八年越しの両片思い
夏希が別の世界から来た人間だと分かっても、翌朝になれば腹は減ったし、湊には変わらず仕事があった。
洗濯物は放っておけば溜まる。
冷蔵庫の麦茶も、誰かが作らなければなくなる。
火曜と金曜には燃えるゴミを出さなければならないし、スーパーでは卵が特売になる。
世界が二つあるかもしれないという、人生を根本から揺るがしかねない事実を知ったところで、生活の方は驚くほど律儀に続いていった。
むしろ、そのことに二人とも救われていたのかもしれない。
「夏希、それ戻せ」
仕事帰りに立ち寄ったスーパーで、湊は野菜を選びながら横目で釘を刺した。
夏希はファミリーサイズのポテトチップスを胸に抱えたまま、露骨に不満そうな顔をする。
「まだ何も言ってないじゃん」
「買ってほしい顔してる」
「じゃあ話早い。買って」
「戻せ」
即答され、夏希はしばらく商品と湊の顔を交互に見比べていたが、やがて諦めたように棚へ戻した。
ところが、湊が牛乳を取って振り返った頃には、買い物カゴの底に見覚えのないチョコレートが入っている。
「……これ何」
「何が?」
夏希は何食わぬ顔でヨーグルトを眺めていた。
湊が無言でチョコレートを持ち上げると、ようやくこちらを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
「自然発生」
「スーパーのカゴで菓子が自然発生してたまるか」
湊は棚へ戻した。
夏希はすぐに取り戻した。
もう一度戻す。
また入る。
三度目で面倒になり、湊はとうとう諦めた。
「勝った」
「次から食費取るからな」
「高校生から?」
夏希は勝ち誇った顔のままカートを押し始めた。その背中を追いながら、湊は小さく息を吐く。
「俺の家計を圧迫してる高校生から」
「七個上なんだから養ってよ」
「何で俺がお前を養うんだよ」
「愛?」
振り返りざまに悪びれもなく言われ、湊は眉間を押さえた。
「お前最近、その言葉の使い方雑じゃない?」
「便利じゃん」
「便利だからって乱用すんな」
夏希は声を上げて笑い、また前を向いた。
その笑い声を聞きながら、湊も結局、口元を緩めていた。
そんなふうに二人は生活を続けた。
夏希は相変わらず、ときどき湊の営業についてきた。
以前ほど頻繁ではないものの、一度顔を覚えられてしまった売場では、本人もすっかり馴染んでいる。
ある日など、売場担当者から新商品の試筆を頼まれ、夏希が素直な感想を述べている横で、湊だけが営業鞄を抱えて立っていた。
「三枝さんより説明分かりやすいですね」
担当者に笑顔でそう言われた瞬間、夏希の肩が分かりやすく揺れた。
笑いを堪えている。
湊は営業用の笑顔を崩さないまま、横目で睨んだ。
「何か言いたそうだな」
「何も?」
「顔がうるさい」
「営業三年目、十七歳に負ける」
「帰り一人で帰れよ」
「職場いじめ」
「部外者だろ、お前」
売場担当者まで笑い始め、湊はますます居心地が悪くなった。
コンビニへ行けばアイスをどちらが買うかで揉め、夜中に夏希がカップ麺へ手を伸ばせば、湊が「こんな時間に食うな」と止める。
風呂上がりに冷蔵庫を開けたまま飲み物を選んでいるので注意すれば、「二十四歳って細かくなるんだな」と笑われ、脱いだ服をソファへ放置しているのを叱れば、「湊、母ちゃんみたい」と言われた。
高校時代と、何も変わらないように思える。
けれど同時に、何もかもが違っていた。
夏希は十七歳のままだ。
湊は二十四歳になった。
本来なら同い年であるはずの二人の間に、八年という時間だけが不自然に横たわっている。
夏希の知らない湊がいる。
大学へ通った湊。
就職活動で何社も落ちた湊。
初任給で両親に食事を奢った湊。
誰かと付き合って、別れた湊。
夏希がいない世界で生きることに、いつの間にか慣れてしまった湊。
一方で、この世界には二十四歳の夏希がいない。
大学へ行ったのか。
就職したのか。
どんな服を着て、誰と笑い、どんな大人になったのか。
湊には知る術がなかった。
*
「祭り行こうぜ」
そう言い出したのは、八月半ばの金曜の夜だった。
夕食後、ソファを占領してスマートフォンを弄っていた夏希が、不意に身体を起こして画面をこちらへ向けてくる。
そこには、近隣の神社で開かれる夏祭りの案内が表示されていた。
「明日」
湊は缶の炭酸水を開けながら、画面を一瞥した。
「急だな」
「暇だろ?」
「何で俺が休日全部お前に使う前提なんだよ」
「予定あるの?」
夏希はにやりと笑う。
湊は言葉に詰まり、結局視線を逸らした。
「……ないけど」
「じゃあ暇じゃん」
「腹立つな」
夏希は勝ったような顔で笑った。
「行こうぜ」
もう一度言われたその言葉に、湊は一瞬だけ返事が遅れた。
夏祭り。
高校二年の夏。
本当なら、夏希と行くつもりだった。
そして、そこで告白するつもりだった。
事故から年月が経つにつれ、その計画を毎年思い出していたわけではない。
むしろ、いつの間にか記憶の奥へ沈み、普段は意識しなくなっていた。
それでも、夏希本人の口から「祭り」という言葉を聞いた瞬間だけは、十七歳だった頃の自分が、驚くほど鮮明に胸の奥へ戻ってきた。
「……嫌?」
返事がないことを不思議に思ったのか、夏希が首を傾げる。
湊はそれを誤魔化すように炭酸水を一口飲んだ。
「いや。行くか」
*
翌日の夕方。
駅前から神社へ続く通りには、すでに大勢の人が集まっていた。
夕暮れの空にはまだ昼間の熱が残り、並んだ屋台からは焼きそばや醤油の焦げる匂いが流れてくる。
通りの上に連なった提灯は、陽が傾くにつれて一つずつ橙色の光を濃くしていた。
「暑い」
夏希が人混みを眺めながら顔をしかめた。
「夏祭りだからな」
「人多い」
「夏祭りだからな」
「帰る?」
湊が呆れて横を見ると、夏希はすぐに笑った。
「冗談」
「来たいって言ったの誰だよ」
夏希は白いTシャツに薄手の黒いシャツを羽織り、買ったばかりのスニーカーを履いていた。
制服ではない。
それでも湊から見れば、どうしても十七歳だった。
綿あめの屋台へ一瞬だけ視線を向けたことも、射的を見つけた途端に歩みが遅くなったことも、本人は気づかれていないつもりらしい。
「射的やる?」
湊が尋ねると、夏希はすぐに視線を逸らした。
「別に」
「見てただろ」
「見てない」
「やりたいならやれば」
「子ども扱いすんなよ」
そう言いながら、三分後には銃を握っていた。
結果は三発とも外れた。
「全然取れねえ」
夏希は銃を置きながら、納得できない顔で台を睨む。
「下手になったな」
「絶対これ銃がおかしい」
「店のせいにすんなよ」
「じゃあ湊やってみろよ」
煽られて交代した結果、湊も見事に全弾外した。
夏希はしばらく黙ったあと、ゆっくりこちらを見る。
「下手じゃん」
「……銃がおかしい」
「店のせいにすんなよ」
「お前さっき言ってただろ」
堪えきれなくなった夏希が吹き出し、湊もつられて笑った。
焼きそばを半分ずつ食べ、夏希が辛いものを避ける横で湊が七味を振ると、「それ人間の食い物じゃなくなるじゃん」と本気で嫌がられた。
ラムネも買った。
瓶の中でビー玉が転がる音を聞いた瞬間、湊の中に、昔の夏がほんの一瞬だけ蘇る。
自転車。
制服。
汗ばんだシャツ。
蝉の声。
隣にいた夏希。
あの頃は、来年も再来年も、当たり前のようにこんな夏が来ると思っていた。
今は、その当たり前がどれほど脆いものなのかを知っている。
「湊」
呼ばれて顔を上げる。
夏希が人混みの向こうを指差していた。
「花火、始まるって」
*
二人は祭りの中心から少し離れた河川敷まで歩いた。
屋台の明かりは遠くなり、代わりに川面を渡る夜風が火照った肌を撫でていく。
草の上へ並んで腰を下ろして間もなく、低い破裂音と共に一輪目の花火が夜空へ開いた。
白い光が大きく広がり、少し遅れて赤い花火が重なる。川面にもその色が映り、揺れながら長く伸びた。
「おお」
夏希が素直に声を漏らす。
「でか」
湊は思わず横目で見る。
「語彙力」
「花火見て文学的な感想言う奴いる?」
「高校生なんだからもうちょっと頑張れ」
夏希は少し考えるように顎へ手を当てた。
「じゃあ……夏の夜空に咲く大輪の―――」
「やめろ。急にダサい」
「言わせたのお前だろ!」
夏希が笑いながら肩を小突いてくる。
その横顔を、次の花火の光が一瞬だけ照らした。
十七歳。
高校二年の夏のままの顔。
隣にいる自分だけが、八年先へ進んでしまっている。
そんなことを考えていると、夏希がふいに口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「二十四の俺って、どんな感じかな」
湊は少しだけ返事に迷った。
「知らん」
「想像しろよ」
「無茶言うな」
夏希は不満そうにしながらも、すぐに自分の顎を撫で、わざとらしく横顔を作った。
「イケメン?」
その仕草があまりにも馬鹿らしくて、湊は小さく笑う。
「今と変わんないんじゃない」
「じゃあイケメンじゃん」
「そうは言ってない」
「否定もしなかった」
「面倒くせえな」
また一つ、花火が上がる。
今度は青だった。
夏希は夜空を見上げたまま、しばらく考えるようにラムネ瓶を膝の上で転がしていた。
「身長伸びてるかな」
「お前、まだ百七十ないもんな」
「いくし」
「八年前も言ってた」
「二十四なら百八十くらいあるかも」
「八年でそんな伸びる気?」
「夢くらい見させろよ」
夏希はむっとしたように肩をぶつけてきた。
そのまま少し黙り、何でもないことのように続ける。
「彼女いるかな」
湊の返事が、一瞬だけ遅れた。
いるかもしれない。
いないかもしれない。
向こうの世界で夏希がそのまま生きていれば、二十四歳になるまでに誰かを好きになる可能性は当然ある。
恋人がいて。
自分の知らない相手と笑って。
自分の知らない人生を生きている。
それは自然なことのはずなのに。
想像した瞬間、胸の奥が少しだけ沈んだ。
「……何その顔」
夏希の声に笑いが混じる。
「別に」
「今、絶対嫌そうな顔した」
「してない」
湊が前を向いたまま否定すると、夏希は面白がるように横から顔を覗き込んできた。
「もしかして妬いた?」
「高校生うぜえ」
湊が眉を寄せると、夏希は肩を揺らして笑った。
「図星じゃん」
「川に落とすぞ」
「二十四歳が高校生を?」
「年齢を盾にすんな」
湊が手で追い払うような仕草をすると、夏希はまだ笑いながら身体を戻した。
そのまましばらく花火を見ていたが、やがて何かを思い出したように、ほんの少し声の調子を変えた。
「でも、たぶん彼女いないと思う」
湊は眉を寄せる。
「何で」
夏希は前を向いたまま、ラムネ瓶の口を指先で弄んだ。
「だって俺、お前に告白するつもりだったし」
次の花火が上がった。
大きな破裂音が遅れて腹の底まで響いた。
湊は、動けなかった。
聞き間違いかと思った。
けれど夏希は、何事もなかったように夜空を見上げている。
「……は?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど間の抜けたものだった。
夏希がこちらを見る。
「何」
「今、何て言った?」
「彼女いないんじゃねって」
「その後」
「お前に告白するつもりだった」
夏希は当たり前のことを言うように答えた。
湊の中で、言葉の意味だけがいつまでも繋がらない。
「誰が」
「俺が」
「誰に」
同じことを聞き返している自覚はあった。
それでも、確認せずにはいられなかった。
夏希は僅かに眉を上げる。
「お前に」
「……何で?」
そこまで聞くと、夏希は今度こそ呆れた顔をした。
「何でって」
少しだけ視線を逸らしてから、照れ隠しのように肩を竦める。
胸の奥で、何かが大きく崩れた。
八年間。
何度も考えた。
もしあの時、言えていたら。
夏希は困っただろうか。
笑っただろうか。
気持ち悪いと言われただろうか。
それとも、ほんの少しだけでも同じ気持ちでいてくれたのだろうか。
答えのない問いだった。
夏希はもういない。
だから、一生分からない。
そう思って、とうの昔に胸の奥へ沈めた。
その答えを今。
本人がすぐ隣で、ラムネ瓶を手にしながら。
「過去形?」
夏希は瞬きをして、一度だけ考え込んだ。
それから、何でもないように首を傾げる。
「なんで?」
あまりにもさらりと言われて、今度こそ湊は完全に言葉を失った。
夏希も数秒遅れて、自分が今どれほど大きなことを口にしたのか理解したらしい。
僅かに目を泳がせたあと、気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「……あれ」
「お前」
「何」
「そういうの、そんな普通に言う?」
「いや、だって話の流れで」
「話の流れで八年越しに」
「八年越しなの、お前だけだろ」
夏希が思わず笑う。
その言葉に、湊は一瞬だけ黙った。
確かにそうだった。
夏希にとっては八年越しではない。
ほんの少し前まで、十七歳の湊を好きで、告白しようとしていた。
そこから突然こちらへ飛ばされただけなのだから。
けれど湊にとっては、違う。
八年間。
夏希は自分を好きではなかったと思っていた。
自分だけが勝手に好きになり、勝手に言えないまま失って、そのまま何年も抱えていた。
「……俺も」
気づけば、口から零れていた。
今度は夏希が止まった。
花火の赤い光が、その横顔を一瞬だけ染める。
「……は?」
さっきの自分とまったく同じ声だった。
夏希はしばらく瞬きすらしなかった。
「……いつから?」
「高二になる前くらい」
その返事を聞いた瞬間、夏希の眉が大きく寄った。
「は?」
「だから、高二になる前」
「聞こえてる。意味分かんないだけ」
「俺も同じだったよ」
夏希は手にしていたラムネ瓶を草の上へそっと置いた。
動作が妙に慎重で、たぶん持ったままだと落とすと思ったのだろう。
「じゃあ、お前も告白しようとしてた?」
「ああ」
湊が頷くと、夏希は食い入るようにこちらを見る。
「いつ」
「夏休み」
「いつの夏休み」
「高校二年」
「具体的に」
嫌な予感がした。
それでも答えるしかない。
「……祭りの日」
夏希の目が大きく見開かれた。
数秒間、完全に言葉を失う。
そして、ひどく嫌な確認をするように、ゆっくり口を開いた。
「……祭り?」
湊は僅かに視線を逸らした。
「……そう」
「おれが死ぬ前?」
湊が言葉に詰まる。
夏希の顔が、見る見るうちに歪んだ。
「遅えよ!!」
河川敷に怒声が響いた。
湊も反射的に声を上げる。
「お前も言ってねえだろ!」
「俺は言うつもりだったんだよ!」
夏希は勢いよく身体ごとこちらへ向き直った。
目元には怒りと、信じられないという困惑が入り混じっている。
「俺だって言うつもりだったよ!」
「じゃあ先に言えよ!」
「何で俺が先なんだよ!」
「お前の方が口数多いだろ!」
「告白に口数関係ある!?」
「あるだろ!」
「ねえよ!」
近くにいた家族連れが一瞬こちらを見た。
湊はそれに気づいたものの、もう気にしている余裕はなかった。
「ていうかお前、俺が女子と話してるとたまに機嫌悪かっただろ!」
夏希に指を差され、湊は思わず言い返す。
「そりゃ仕方ねえだろ!」
「知らねえよ!」
「分かれよ!」
「分かるか!」
夏希は頭を抱え、苛立ったように髪を掻き回した。
「俺だって、お前が女の先輩に告白されたって聞いた時、めちゃくちゃムカついてたんだけど!」
「それ今初めて聞いたわ!」
「言ってねえからな!」
「じゃあ分かるわけねえだろ!」
言い返したところで、二人とも一瞬黙った。
目が合う。
あまりにも馬鹿らしい。
お互い、同じように嫉妬して。
同じように相手の気持ちが分からず。
同じように告白する機会を窺っていた。
それなのに、結局どちらも言わなかった。
「……馬鹿じゃん」
夏希がぽつりと呟いた。
さっきまで怒鳴っていたのに、声にはもう怒りより呆れが混じっていた。
湊も、堪えきれずに笑う。
「ああ」
「両想いだったじゃん」
「そうだな」
「じゃあ何で付き合ってねえんだよ」
「だから、二人とも言わなかったからだろ」
「馬鹿じゃん」
「二回言うな」
夏希が笑った。
その笑い方を見ているうちに、湊も可笑しくなってくる。
けれど笑えば笑うほど、胸の奥から別のものまで込み上げてきた。
八年間。
あんなに苦しかった。
言えなかったことを後悔した。
もし伝えていたらと、何度も考えた。
答えを知ることは一生ないのだと思っていた。
その答えが、こんなにも簡単だった。
同じだった。
最初から、夏希も自分と同じだった。
「……マジかよ」
夏希が笑いながら目元を擦った。
その声が僅かに震えている。
湊は笑いを止めかけた。
「何」
「いや」
夏希は一度顔を俯け、誤魔化すように鼻を啜った。
「俺ら、何やってんだろって」
湊の喉も、急に詰まった。
もしあの夏、どちらかがあと少しだけ勇気を出していたら。
祭りの日まで待たず。
明日でいいと思わず。
今日言えばいいと決めていたら。
夏希が亡くなる前に、二人は互いの気持ちを知ることができた。
「……ほんとだよ」
湊は笑おうとした。
けれど、視界が僅かに滲んだ。
夏希のことで泣くのは、もう何年ぶりか分からない。
悲しいからではない。
嬉しいだけでもない。
悔しくて、馬鹿馬鹿しくて、どうしようもなく愛しかった。
八年前の自分に教えてやりたかった。
お前が好きだった相手は、ちゃんとお前を好きだったのだと。
だから早く言え、と。
「湊」
夏希がこちらを見る。
「泣いてんの?」
「泣いてない」
「いや、泣いてるじゃん」
夏希はそう言いながら、自分も目元を乱暴に擦った。
湊はそれを見て、思わず鼻で笑う。
「お前もだろ」
「俺は花火の煙」
「ここまで煙来てねえよ」
「うるせえ」
言い返す声まで少し掠れていた。
その顔があまりにも格好悪くて。
たぶん、自分も同じ顔をしていて。
二人はまた笑った。
泣きながら、腹を立てながら、笑った。
「八年だぞ」
少し落ち着いた頃、湊が呟いた。
夏希は目元を擦いながら首を傾げる。
「何が」
「お前が俺を好きだったって知るまで、俺は八年かかった」
夏希は一度考えるような顔をしたあと、少し気まずそうに肩を竦めた。
「俺からしたらまだ先だけど」
「腹立つな、お前」
「時間差なんだから仕方ないだろ」
「俺の七年返せ」
「俺に言うなよ」
夏希が笑い、湊も笑った。
夜空では、花火が次々と開いている。
赤。
青。
金。
大きな光が咲いては消え、そのたびに二人の顔を照らした。
高校二年の夏。
本当なら二人で見るはずだった景色。
そこで湊は告白するつもりだった。
夏希もどこかのタイミングで、同じことを言おうとしていた。
けれど、叶わなかった。
八年遅れて、違う世界から来た夏希と二十四歳になった湊が、ようやく同じ場所へ辿り着いた。
それが正しいことなのかは、まだ分からない。
夏希には帰るべき世界がある。
そこには、夏希を探しているかもしれない十七歳の湊がいる。
だから今、互いの気持ちを知ったところで、何かが解決したわけではなかった。
むしろ知らないままなら、もう少し簡単だったのかもしれない。
「夏希」
湊は花火を見上げたまま名前を呼んだ。
「ん?」
すぐ隣から返事がある。
たったそれだけのことなのに、胸が満たされる。
もう、誤魔化せなかった。
「……好きだったよ」
夏希がこちらを見る気配がした。
湊は夜空を見上げたまま続ける。
「八年前、めちゃくちゃ好きだった」
夏希は茶化さなかった。
ただ黙って聞いている。
「言えなくて、ずっと後悔した。時間が経ってからは、もう仕方ないって思うようにはなったけど……答えが知りたくなくなったわけじゃなかった」
言葉にしてみると、不思議なくらい静かだった。
八年間、胸のどこかに引っかかり続けていたものが、ようやく行き先を見つけていく。
「だから」
そこで初めて、湊は隣を見た。
「聞けてよかった」
夏希の目が、また少し赤くなる。
けれど今度は誤魔化さなかった。
しばらく湊を見つめたあと、ほんの僅かに唇を尖らせる。
「……過去形?」
さっき自分がした質問を、そのまま返された。
湊は一瞬だけ黙った。
それから、わざと考えるような顔をする。
「どうだろうな」
「は?」
「八年経ってるし」
次の瞬間。
夏希の拳が肩へ飛んできた。
「痛っ!」
「今の流れでそれ言う!?」
「冗談だよ!」
「最低!」
夏希がもう一度殴ろうとする。
湊は笑いながらその手首を掴んだ。
「分かった、分かったから」
「何が分かったんだよ!」
「今も好き」
思ったより、あっさりと言葉が出た。
夏希の動きが止まった。
湊の掌の中に、細い手首の体温がある。
再会した日にも湊は同じ腕を掴んだ。
あの時は、生きていることを確かめるためだった。
今は違う。
夏希も、すぐには振りほどかなかった。
夜空に大きな花火が開き、白い光が二人を照らす。
その一瞬だけ、二人の間に横たわっている八年が見えなくなったように思えた。
「……ほんとに?」
夏希が小さく尋ねる。
さっきまでの勢いはなかった。
十七歳らしい不安が、声の端に滲んでいる。
湊は掴んでいた手首の力を少しだけ緩めた。
「ほんとに」
夏希の目が、僅かに揺れた。
それから照れ隠しのように思いきり顔を背ける。
「……遅えよ」
「だから、お前もだろ」
「今は俺の話じゃない」
「都合いいな」
「うるさい」
それでも、夏希はもう笑っていた。
湊も笑った。
二人の間には八年の隔たりがある。
失った時間は戻らない。
十七歳だった二人が、同じ夏の中で想いを伝え合う時間は、もうここでは存在しない。
それでも八年遅れた言葉は、届けることができた。
やがて夜空いっぱいに最後の花火が開き、少し遅れて腹の底へ響く音が届く。
その光が消えたあとも湊は、夏希の手首をすぐには離さなかった。
夏希もまた離してくれとは、言わなかった。




