それでも今夜は、隣にいる
夏希は、八年後の世界を思いのほか楽しんでいた。
少なくとも、最初のうちは。
「駅、めちゃくちゃ綺麗になってんじゃん」
土曜の午後、改札を抜けた夏希は、頭に被せられたキャップのつばを押し上げながら辺りを見回した。
八年前には少しくすんでいた駅舎は改装され、コンコースには明るい照明が並び、以前はなかったカフェやドラッグストアまで入っている。
夏希にとってはほんの数日前まで見慣れていたはずの場所なのに、そこには微妙な違和感があちこちに散らばっていた。
「改装したからな。三年くらい前」
「未来すげえ」
「八年程度でいちいち未来扱いすんな」
そう返す湊の横を、夏希は落ち着きなく歩いていく。
地元へ来たいと言い出したのは夏希だった。
元の時代へ戻る手掛かりを探すなら、あの神社だけではなく周辺も調べてみたい。
それが本人の言い分だったが、単純に、自分の知っている町が八年後にどうなっているのか見てみたい気持ちもあったのだろう。
湊は最初、反対した。
この辺りには夏希を知っている人間が多い。
八年前に亡くなった少年とまったく同じ顔の高校生が歩いていれば、どうしたって目につく。
結局、人通りが比較的少ない時間を選び、夏希には帽子を被せた。
「俺、これ余計怪しくない?」
キャップのつばを下げながら夏希がぼやく。
「八年前に亡くなった本人が素顔でうろつくよりはマシ」
「本人なのに顔隠さなきゃいけないって、なかなか理不尽だよな」
「この世界ではお前、戸籍上はとっくに故人だからな」
「さらっと重いこと言うなよ」
口ではそう言いながら、夏希はすぐにまた別のものへ興味を移した。
「あれ。ここのパン屋は?」
「なくなった」
「嘘だろ」
かつて小さなベーカリーがあった場所には、今は携帯電話ショップが入っている。
夏希はしばらく信じられないものを見る顔でガラス張りの店舗を眺めてから、大仰に肩を落とした。
「あそこのカレーパン好きだったのに」
「三年前くらいに閉店した」
「止めろよ」
「俺にどうしろっていうんだ」
「八年間あったんだろ。なんかできただろ」
「俺の八年間、パン屋の存続活動に費やされてねえから」
夏希が吹き出す。
その笑い声を聞きながら、湊も口元を緩めた。
町は、全部が変わったわけではなかった。
二人が学校帰りによく寄っていたコンビニは別のチェーン店へ変わり、駄菓子屋の跡地には小さなマンションが建っている。
駅前にあったゲームセンターは閉店し、代わりにコインランドリーが入っていた。
一方で、公園のベンチは同じ場所にあり、角のクリーニング店も昔と変わらず営業している。
八年という時間は、絶妙に中途半端だった。
過去をすべて消し去るほど長くもなく、何一つ変わらず残しておけるほど短くもない。
「あ」
夏希が足を止めた。
公園の入口に立つ、少し傾いた車止めを見つけたらしい。
「これ、まだあんじゃん」
嬉しそうにしゃがみ込み、丸い金属の頭を掌で叩く。
「お前、ここで一回派手に転んだよな」
湊が何気なく言うと、夏希はすぐに振り返った。
「お前が後ろから押したからだろ」
「押してない。勝手に走って勝手につまずいた」
「記憶改竄すんなよ。俺には三日前くらいの出来事なんだからな」
その言葉に、湊は僅かに目を瞬いた。
三日前。
夏希の感覚では、本当にそれくらいなのだ。
湊にとっては八年前の出来事が、夏希にはまだ生々しい現在として残っている。
同じ思い出を持っているのに、そこから続く時間だけが大きく違う。
「何?」
急に黙った湊を、夏希が不思議そうに見上げる。
「いや。何でもない」
「またそれ。最近多くない?」
「気のせいだろ」
適当にかわして先へ進むと、夏希もすぐに隣へ並んだ。
その時までは、まだ楽しそうだった。
*
夏希の足が止まったのは、それから十五分ほど歩いたところだった。
「……ここ?」
問いかける声が、明らかにそれまでとは違っていた。
湊も歩みを止める。
二人の前には、一軒の住宅が建っていた。
白を基調にした新しい外壁。
手入れされた小さな庭には幼児用の自転車が置かれ、軒先では知らない家族の洗濯物が夏風に揺れている。
どこにでもある、穏やかな一軒家だった。
そして八年前まで、そこには朝倉家があった。
「俺ん家……ないじゃん」
夏希は呆然と立っていた。
湊はすぐには答えなかった。
朝倉家が売却されたことは知っていた。
夏希の両親は、息子を亡くしてから数年後、この場所を離れた。
詳しい理由を聞いたことはないし、聞こうとも思わなかった。
毎朝息子が降りてきた階段。
学校から帰れば脱ぎ捨てられていた靴。
何度注意しても片づかなかった部屋。
庭の隅に置かれた自転車。
家そのものが、失った子どもの記憶でできていたのだろうと、想像することしかできなかった。
「今は別の人が住んでる」
ようやく湊が告げると、夏希は家から視線を外さないまま尋ねた。
「母ちゃんたちは?」
「五年くらい前に引っ越した。ここからそんなに遠くない」
「……そっか」
それ以上、言葉は続かなかった。
夏希は門扉の向こうへ目をやる。
「俺の部屋、あっちだった」
二階の一角を指差す。
もちろん、今ある窓も壁も、夏希の知る家のものではない。
「机が窓の前でさ。ベッドがこっち側。クローゼットの奥にエロ本隠してあって」
「最後の情報いらねえよ」
反射的に突っ込むと、夏希も小さく笑った。
「お前、知らなかった?」
「知るわけないだろ」
「じゃあ今度見せるわ」
言ってから夏希の笑みが、そのまま止まった。
今度。
その言葉が、行き場を失ったようだった。
この世界には、もう夏希の部屋はない。
机も、ベッドも、クローゼットも。
両親はそこで暮らしていない。
自分にとって数日前まで確かに存在していた生活が、この世界ではすでに過去になっている。
「……行こうぜ」
やがて夏希が、自分から言った。
その横顔に浮かんでいるものを、湊は見ないふりをした。
「ああ」
二人は歩き出した。
そこから、夏希は店が変わっていても大げさに驚かなくなった。
前を歩く背中が、来た時より少しだけ静かだった。
*
その夜、夕食を済ませたあとも、夏希は珍しくテレビをつけなかった。
ソファの片側へ腰を下ろし、湊から借りたスマートフォンを眺めている。
「昔の写真、もっとない?」
尋ねられ、湊は冷蔵庫から麦茶を取り出す手を止めた。
「どの辺の?」
「俺が……」
一度だけ言葉を選ぶ間があった。
「いなくなった後」
湊は夏希の横顔を見た。
見せていいのか迷う。
しかし拒んだところで、夏希が知りたいと思っている事実は消えない。
「あるけど」
「見たい」
答えは早かった。
湊は自分のスマートフォンを操作し、昔の写真を保存してあるクラウドを開いた。
高校の卒業式。
大学の入学式。
学園祭。
ゼミ旅行。
成人式。
就職活動。
入社式。
何気なく撮った日常の写真まで、八年間の断片が画面の中に残っている。
最初に表示された高校の卒業式の写真を見て、夏希が吹き出した。
「お前、髪長っ」
「普通だろ」
「似合ってねえ」
「返せ」
スマートフォンを奪おうとすると、夏希はすぐ身体を捻って逃げた。さっきまで静かだった空気が少し和らいだことに、湊は内心で安堵する。
夏希は写真を拡大し、次々に同級生を見つけていった。
「あ、翔太いる。こいつ全然変わってねえじゃん」
「今はもう少し老けてる」
「何してんの?」
「去年結婚した」
その一言で、夏希の指が止まった。
「……誰が?」
「翔太」
「翔太が?」
「そう」
数秒間、本気で理解できていない顔をしたあと、夏希は目を丸くした。
「あいつが結婚!?」
「本人に聞かれたら普通に傷つくぞ」
「だって高校入ってからずっと『彼女ほしい』しか言ってなかったじゃん!」
「八年経ってるんだから彼女くらいできるだろ」
夏希は何とも言えない表情で画面へ視線を戻した。
「美咲は?」
「東京で美容師」
「田辺」
「銀行員」
「真琴は?」
「子どもいる」
今度は声さえ出なかった。
ゆっくりと湊を振り返り、冗談ではないことを確かめるように顔を見つめてくる。
「……子ども?」
「二歳だったかな」
「俺と同い年なのに?」
「俺たちは二十四だからな」
「俺、十七なんだけど」
「お前だけな」
夏希は両手で顔を覆った。
「俺だけ時間おかしい……」
その言い方がおかしくて、湊は笑った。
夏希も少し遅れて笑う。
けれどその笑いは長く続かなかった。
大学時代の写真へ進む。
夏希が知らないキャンパス。
知らない友人。
十九歳の湊。
二十歳の湊。
二十一歳の湊。
写真を送るたび、夏希の知っている幼なじみが少しずつ知らない大人へ変わっていく。
「これ誰?」
「大学の友達」
湊が答えると、夏希は男たちが肩を組んでいる写真をしばらく眺め、黙って次へ送った。
「こっちは?」
「ゼミのやつ」
夏希の指がまた動く。
そこで、女性と並んで写る湊の写真が表示された。
「……この人は?」
声音がほんの少し平坦になる。
湊はその変化に気づいたが、からかうのはやめた。
「前に付き合ってた人」
「へえ」
夏希は写真を拡大することもなく、すぐに次へ送った。
あまりにも露骨だったので、今度は湊が僅かに笑ってしまう。
「何」
すぐに睨まれる。
「別に」
「今絶対笑っただろ」
「笑ってない」
「嘘つけ」
夏希は不機嫌そうに画面を滑らせた。
けれど、就職後の写真になる頃には、その不機嫌ささえ消えていた。
入社式のスーツ姿。
研修の同期たち。
初めて担当を持った頃。
会社帰りの飲み会。
知らない顔。
知らない場所。
知らない出来事。
そこにいるのは全部、夏希の知らない湊だった。
最初こそ「スーツ似合ってない」「顔疲れてる」と好き勝手言っていた夏希も、いつの間にかほとんど喋らなくなっている。
湊は隣でその変化を感じていた。
写真を見る横顔が、少しずつ強張っていく。
興味が失われたわけではない。
むしろ反対だった。
見れば見るほど、夏希は理解していく。
自分の知らない時間が、本当に存在していたことを。
「……卒業式のやつ、もう一回見せて」
不意に言われ、湊は写真を戻した。
高校の正門前。
卒業証書を手にした男女が、十数人並んでいる。
翔太も、美咲も、田辺も、真琴もいる。
夏希がよく知っている顔ばかりだった。
そして中央から少し端に、十八歳の湊が立っている。
夏希は画面を拡大した。
じっと見つめる。
「……変なの」
やがて、小さな声が落ちた。
「何が?」
「これ、俺も知ってる気がすんだよ」
夏希の指が、画面の上をゆっくり辿った。
「翔太は絶対泣くだろ。美咲は写真撮りまくるし、田辺は第二ボタン誰にも欲しがられなくて拗ねる」
「だいたい合ってる」
「だろ?」
少しだけ口元が笑う。
しかし、その目は写真から外れなかった。
「俺だったら、多分ここにいる」
湊のすぐ横。
ほんの僅かに空いている場所を、夏希の指先が示した。
「……そうだな」
返事をした瞬間、夏希が黙った。
写真には不自然な空白などない。
夏希がいなくても、皆はきちんと並んでいる。
誰かが足りないようには見えない。
それが何より残酷だった。
夏希が亡くなっても、卒業式は来た。
春が来て高校を卒業し、大学へ進み、働き始める。
友人は結婚し、子どもを持つ。
町から古い建物が消え、知らない建物が建つ。
世界は、誰か一人を失ったことで止まったりはしない。
当たり前のことなのに、それを自分自身の不在として目の前に示された十七歳に、簡単に受け止められるはずもなかった。
「俺さ」
夏希はスマートフォンを膝に置いた。
いつもの姿勢の悪い身体が、今は少し小さく見える。
「死んでるって聞いた時も、正直あんま実感なかった」
湊は何も言わず、続きを待った。
「だって俺、普通にいるじゃん。腹減るし、眠くなるし、お前にも触れるし」
夏希は自分の手を見た。
五本の指を開き、それからゆっくり握る。
「だから、別の俺が死んだみたいな感じでさ。自分のことって思えなかった」
そこまで言ってから、もう一度画面を見る。
自分だけが存在しない卒業写真。
その横顔から、これまで何度も湊を苛立たせたり笑わせたりしてきた快活さが消えていた。
「でも、今日家見て」
声が僅かに掠れる。
「みんなの話聞いて、この写真見たら」
夏希は唇を噛んだ。
泣いてはいない。
ただ、十七歳という年齢そのままの、どう扱えばいいのか分からない不安が顔に出ていた。
「……俺、本当にいなかったんだな」
湊の胸の奥が、静かに痛んだ。
何か言わなければと思った。
お前のことは忘れていない。
皆、お前を覚えている。
そんな言葉ならいくらでも浮かぶ。
けれど、それを今言うのは違う気がした。
夏希がいなかった八年間は、確かに存在する。
それを綺麗な言葉で塗り替えることはできない。
「……そうだな」
結局、湊はそれだけ答えた。
夏希は一度だけ目を伏せた。
しばらく室内に、エアコンの低い稼働音だけが流れる。
やがて夏希が、静かに口を開いた。
「湊は?」
「ん?」
「俺が死んだあと、どうだった?」
来ると思っていた質問なのに、湊は一瞬、返事に詰まった。
「どうって」
「学校とか。家とか」
夏希が顔を上げる。
その目から逃げるように、湊はテーブルのグラスへ手を伸ばした。
「まあ……荒れたよ。ちょっとだけ」
できるだけ軽く言った。
笑って済ませられる程度の出来事だったように。
実際には、ちょっとなどではなかった。
事故のあと、一週間近くまともに学校へ行けなかった。
ようやく登校しても、教室に置かれた夏希の机を見るたびに息が詰まり、教師から話しかけられるだけで苛立った。
昼休みになれば無意識に隣を見た。
帰り道では、途中まで一緒だったはずの相手がいないことに毎日気づかされた。
夜はほとんど眠れず、朝になれば起き上がれない。
夏希の家の前を通ることができなくなった。
事故現場へは、もっと長いあいだ近づけなかった。
友人たちは気を遣ってくれた。
両親も何も言わず見守ってくれた。
それさえ苦しかった。
一年近く、自分だけが先へ進むことに、理由の分からない罪悪感がまとわりついていた。
そんなことを夏希に聞かせて、何になる。
目の前の十七歳は、事故を起こしたわけでも、自分から消えたわけでもない。
まして、この世界の夏希ですらない可能性がある。
八年前の自分の苦しみを、今ここにいる夏希へ背負わせる理由などなかった。
「学校何日か休んで、その後は普通。ちゃんと卒業したし、大学も行った。今見ただろ」
湊は肩を竦めてみせた。
夏希は黙っている。
「だから別に―――」
「ちょっと、ね」
小さく遮られた。
湊が見ると、夏希はじっとこちらを見ていた。
「何だよ」
「お前さ」
夏希は膝の上で手を組み直した。
ふざけている時とは違う、相手の奥まで見ようとする目だった。
「昔から『ちょっと』って言う時、大体ちょっとじゃないじゃん」
湊の指が、グラスの縁で止まる。
「……何だそれ」
「小六で足捻った時、『ちょっと痛い』って言ってたけど、次の日めっちゃ腫れてただろ」
「そんな昔の話覚えてんのかよ」
「中三でおばさんと大喧嘩した時も、『ちょっと揉めた』って言って三日口きいてなかった」
湊は顔をしかめた。
夏希はさらに思い出したらしく、わずかに眉を上げる。
「あと高一の中間で英語四十二点だった時」
「それは関係ねえだろ」
「『ちょっとミスった』って言った」
「うるさい」
思わず言い返すと、夏希の口元にほんの少し笑みが戻った。
けれど、それも一瞬だった。
「だから分かる」
静かに告げる。
「お前の“ちょっと”は、たぶん全然ちょっとじゃない」
八年経った。
湊は十七歳から二十四歳になった。
体格も変わった。
声も少し低くなった。
高校生だった自分が知るはずのない仕事をして、一人暮らしをし、知らない人と付き合って、夏希の知らない人生を積み重ねてきた。
それでも、この男にはまだ見抜かれる。
昔と同じように。
「……本当は、どれくらい?」
問いかける声には、責める響きはなかった。
だからこそ、答えづらかった。
湊はしばらく黙ったあと、息を吐く。
「言わなくていい」
先にそう言ったのは夏希だった。
「聞いといて何だけど」
視線を膝へ落とし、指先を弄ぶ。
「たぶん聞いても、俺、どうしていいか分かんない」
その姿は、急に年相応に見えた。
怖いのだろう。
自分の死によって大切な人がどれほど傷ついたのかを知ることが。
「でもさ」
夏希はゆっくり顔を上げた。
「ごめんって言うのも、違うよな」
「ああ」
湊はすぐに答えた。
「違う」
「俺、死のうと思って死んだわけじゃないし」
「当たり前だろ」
「じゃあ」
夏希は僅かに言い淀んだ。
「お前が辛かったのも、俺のせいじゃない?」
その言葉だけは、考える必要がなかった。
「違う」
即座に否定する。
夏希が目を見開くほど強い声が出た。
「絶対違う。そこだけは勘違いすんな」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
八年前には、自分自身すら分かっていなかったことだった。
夏希がいなくなったことが苦しかった。
でも、夏希が自分を苦しませたわけではない。
それはまったく別のことだ。
「……そっか」
夏希の肩から、わずかに力が抜けた。
「じゃあ、よかった」
何がよかったのか、湊には分からなかった。
夏希自身も説明できないのかもしれない。
それでも少しだけ安心したような顔をしたので、湊はそれ以上何も言わなかった。
代わりに手を伸ばしかける。
慰めるなら肩を叩くか、頭でも撫でるか。
けれど高校時代の夏希なら、子ども扱いするなと確実に怒る。
迷っているうちに、宙に浮いた手を本人に見つけられた。
「何、その手」
「何でもない」
「今なんかしようとしただろ」
「してない」
「絶対した」
夏希が疑わしそうに目を細める。
「頭撫でようとした?」
「してないって」
「うわ。七個年上だからって兄貴面?」
「してねえっつってんだろ!」
少しずつ、いつもの調子に戻っていく。
それがありがたかった。
夏希はもう一度スマートフォンを手に取った。
しばらく操作したあと、先ほどの卒業写真を表示する。
「なあ、湊」
「何」
夏希は画面を見つめたまま、先ほど指差した場所へもう一度触れた。
「俺が生きてたら、やっぱここにいたと思う?」
十八歳の湊の隣。
たった一人分ほどの、何でもない隙間。
湊はそこを見つめた。
答えは最初から決まっていた。
「いたんじゃね」
「なんで」
「お前、昔から写真撮る時ほぼ俺の隣だっただろ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
湊が呆れたように言うと、夏希は写真を眺めながら少し笑った。
「じゃあ、ここ俺の場所な」
子どもじみた言い方だった。
けれど湊は否定しなかった。
「ああ」
短く答える。
写真そのものは何も変わらない。
失われた八年間も戻らない。
卒業式に夏希が現れるわけでもなければ、十八歳だった湊の隣へ後から誰かを書き足すこともできない。
それでも今だけは、その空白を夏希の場所だと思ってもいい気がした。
夏希はしばらく写真を見つめたあと、ふっと身体の力を抜き、ソファの背へ寄りかかった。
肩が湊の腕へ触れる。
普段ならどちらかが「近い」と文句を言う程度の距離だった。
けれど、その夜はどちらも動かなかった。
八年間、湊は夏希のいない時間を生きた。
そして夏希は今日初めて、自分のいなかった八年間を知った。
同じ喪失を見ているようで、二人が立っている場所はまるで違う。
だから湊には、夏希の不安を全部理解することはできない。
夏希もまた、湊が過ごした八年間をすべて理解することはできないだろう。
それでも今は同じソファに座っている。
肩が触れるくらいの距離にいる。
それだけで十分なのかもしれなかった。
「……湊」
「何」
「明日、昼何食う?」
突然すぎる質問に、湊は思わず横を見る。
夏希はもうスマートフォンを伏せ、何事もなかったような顔をしていた。
「今その話する?」
「腹減ってきた」
「さっき夕飯食っただろ」
「高校生なめんな」
「飼育費かかりすぎだろ、お前」
「飼ってんじゃん!」
夏希が勢いよく身体を起こした。
その反動で肩が離れる。
湊は笑った。
「自覚あったんだな」
「ない! お前が今言った!」
「じゃあ明日から餌減らすか」
「虐待!」
「居候のくせにうるせえ」
さっきまでの重い空気などなかったように、またくだらない言い争いが始まる。
それでいい、と湊は思った。
八年前のことを忘れる必要はない。
無理に乗り越える必要もない。
ただ、こんなふうに笑えるところまで戻ってくればいい。
夏希がここにいられるのが、あとどれくらいなのかは分からない。
明日突然消えるかもしれない。
ずっと帰れないのかもしれない。
それでも今夜は湊の隣にいる。
その事実だけを、二人ともまだ手放さずにいた。




