幕間:その頬を濡らすのは
雨が降っていた
降り出した雨は、まるで止むことを忘れてしまったように
晴れた空を記憶から消し去るように
シトシト、シトシトと
ただただ、雨が、降り続けていた
◇ ◇ ◇
人は過去の出来事をどれほど覚えているのだろうか
どれだけ心に残る記憶でも、いつかは霞が掛かるようにその鮮明さは失われていく
私はどれだけ過去のことを覚えているだろうか
胸の内にあったはずの遠い日の思い出は、今は靄が掛かったようにボンヤリとして思い出せない
それでもあの日、貴方に出会ったあの時だけは
◇ ◇ ◇
昔のことは余り思い出せない
気が付いた時には、自分は女神様の使徒に仕えるのだと、そう教えられていた
それがいつになるのか、どんな人が来るのかは分からなかった
ただ、出来れば、そう出来ればだけれど
なるべく優しい人が良いなって、そんなことを思っていた
◇ ◇ ◇
ある日、突然呼び出された
店先に居たのは、とても綺麗な女の人
美しいがどこか幼さを感じさせる顔立ちと、赤みがかった艶やかな髪
どこか太陽を連想させるその姿を、思わずジッと見つめてしまう
そんな私にその人は、優しく手を伸ばしてくれた
◇ ◇ ◇
新しいお家に来た
ご主人様は多くを語る人では無かった
何故だか私の口をつくのは同じ言葉ばかりで、ご主人様との会話は余り無かった
でも、それはそんなに嫌じゃなかった
口数は多くなくても、その目はずっと優しかったから
◇ ◇ ◇
ご主人様が、ある日を境に沢山話し掛けてくれるようになった
お話をすればするだけ、私は賢くなるんだって
その意味は分からなかったけど、これからはいっぱいお話が出来るみたい
大好きなご主人様とお話出来るのが嬉しかった
笑顔で私に話しかけてくれるご主人様の声がとても優しくて
ただただ、嬉しかった
◇ ◇ ◇
初めてご主人様が泣いているのを見た
どうしたのか尋ねたけど、何でもないとしか言わなかった
ご主人様の涙を見たのはそれ一度きりだけれど
あんなに優しかったご主人様の目は
その日からずっと、悲しみを纏っていた
◇ ◇ ◇
ご主人様は余りお家に帰って来なくなった
いつもどこかで冒険をしているらしい
ご主人様が居ないお家はいつもより広く感じて、何だか寂しい気持ちになった
だけど元気を出さなくちゃ
ご主人様が帰って来た時に、笑顔で『おかえり』を言うために
◇ ◇ ◇
あの日から世界は変わった
誰もが不安と戸惑いの坩堝に放り込まれた
私の世界も変わってしまった
この部屋の中には貴方の残滓だけが残されていて
ただそれが切なくて
◇ ◇ ◇
私も全部忘れてしまえれば良かった
そうすれば一人ぼっちが悲しいなんて思わなかったのに
だけど、忘れなくて良かったとも思った
きっと私が忘れてしまったら、あの人は一人ぼっちになってしまう
そんな気がしたから
◇ ◇ ◇
あれからどれほどの季節が巡っただろうか
待ち人は未だに帰らないけれど、その身の無事だけは信じられた
あの人は誰より、強い力を持っていたから
だけど心配だった
あの人の心は、その力ほど、強くないと知っていたから
◇ ◇ ◇
扉を叩く音が聞こえた
あの日からこの家を訪れる人など、ついぞ居なかったのに
まさか、と思った。期待に胸が膨らんだ
まさか、と思った。諦念が胸を過った
この扉はどちらに繋がっているのだろうか
◇ ◇ ◇
『ただいま』と言った貴方に、『おかえり』を告げたあの日から
雨の音は聞こえなくなっていた
きっと、雨はもう降らないだろう
だって、私の傍には
太陽が在るから
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