がったシリルに気付いて、そばにいた影が身動ぎする。
「気分はどうだ?」
聞き慣れた声が問う。ランプの仄かな明かりに照らされた顔は、半分しか見ることができない。何度か瞬きをしても、その輪郭はぼやけたままだった。
「……誰……?」
「僕だ」
寝覚めの視界では、その顔をはっきりと捉えることができない。それでも、その優しい声はいつも通りに聞こえる。その声が浅い呼吸を落ち着けるようだった。
「どうしてそんなに泣いているんだ?」
顔を優しくハンカチで拭われて、頬を伝うのが汗ばかりではないことを自覚する。慰めるように目元をなぞられても、視界が鮮明になることはない。
「どんな夢を見た?」
「……わからない……」
寝起きの体は重い。いつも以上に回らない頭では、その問いに答えることはできない。答えようと努めるだけ無駄なのだろう。
静かなノックが聞こえる。誰かがシリルを起こしに来たようだ。
「じゃ。よく休めよ」
バルコニーから出て行くのを見送ると、失礼します、と静かな声とともにアイレーが部屋に入って来た。その明るい笑みを見た途端、胸中に広がるのは安堵だった。
「シリル様、お目覚めでしたか」
「うん……」
「湯浴みの支度ができていますよ」
アイレーに促され、シリルはベッドから立ち上がる。体はやはり重かった。




