閑話:泥の底から見上げた空(イザベラ視点)
閑話:泥の底から見上げた空(イザベラ視点)
〜エドワードの葬儀から数ヶ月後〜
「……嘘よ。あんなの、全部嘘に決まってるわ」
冷たい雨が降る夜、イザベル・ブレイは場末の宿の一室で、震える手で膨らみ始めた腹をさすっていた。
かつてのハミルトン子爵家での生活、エドワードの寵愛を受け、その子を産むことで手に入るはずだった輝かしい未来。そのすべては、あの日、冷徹な三男坊の手によって粉々に砕け散った。
「セドリック……あの薄気味悪い男……!」
イザベルは、今でも耳の奥で、セドリックが囁いたあの声を思い出しては吐き気に襲われる。
――「兄上の隣に、お前の席も用意しよう」
あの時、彼女は必死で叫んだはずだ。
自分のお腹にはエドワードの子がいるのだと。ハミルトン家の血を引く子を殺すつもりかと。
だが、セドリックは眉一つ動かさなかった。それどころか、ゴミを見るような冷ややかな目でこう言い放ったのだ。
『それがどうした? アメリア様を傷つけたその事実に比べれば、その腹の中にあるものの価値など、石ころ以下だ』
屋敷を追放される際、セドリックから渡されたのは、わずかばかりの金と、彼女の過去の悪行を記した封書。そして、「慈悲」という名の呪いだった。
『その子は産むがいい。だが、一度でも「ハミルトン」の名を騙ってみろ。その時は、親子揃って兄上のいる場所へ送ってやる』
それは、生きながらにして死を宣告されたのと同じだった。
エドワードという後ろ盾を失い、伯爵家からも見捨てられたイザベルにとって、この腹の子はもはや「希望」ではなく、セドリックにいつ殺されるかわからない「時限爆弾」でしかなかった。
「……アメリア様。あなたは、本当にそれでいいの?」
イザベルは、ふと思い出す。
あの日、セドリックに抱き寄せられていたアメリアの姿を。
夫の愛人が自分の子を宿していると知っても、彼女は眉一つ動かさなかった。むしろ、あの毒蛇のような男が作り出す歪んだ静寂を、吸い込むように受け入れていた。
「……狂ってる。あの屋敷にいるのは、人間じゃないわ」
ガタガタと窓が鳴る。
ただの風の音だと分かっていても、イザベルは飛び起きて背後を振り返る。
暗闇のどこかに、あの灰色の瞳をした男が立っているのではないか。アメリアの視界から「不純物」を排除するために、音もなく近づいてきているのではないか。
イザベルは、鏡に映る自分の顔を見た。
かつて自慢だった美貌は、恐怖と困窮によって見る影もなくやつれている。
彼女は知っていた。セドリックは、自分を殺すことさえ「無駄」だと判断したのだ。
ただ、アメリアの視界から自分を消し、この呪われた子と共に、誰にも知られず泥を啜って生きていくことを強いた。それが彼にとっての慈悲であり、最大の拷問なのだ。
*
「……ああ、寒い」
イザベルは、膨らんだ腹を抱えて薄い毛布に包まった。
胎動を感じるたびに、愛おしさよりも先に、あの男――セドリックの無機質な殺意が蘇る。
(……でも、あの男だって万能じゃないわ)
ふと、イザベルは自分を慰めるように考えた。
屋敷を追い出されてから数週間。監視の影はなく、セドリックからの接触も一切ない。
あのアメリアに夢中で、自分のことなどもう忘れてしまったのではないか。
そうでなくては困る。この子が産まれれば、いつかこれを盾に、どこかの貴族へ取り入ることだってできるかもしれない――。
そんな微かな希望を抱いた、その時だった。
「気分はどうだい、お嬢さん」
宿の主人が、湯気の立つスープの盆を持って部屋に入ってきた。
いつもは無愛想な男だが、今日は妙に愛想が良い。
「……別に。置いていって」
「そう言うな。あんた、体も冷え切ってるだろう。これは特別だ。精のつく薬草をたっぷり混ぜておいたからね。産まれてくる子供のためにも、飲んでおきな」
差し出されたスープからは、香ばしい、けれど嗅ぎ慣れない甘い香りが漂っていた。
空腹に耐えかねていたイザベルは、疑うこともなくその匙を口に運んだ。
温かい液体が喉を通り、冷え切った内臓をじわりと温めていく。
「……美味しいわね。これ、何の薬草?」
「さあ、俺も詳しくは知らねえ。ただ……『冬眠』の前には欠かせないものだって、風の噂で聞いたぜ」
主人の言葉に、イザベルは微かな違和感を覚えた。
冬眠? 今はまだ、そんな季節では――。
その瞬間、指先から感覚が消えた。
「……っ、あ……」
匙が指から滑り落ち、床で乾いた音を立てる。
舌が痺れ、声が出ない。それどころか、肺が空気を吸い込むことを拒否し始めた。
痛みはない。ただ、恐ろしいほどの速さで、自分の意識が遠のいていく。
朦朧とする視界の中で、宿の主人が自分の腹部に手を当てたのが分かった。
「安心しな、お嬢さん。……あんたの命はここで終わりだが、その腹の中にあるものは助けてやる。それが『あの方』の温情だ」
主人の声が、どこか遠い場所から響く。
「……『アメリア様がもしこの子の死を知れば、きっと悲しまれる。彼女の慈愛を裏切るような真似はしたくない』……あの方はそう仰ったよ。だから、この子は俺が責任を持って、遠い国の農家にでも預けてやる。……ハミルトンの名も、あんたのことも、何もかも忘れて、ただの人間としてな」
イザベルは必死に手を伸ばしたが、指一本動かせない。
自分は消され、子供だけが「汚れ」を拭い去られた状態で、自分の知らない世界へと連れ去られる。
母親(自分)という存在さえ、セドリックの手によって歴史から消し去られるのだ。
胎動が、最後の一振りを残して静まり返る。
それは死ではなく、強制的な眠りの始まりだった。
「さあ、眠りな。明日には、身重の女が一人、寒さと栄養失調でひっそりと息を引き取っていた……それだけで終わる話だ。……『あの方』が、そう決めたんだからな」
意識が途切れる直前、彼女の脳裏に浮かんだのは、あの屋敷の庭に咲き誇る、真っ白な百合の花だった。
一滴の泥も、一筋の汚れも許さない、完璧な聖域。
自分という「汚れ」だけを丁寧に取り除き、無垢な子供という「素材」だけを残す。
それは殺意よりもなお冷酷で、あまりにも自分勝手な「聖母」への献身だった。
翌朝、その宿屋の一室で見つかったのは、眠るように冷たくなった一人の女の遺体だった。
女はひどく衰弱していたが、その腹部にあったはずの膨らみは……いや、村の誰もが、そんな女の姿など最初から覚えてはいなかった。
セドリックが整えた「美しい世界」には、もはやイザベルの席など、どこにも残っていなかったのだ。
(番外編:イザベル視点 完)




