閑話:鏡の破片、あるいは落ちた蛇の鱗(バルト視点)
閑話:鏡の破片、あるいは落ちた蛇の鱗(バルト視点)
王都へ向かう馬車の揺れは心地よいはずのものだったが、バルト・ハミルトンの胸中には、拭い去れない不快感が沈殿していた。
窓の外を流れる景色を眺めながら、バルトは手元の書類を無造作に鞄へ放り込んだ。かつて自分が完璧に統治していたはずの伯爵領。その資金流用の証拠を突きつけられた瞬間、バルトが感じたのは「怒り」よりも先に「困惑」だった。
(……あの、石ころが)
セドリック。
自分や両親にとって、彼はハミルトン家の血を引く「何か」でしかなかった。言葉を交わす価値もなく、ただ日陰に置かれた置物。エドワードという出来損ないの弟の影に隠れ、その尻拭いをするためだけに存在を許されていたはずの男。
だが、あの応接室で対峙したセドリックは、バルトが知る「ただ存在を許されただけの三男」ではなかった。
「……フン、食えない奴だ」
バルトは自嘲気味に呟き、手袋を嵌め直した。
セドリックが提示した「妥協案」は、あまりにも合理的で、かつ狡猾だった。
伯爵家の名誉と引き換えに、女一人と子爵領を要求する。一見すれば、地位も名誉も守ったバルトの勝利に見えるが、実際は違う。バルトは自分の「管理下」にあったはずの盤面を、あの薄気味悪い弟に根こそぎ奪い取られたのだ。
そして何より、バルトの脳裏に焼き付いて離れないのは、アメリア・ハミルトンの瞳だ。
「……アメリア、君もだ。あんな怪物に守られて、正気でいられると思っているのか」
バルトは思い出す。
セドリックがアメリアの肩を抱き寄せたあの瞬間。セドリックの瞳に宿っていたのは、愛などという生温いものではなかった。
それは、世界を二つに分け、一方は「アメリア」、もう一方は「塵」と断定した者の狂信的な光だった。
セドリックは言った。
「アメリア様にしか興味がない」と。
それは裏を返せば、アメリアさえ手に入るなら、この国の秩序も、ハミルトン家の存続も、自分自身の命すらもどうなっても構わないという宣告に他ならない。
「……優秀な男だ。だが、あれは人の上に立つ器ではない。一人の女のために、すべてを焼き払える破滅型だ」
バルトは、自分がセドリックを「石ころ」だと思っていた認識を修正した。
あれは、石などではない。
ずっと足元に潜んでいた毒蛇だ。
それも、牙を剥く瞬間まで気配を消し、獲物を仕留めるためなら自らの身を裂くことも厭わない、呪われた蛇。
バルトは窓を閉め、深い溜息をついた。
伯爵家の嫡男として、これ以上の深追いは無益だ。名誉を守り、領地を立て直す。それが「優秀な統治者」であるバルトの選ぶべき道だ。
だが、去り際に見たアメリアの微笑みが、どうしても毒のように脳裏に残る。
彼女は、自分が檻の中にいることを理解しながら、その檻を愛しているように見えた。
「……好きにするがいい。共倒れになろうと、私は知らん」
バルトは目を閉じ、思考を遮断した。
馬車は王都へと急ぐ。背後に残してきた、あのおぞましい「愛」という名の監獄が、いつかハミルトン家すべてを飲み込む日が来るのではないか――。
そんな不吉な予感を、彼は完璧な笑顔の仮面の下に押し殺した。
(番外編:バルト視点 完)




