奇跡とは呼べない
違和感は、ひどく些細なところから始まった。
夏希がこの世界へ現れてから、十日あまりが過ぎた平日の夜。
仕事を終えて帰宅した湊は、シャワーを浴びて遅い夕食を済ませたあと、ダイニングテーブルにノートパソコンを広げていた。
向かいでは、夏希がスーパーで買ったカップアイスを食べている。
風呂上がりでまだ少し湿っている髪をタオルで適当に拭きながら、もう片方の手では湊のタブレットを弄っていて、その姿はこの部屋に十日しかいない人間とは思えないほど馴染んでいた。
初めの頃は、帰宅して玄関に夏希の靴があるだけで胸の奥がざわついた。
リビングからテレビの音が聞こえ、その合間に八年前と変わらない笑い声が混じるだけで、自分がどの時間へ戻ってきたのか分からなくなるような瞬間さえあった。
それも今では、少しずつ日常へ変わりつつある。
湊が「ただいま」と言えば、夏希は当たり前のように「おかえり」と返す。
冷蔵庫に入れておいたプリンを勝手に食べられれば普通に腹が立つし、脱いだ服をソファへ放置されれば片づけろと小言も言う。
八年間、どれほど願っても叶わなかった再会でさえ、十日も生活の中に置いておけば、少しずつ「いつものこと」に変わっていくらしい。
そのことが嬉しいのか、それとも怖いのか、湊にはまだ分からなかった。
「なあ」
タブレットを眺めたまま、夏希が不意に口を開いた。
「こういうのって普通、大学とか研究所とかに相談しない?」
湊は検索結果を追っていた指を止め、向かいへ視線を上げた。
「何をどう説明するんだよ」
「『八年前から来ました』って」
「その時点で病院紹介されるだろ」
「じゃあ証明すればいいじゃん。昔のこと知ってます、とか」
「お前が俺の小学校時代を知ってることが時間移動の証明になるなら、世の中の幼なじみ全員タイムトラベラーだよ」
呆れて返すと、夏希はスプーンを口に咥えたまま少し考え込み、やがて名案を思いついたように目を上げた。
「NASA」
「何で急にアメリカ行くんだよ」
「すごそうじゃん」
「お前の中のNASA、何でも解決してくれる組織になってない?」
「少なくとも湊よりは詳しそう」
「比較対象が俺なの納得いかねえな」
夏希が声を殺して笑い、湊も思わず口元を緩めた。
もっとも、笑っていられるほど状況が進展しているわけではない。
二人はこの十日間、思いつく限りのことを調べていた。
夏希が雨宿りした神社の由来、八年前の落雷記録、当日の気象情報、周辺で報告された停電や電気系統の異常。
それらしいものが見つからなければ、さらに検索範囲を広げ、最後には地方の怪談じみた記事まで読む羽目になった。
神社にも二度足を運んだが、結果は同じだった。
社殿も石段も八年前とほとんど変わらず、夏希が異常現象に巻き込まれたという軒下にも、何か特別なものが残っているわけではない。
二度目など、境内を歩き回っているうちに蚊に刺されすぎた夏希が「俺これ、異世界転移より先に蚊で死なない?」と言い出したくらいである。
手掛かりはない。
夏希がなぜここへ来たのかも、元の時間へ戻れるのかどうかも、何ひとつ分からないままだった。
湊は小さく息を吐き、開いていた気象記録のページを閉じようとした。
その時、画面の隅に表示されていた日付がふと目に留まった。
二〇一八年八月二日。
夏希がこの世界へ来た日。
見慣れた数字を何気なく眺めているうちに、湊の中でひとつの記憶が引っかかった。
「夏希」
「んー?」
アイスを掬いながら、夏希が気のない返事をする。
「お前、こっちへ来る直前に、何か変わったことなかったって言ってたよな」
スプーンを持ったまま夏希が眉を寄せた。
「雷以外?」
「ああ」
「前にも聞かなかった?」
「聞いた。でも、もう一回思い出してみて」
「何で」
「何となく」
その曖昧な答えが気に入らなかったらしく、夏希は胡乱な目でこちらを見た。
それでも文句を言いながら記憶を探り始め、椅子の背に身体を預けると視線を天井へ向けた。
「変なこと……」
しばらく考えたあと、ふと思い出したように「あ」と声を漏らす。
「事故ならあった」
その言葉に、湊の指が止まった。
「事故?」
「うん。俺がここ来る何日か前」
夏希は大したことではないという調子で続けた。
「七月三十一日。たぶん」
その日付を聞いた瞬間、胸の奥で小さく何かが軋んだ。
心当たりがあったからではない。
むしろ、心当たりがなかったからだった。
「どんな事故だった?」
無意識に声が低くなる。
夏希は残り少なくなったアイスを掬いながら答えた。
「駅の東側にある交差点。大型トラックが突っ込んだやつ。結構でかい事故だったらしい」
湊は黙った。
やがて夏希が顔を上げ、不思議そうにこちらを見る。
「覚えてない?」
「……知らない」
「え?」
夏希の表情が変わった。
「いや、知ってるだろ。お前だってあの日―――」
そこまで言って、一度口を閉じる。
そして少し気まずそうに目を逸らした。
「……ああ。俺と喧嘩してたから、それどころじゃなかった?」
湊はしばらく夏希の顔を見つめた。
「俺たち、喧嘩してたのか?」
問い返した途端、今度は夏希が完全に固まった。
「……は?」
「七月三十一日」
「してただろ」
「何で?」
「何でって……祭りのことで」
「祭り?」
湊の反応が本気だと分かったのだろう。夏希は次第に表情を曇らせた。
「お前、美咲たちと行くって言ったじゃん」
そんな記憶は、湊にはなかった。
夏希の死の前後について、自分の記憶が一字一句正確だとは思っていない。
八年という時間が経っている以上、細かなことなら抜け落ちていても不思議ではない。
それでも、事故直前の数日間だけは別だった。
何を話したのか。どこへ寄ったのか。最後にどんな顔をしていたのか。
事故の直後、湊は答えなどあるはずもないのに、その数日間だけを何度も思い返した。
その中に、大きな喧嘩をした記憶はない。
「俺、美咲たちと祭りに行くなんて言ってない」
慎重にそう告げると、夏希の眉間に皺が寄った。
「言ったって。だから俺キレたんじゃん」
「少なくとも俺は覚えてない」
「いやいや、お前が『誰と行ってもいいだろ』って言うから、俺も腹立って」
言いながら、夏希は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、今考えると俺が何であんなキレたのかもアレだけど」
そこには湊にも思うところがあったが、今は触れなかった。
「それで、その日どうした?」
「何が?」
「喧嘩したあと」
声の調子に何かを感じたのか、夏希からふざけた色が消えた。
「一緒に帰らなかった」
本来なら補習が終わったあと、二人で合流して帰る予定だったという。
けれど朝から続いていた喧嘩のせいで、夏希は意地を張り、湊を待たず一人で学校を出た。
「いつもの道で帰ったのか?」
「いや」
夏希は首を振った。
「お前と鉢合わせんのも嫌だったから、裏の方から帰った」
その返答を聞いた瞬間、湊の背筋をゆっくりと冷たいものが這い上がった。
「家に着いたら、母ちゃんがニュース見ててさ。いつも俺らが通る交差点で事故があったって。時間もちょうど俺らが通ってたくらいだった」
夏希は当時の母親を思い出したのか、わずかに苦笑した。
「それでめちゃくちゃ怒られた。『もし普段の道を通ってたらどうなってたと思うの』って。俺だって知らねえよって言ったら、さらに怒られたけど」
普段なら笑ってしまいそうな話だった。
けれど今の湊には、その軽口を拾う余裕がなかった。
「つまり、お前は本来なら事故のあった交差点を通る予定だった」
「まあ、たぶん」
「でも俺と喧嘩したから、別の道を通った」
「そう」
「だから事故に遭わなかった」
夏希が頷く。
それだけの動作なのに、湊の心臓が妙に強く鳴った。
「……湊?」
顔色の変化に気づいた夏希が、わずかに身を乗り出す。
「ちょっと待って」
湊はノートパソコンを自分の方へ引き寄せ、検索窓に指を走らせた。
「何するの?」
「確認する」
「何を」
返事をする余裕はなかった。
日付、事故、地域名。
検索結果が並び、地方紙のアーカイブや古い事故記事が表示される。
自分が忘れるはずのない出来事を、今さら検索している。そのこと自体がひどく奇妙だった。
けれど今必要なのは、記憶ではなく記録だった。
いくつかの記事を開いた末、目的のものが表示される。
八年前。
朝倉夏希が死亡した交通事故。
記事の日付を見た瞬間、湊は息を止めた。
「……違う」
掠れた声が漏れる。
夏希が椅子を立ち、湊の隣へ回り込んだ。
「何が?」
「日付」
湊は画面から目を離さないまま答えた。
「俺の世界でお前が死んだのは、七月三十一日じゃない」
夏希の肩が僅かに強張る。
「……いつ?」
「八月五日」
しばらく、どちらも動かなかった。
夏希は画面へ目を落とし、記事を読み始める。その表情に、次第に困惑が広がっていく。
「場所も違う」
「ああ」
「俺が言ってんの、駅の東だぞ」
「こっちは西側の幹線道路だ」
「……何これ」
発生時刻も、道路状況も、事故車両の進行方向も違っていた。共通しているのは、大型車が関係する交通事故だったということくらいだった。
「八月五日って……」
夏希がゆっくりと顔を上げる。
「俺、その日知らない」
「そうだろうな」
「だって俺、二日にこっち来てる」
「ああ」
言葉を交わしたあと、二人の間に重い沈黙が落ちた。
これまで湊は、夏希を「事故で死ぬ数日前の本人」なのだと思っていた。
二〇一八年の夏。八月五日に命を落とすはずだった朝倉夏希が、何らかの異常現象によって数日前に未来へ飛ばされ、今ここにいる。
信じがたい話ではあっても、時間の流れとしては一本に繋がっているように思えた。
けれど、それでは説明がつかない。
「七月三十一日」
湊は記事を見つめながら、ゆっくり口を開いた。
「俺の記憶では、お前と喧嘩してない」
夏希は黙っている。
「普通に一緒に帰った。途中でコンビニ寄って、お前はソーダ味のアイス買ってた」
夏希の目が僅かに揺れる。
「……知らない」
「だろうな」
「俺、その日は一人で帰った」
「ああ」
同じはずだった記憶が、そこで分かれている。
湊はゆっくりと夏希を見る。
そこにいるのは、間違いなく夏希だった。
ゴン太のことを知っている。体育倉庫の裏で転んだことも覚えている。
高校一年の冬、安いボールペンのクリップへ「ナツ」と刻んだことさえ覚えている。
生まれてから十七歳になるまでの大半を、湊と同じように生きてきた朝倉夏希だ。
だからこそ、言葉を選ばなければならなかった。
「たぶん、お前は」
一度だけ呼吸を整えてから、湊は続けた。
「この世界の夏希じゃない」
夏希の表情が止まった。
その一瞬の揺れを見て、湊はすぐに言葉を足す。
「お前が夏希じゃないって意味じゃない。そこは違う」
自分でも驚くほど強い声が出た。
「お前はお前だよ。ただ、俺が生きてきたこの世界とは、途中から違う道を通ってきたんだと思う」
夏希はゆっくり椅子へ戻り、両肘をテーブルについた。額へ手を当てたまま、珍しくすぐには何も言わない。
「……何それ」
やがて、乾いた声が漏れた。
「平行世界とか、そういうやつ?」
「たぶんな」
「たぶんで俺の出身世界増やすなよ」
「俺だって断定したくてしてるんじゃねえよ」
反射的に返すと、夏希の口元が僅かに緩んだ。
「じゃあ整理すると」
自分に言い聞かせるように、夏希は指を一本立てた。
「俺の世界では七月三十一日に事故が起きた。俺は本当ならそこを通ってたかもしれないけど、お前と喧嘩したから別の道を帰った」
もう一本、指を立てる。
「だから事故に遭わなかった」
「そうなる」
「そのあとも普通に生きてて」
そこで、夏希の言葉が僅かに止まった。
普通に生きていた。
ただそれだけの言葉は、この世界の湊にとっては、八年前に途切れた先の時間を意味していた。
「八月二日に補習行って、帰りに雨降って、神社で雨宿りしてたら、あの変なのが起きて」
「それでここへ来た」
「八年後の、しかも別世界に?」
夏希は思い切り顔をしかめた。
「俺、移動距離盛りすぎじゃね?」
「時間だけじゃなく世界まで越えてきたことになるな」
「どういう体質だよ」
「知らねえよ」
「健康診断で引っかかるかな」
「問診票に『世界線越境歴』なんて欄ねえよ」
「なら健康」
「判断が雑すぎる」
一瞬だけ、いつもの軽いやり取りが戻る。
けれど、それは長く続かなかった。
夏希はやがて視線を落とし、テーブルの木目をじっと見つめた。何かを考えているのが分かったため、湊も急かさずに待った。
しばらくして、夏希が静かに口を開いた。
「じゃあ」
先ほどまでの調子とは明らかに違う声だった。
「向こうの湊、今頃俺探してんのかな」
その一言で、湊の中にこれまで一度も浮かばなかった存在が輪郭を持った。
向こうの湊。
当然そこにもいる。
十七歳の三枝湊が。
夏希と祭りのことで喧嘩して、七月三十一日に別々の道を帰った自分。
そのことで結果的に夏希は事故を避け、翌日にはどうせまた顔を合わせ、気まずいながらも少しずついつもの距離へ戻っていたのだろう。
そして八月二日。
夏希が突然、消える。
事故ではない。
病院からの連絡もない。
死んだという事実さえない。
ただ、帰ってこない。
「母ちゃんたちも探してるよな」
夏希の声が少し沈む。
「俺、家帰ってないんだから」
その言葉を聞いた瞬間、湊の胸の内側がゆっくりと冷えていった。
警察へ届けるだろう。
学校にも連絡する。
友人たちへ電話をかける。
最後にいた場所を辿り、自転車が神社の近くに残っていたなら、周辺を何度も探すはずだ。
そして、もう一人の自分も。
「俺だったら」
夏希は困ったように笑った。
「絶対めちゃくちゃ探すけどな」
湊には、その言葉が痛いほど分かった。
自分だったら探す。
家へ行く。
電話する。
メッセージを送る。
学校へ行く。
駅へ行く。
神社へ行く。
見つからなければ、何度だって同じ場所へ戻る。
昨日まで当たり前に隣にいた人間が、何の説明もなく消えたのだ。
納得できるはずがない。
湊には、少なくとも終わりがあった。
八年前、病院へ行った。
夏希の死を知らされた。
棺の中の顔も見た。
受け入れられなくても、「何が起きたのか」だけは知ることができた。
けれど向こうの自分には、それさえない。
好きな相手が突然いなくなり、どれだけ探しても見つからない。
それが一週間続くのか、一か月続くのか、それとも何年経っても終わらないのかさえ分からない。
「……最悪だ」
思わず、低い声が漏れた。
夏希が顔を上げる。
「何が?」
湊はすぐには答えられなかった。
これを言えば、夏希まで同じことを背負う。
けれど、もう本人も気づきかけている。
「俺」
湊は視線を落とした。
「ずっと、お前が戻ってきたと思ってた」
夏希は何も言わず、続きを待っている。
「八年前に死んだお前が、どういう理屈か知らないけど、俺のところへ戻ってきたんだって」
それは疑いようのない幸福だった。
もう一度会いたい。
もう一度声を聞きたい。
もう一度、自分の名前を呼んでほしい。
事故の直後には、そんなことを何百回と思った。
年月が経つにつれて願うことをやめただけで、叶わなくていいと思うようになったわけではない。
「嬉しかったんだよ」
湊は自嘲するように少し笑った。
「馬鹿みたいに」
初めて再会した日のことを思い出す。
腕を掴んだ。
温かかった。
脈があった。
―――生きていた。
あの時、自分の中に押し寄せた安堵だけは、今でも鮮明に残っている。
「でも」
言葉が喉に引っかかる。
それでも、もう避けることはできなかった。
「俺のところにお前が来たってことは、向こうの俺からお前がいなくなったってことなんだな」
夏希の目が、僅かに見開かれた。
そこで初めて、彼も同じ結論に辿り着いたのだろう。
「……あ」
小さな声が落ちる。
部屋の中では、時計の針も動いているし、冷蔵庫も低く唸っている。
窓の外では車が走り、どこか遠くで救急車のサイレンまで聞こえていた。
けれど二人には、そのどれもひどく遠かった。
この十日間。
一緒に飯を食べた。
仕事についてきた。
売場で勝手に客へ文房具を勧めた。
アイスを交換した。
くだらないことで何度も喧嘩した。
卒業写真を見て、過ぎた八年間の話をして、肩が触れる距離で同じソファに座った。
湊にとっては、失った日常を思いがけずもう一度与えられた十日間だった。
けれど同じ十日間、別の世界では、夏希の両親が眠れない夜を過ごしているかもしれない。
友人たちが連絡を取り合い、消息を探しているかもしれない。
そしてもう一人の湊が、今も夏希の帰りを待っているかもしれない。
「……ずるいな」
湊はほとんど独り言のように呟いた。
「何が?」
夏希がこちらを見る。
「俺だけ得してるみたいだ」
冗談めかしたかった。
けれど、笑えなかった。
夏希の眉が寄る。
「別に、お前が俺を連れてきたわけじゃないだろ」
「分かってる」
「じゃあ」
「分かってるけど」
湊はそこで言葉を止めた。
理屈の問題ではなかった。
自分が奪ったわけではない。
夏希をこちらへ呼んだわけでもない。
誰かから取り上げようと思ったことなど一度もない。
それでも、もし元の世界へ帰す方法が見つかったら。
その時、自分は本当に夏希の背中を押せるのだろうか。
もう二度と会えないことを受け入れ、どうにか夏希のいない生活を作った。
ようやく不在そのものが日常になった頃、夏希は突然戻ってきた。
そして今、また失う可能性が、初めて現実の形を持ち始めている。
湊はゆっくりと自分の掌を見た。
八年前は、何度手を伸ばしても何も掴めなかった。
けれど今なら届く。
すぐ隣に、夏希がいる。
体温がある。
手も、腕も、呼吸も、笑い声も、全部ここにある。
自分がこうして掴める距離にいるからこそ、別の世界では同じ自分が空になった手を伸ばし続けているのだとしたら。
この再会を。
この幸福を。
湊はまだ、奇跡と呼んでいいのか分からなかった。




