『十五年』
「おかえりなさいませぇ、ご主人様、マリーちゃん」
玄関の重厚な扉を開けると、ふわりと温かな空気と共に、エプロン姿のミアがいつものような柔らかな微笑みで出迎えてくれた。
家の中からは、肉と野菜をじっくりと煮込んだような、食欲をそそる香りが微かに漂ってくる。
「ただいま、ミア。はい、これお土産。街で買ってきたんだ」
「まぁ、苺のクレープですかぁ。ありがとうございますぅ。丁度お昼の準備が出来たところですので、こちらは食後にいただきますねぇ」
「うんっ! ミアのごはん食べたい!」
マリーが嬉しそうに靴を脱ぎ捨て、ダイニングへ向かおうとする。
その背中に、ミアがふわりと声をかけた。
「マリーちゃん、お食事の前にはちゃんと手を綺麗に洗ってきてくださいねぇ」
「あ、うんっ。……ルナ、一緒に行こう?」
引き返して来たマリーが、促すように私の手を引いてくる。
「……もちろん。外から帰ったら手洗い、うがいだからね」
「そうですよぉ。外はバイ菌がいっぱいですからねぇ」
お母さんのように話すミアに背中を押され、私はマリーの手を引き、用を済ませてから洗面所へと向かった。
マリーは既に何度も使った筈の洗面台の蛇口を見て、何故か目を輝かせている。
「ねえルナ、さっき見た噴水も、ここもお風呂も、全部お水が出るんだね。……不思議だねぇ」
マリーは水道から出るお湯と石鹸の泡を不思議そうに眺め、何度もその感触を確かめるように手を洗っている。ただの蛇口ではあるが、先程噴水を見たことで、また違う印象を持ったようだ。
綺麗に手を洗い終えた後、コップを受け取り私の見様見真似で不器用にうがいをする。
一通りうがいを済ませたマリー。
「うがい、終わったね」
「うんっ!」
そう勢いよく返事をしたマリーだが、暫し考え込んだ後、コテンッと首をかわいらしく傾けながら、こう呟いた。
「……ねぇ、ルナ。バイ菌って……なに?」
◇ ◇ ◇
ダイニングに戻ると、ミアが用意してくれた熱々のポトフと丸パンがテーブルに並んでいた。それを見たマリーは、「うわぁっ!」と目を輝かせて歓声を上げる。
「ほら、冷めないうちに座ろうね」
私が着席を促すと、マリーは嬉しそうに椅子へとよじ登った。
「それでは、頂きましょうかぁ」
「「いっただっきまーす」」
マリーは真っ先に自分の顔ほどもある丸パンを両手で持ち、大きな口を開けて齧り付いた。途端に「おいしいっ!」と満面の笑みが弾ける。
「ふふっ。パンはね、スープに浸して食べても美味しいんだよ」
私がそうアドバイスすると、マリーは早速ちぎったパンをポトフのスープに浸して口に運ぶ。
じゅわっと溢れる旨味に目を丸くして、また「これもおいしいっ!」と嬉しそうに頬張った。その幸せそうな食べっぷりに、私とミアも自然と顔を見合わせて頬を緩ませた。
私自身も美味しい食事に舌鼓を打ちながら、自然と笑みを零す。
「うん、やっぱりミアのご飯は最高だね。すごく美味しいよ」
「ふふっ、ありがとうございますぅ。ご主人様のお口に合って良かったですぅ」
食後のティータイム。お土産のクレープを嬉しそうに頬張るミアの横で、お昼ご飯ですっかりお腹が満たされたマリーはソファーに身を沈めたまま、こっくりこっくりと船を漕ぎ始めていた。
「……マリーちゃん、朝から歩き回って疲れたのでしょう。少しお昼寝したらどうですかぁ?」
「……うん……」
素直に頷いたマリーは、ミアの膝の上でそのまま小さく丸くなると、すぐに深い眠りへと落ちていった。
すう、すう、と。静かな寝息がリビングに響き始める。
その穏やかな光景を横目に見守りながら、私はミアが淹れてくれた食後の紅茶のカップを両手で包み込んだ。掌から伝わる確かな熱に、ふっと息を吐き出す。
「……ミア。ギルドでの手続き、無事に終わったよ。マリーの保護者登録も問題なく済んだ」
「お疲れ様でございましたぁ。それで……昨日お話しされていた、ご主人様の特例登録の結果はいかがでしたかぁ?」
「うん、それがね。久方ぶりの特例登録らしくて、書類の手続きに時間が掛かってるみたい。今日中には終わるみたいだけど、ランクはまだ確定してないんだ」
「そうでしたかぁ。でもぉ、ご主人様ならきっと素晴らしいランクからスタートできるはずですから、心配いりませんねぇ」
ミアは己の事のように誇らしげに、そして嬉しそうに微笑んだ。
私も、ランクが保留になっている事自体は別に気にしていない。だが、問題はそこから先だ。
「でもね。昨日も少し話した『外界調査』……来年の選考に参加するには、一年でAランクまで上げなきゃいけないんだ。副ギルドマスターからは、通常の依頼をこなすだけじゃ到底間に合わないって……」
「一年でAランクは聞いたことが無いですからねぇ。……でも、ご主人様なら諦めるという選択肢は無いのでしょう?」
静かに問いかけてくるミアに対し、私は一つ頷いてみせる。
「うん。……1年で間に合わせるなら、ギルドからの指名依頼を沢山受けるか、未踏破のダンジョンの攻略をしてほしいって」
「未踏破ダンジョン……? あぁ、ご主人様が居なくなった後に急に出来たダンジョンですかぁ! それなら、ちょうど良かったじゃないですかぁ」
「えっ?」
その言葉に、思わず首を傾げる私。ミアがどうしてそう言ったのか、その意図を測りかねたからだ。
「だって、以前のダンジョンをご主人様が全部踏破した後、『次のダンジョンまだかなぁ』とか言ってたじゃないですかぁ」
「そんな事言ったっけ……?」
なんだろう、全く記憶に無い。
「はい、ご主人様がお話してくれた事は全部覚えてますよぉ。全部のダンジョン踏破したのに全然嬉しそうじゃなかったので、特に印象に残ってますぅ」
「あ、あはは……」
ミアがハッキリ覚えていると言うなら、恐らく無意識に口から零していたのだろう。……自分のことながら、クリアの感慨ではなく、次の攻略へと意識が向いていた辺り、大分と生き急いでいたのだなと、改めて自覚させられる。
ミアは、私が待ち望んでいた新しいダンジョンが出来たのだから、当然すぐに向かうのだろうと信じて疑わない様子で微笑んでいる。
「ただ、問題があるんだよね……。ギルドへの貢献度は高いみたいなんだけど、流石に未知のダンジョンにソロで潜るとなると、今のままじゃ少し厳しいかなって思ってて」
「今のまま……と言いますとぉ、ご主人様が着けていらっしゃる、そのペンダントの事ですかぁ?」
「うん。……昨日も少し話した通り、今の私はこのペンダントでレベル100相当に抑えられてる」
私は首元にある『八芒星のペンダント』を、ミアに見えるように持ち上げた。
「これを外せば制限は解除されるけど、制御できないあの異常な力じゃ、周りにどんな被害が出るか分からない。それに……このペンダントは仕様上、制限の解除は『1日に1ずつ』しか進められないんだ」
「1日に、1ずつ……ですかぁ。――それはまた、随分と厳しい制限ですねぇ」
「だから、毎日少しずつ制限を解除しながら、同時に自分の強すぎる力を完全に制御できるようになる必要があるんだ。未踏破のダンジョンに挑むのは、それからだね……せめて、200はないと話にもならないと思う」
AGO時代のダンジョンと比較出来ない以上なんとも言えないが……基本的にダンジョンはレイド用のステージだ。高難易度のダンジョンは、レベル300でもソロでは攻略不可能だった。
私の言葉に、ミアはふむふむと頷きながら、のんびりとした口調で問いかけてきた。
「でも、ご主人様ならきっと何とかなりますよぉ。今までもそうだったじゃないですかぁ」
一切の疑いを持たないミアの真っ直ぐな信頼に、私は一瞬たじろいでしまう。けれど、その温かな期待に応えたくて、私は小さく息を吸い込んだ。
「……うん、そうだね。頑張るよ」
「……それにしてもぉ、ご主人様はどうしてそこまでして『外界調査』に行かれたいんですかぁ?」
ミアの温かい眼差しに見つめられ、私はカップの中で揺れる紅茶に視線を落とした。
――私は、AGOが描く次の未来……大型アップデートのその先を、誰よりも見たがっていた。
ここでその本来の形を知る術はないけれど、この世界にその残滓があるのならば、どうしても見届けたかったのだ。
……それは、魂に刻まれた唯一の未練なのかもしれない。
「……世界がどう変わったのか、あるいはどう広がったのか。この目で確かめておきたいんだ」
そう語る私の言葉に、決して嘘はない。それに、今はもう一つ、大切な理由が出来た。
「それと……マリーの事もあるから」
私はそっと顔を上げ、ミアの膝で眠る小さな少女へと視線を向けた。
「マリーはエルフだから、外の大陸の方がマリーの手掛かりが多いかも知れないと思って。……勿論、この大陸のどこかにエルフの集落がある可能性もあるけど……やっぱり、可能性で考えたら前者の方が、ね」
「なるほどぉ。外界調査のメンバーに選ばれれば、マリーちゃんの家族や故郷を探すための、強力な足掛かりになるかもしれない、という事ですねぇ」
「うん。それに、もし家族がこの大陸に居たとしても……一年でAランク、あるいはSランクに相応しい力を示せれば、ギルドや国も私達を無下には扱えなくなる。この子を守るための、確かな盾になる」
私はカップの縁を指でなぞりながら、自分の中にある決して譲れない意志を口にする。
「今後力を制御出来るようになったとしても、それだけじゃあ、この子を守り抜ことはできないかも知れない。誰にも脅かされないだけの確かな実績が、私には必要なんだ」
「……ご主人様は、マリーちゃんの事をそこまで深く考えていらっしゃったんですねぇ」
ミアは優しく目を細め、眠るマリーと私を交互に見つめた。
「うん。……だから、これから色んな所に遠征したり、危険な場所に行くことも増えると思う。それで、ミアには……」
「私も、一緒に行きます」
私が言葉を言い切るより早く、ミアが食い気味にそう告げた。
そこには、いつもの間延びしたのんびりとした響きはない。私を見つめるその瞳は、ハッとするほど真剣な眼差しだった。
「えっ? で、でも……」
「十五年間、私はずっとご主人様のお帰りをお待ちしていました。……もう開かない玄関を待つのは、こりごりです。これからはどこへ行くにしても、私がお供いたします」
静かに、けれど絶対に譲らないという強い意志。
その瞳を見て、ルナは改めて自分の愚かさを思い知る。
ルナが軽く口にする『十五年』は瞬きだ。いつものようにAGOにログインしようとしたら、いつの間にかこの世界に居たのだから。
だが、彼女にとっての十五年は、文字通り……『十五年』なのだ。
終わりの見えない孤独の中で、只々私の帰還を待ち続けた途方もない時間。
彼女の視線は、その重みを私に正面から叩き付けており、私は小さく息を呑んだ。
「……そうだよね。置いていこうとするみたいな言い方して、ごめんね。ありがとう、ミア。――改めて、一緒に着いてきて欲しい」
私がそう言って微笑みかけると、ミアはふっと表情を和らげ、いつもの柔らかな笑顔に戻った。
「はいっ。不測の事態に備えてしっかりサポートさせていただくのも、メイドの大切な務めですからぁ」
「ふふっ。うん、よろしく!」
そう言って笑いあった後、すっかり温くなった紅茶を飲み干し、私は小さく息を吐く。
未知の世界への執着と、マリーという未来を守るための力。
それらを掴み取るため、ミアと共に自分自身の力と向き合う新しい冒険が、ここから始まろうとしていた。
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