EP 15
穏やかな日々と、忍び寄る闇の足音
月日が流れるのは早いもので、太郎たちがエルフの里に定住してから3年の時が過ぎた。
かつては静寂と木々のざわめきだけが支配していた里も、今では子供たちの元気な笑い声が響く、暖かで賑やかな場所になっていた。
「とーと! かーか! ひな、お花つんできたの!」
パタパタと小さな足音をさせて駆け寄ってきたのは、3歳になった娘の陽奈だ。
サリー譲りのふわりとした栗色の髪を揺らし、小さな手に一杯の野花を抱えて、満面の笑みで走ってくる。
「おぉ、陽奈! 綺麗なお花だねぇ。とーとにくれるのか?」
「うん! とーと、だいすき!」
太郎は目尻を限界までデレデレに下げて、愛娘を高く抱き上げた。
「つきまるも……これ、とった」
その後ろから、トコトコと静かに歩いてきたのは息子の月丸だ。
ライザに似た艶やかな黒髪と、3歳とは思えない年齢離れした落ち着きを持つ彼は、自分の顔ほどもある大きなカブトムシを、無言でスッと差し出した。
「おっ、月丸はカッコいいカブトムシだな! 強いぞ~」
「……ん。つよい。ママとひな、守る」
「あらあら、頼もしい騎士様ですこと」
ライザが月丸を抱き上げ、愛おしそうに頬ずりをする。
サリーも陽奈の頭を優しく撫で、受け取った花を髪飾りのように耳に差した。
眼下の水田には黄金色の稲穂が実り、夕げの時間が近づけば、各家から味噌汁と炊き立てのご飯の香りが漂ってくる。
それは、太郎が異世界に来てからずっと夢見ていた「世界一幸せなスローライフ」そのものだった。
――しかし、光が強ければ、影もまた濃くなる。
そんな平和なある日の午後。
太郎とヒブネは、ゼフィル長老の家へと急遽呼び出された。
普段は孫(陽奈と月丸)の顔を見るだけでデレデレに崩れる好々爺である長老が、今日は眉間に深い皺を刻み、重苦しい空気を纏っていた。
「長老、どうされたのですか? 何か深刻な顔をされていますが」
太郎が尋ねると、長老は重々しく口を開いた。
「……実はな。武者修行や、物見のために里を出て、人間の街で暮らしている同胞たちが、この数ヶ月で何人か、立て続けに消息を絶っているのだ」
「失踪、ですか?」
太郎の問いに、長老は苦々しく頷いた。
「そうだ。最初はただの連絡の遅れかと思っていた。だが、私の方で密かに放った使い魔の報告によれば……どうやら、ただの迷子や事故ではない。彼らは、人間社会の裏に潜む『闇組織』に捕らえられ、奴隷として売り飛ばされているようなのだ」
「――奴隷ですって!?」
その言葉を聞いた瞬間、ヒブネの纏う空気が一変した。
部屋の温度が急激に数度下がったかのような、鋭く冷たい殺気。普段は穏やかで礼儀正しいエルフの表情が、絶対的な怒りで凍りついている。
「ふざけるな!! このサバラー大陸で、我ら気高き森の民を奴隷にするなどと……万死に値する!!」
ヒブネが拳を強く握りしめ、ドンッと机を叩いた。
エルフはその美貌と魔力の高さゆえに、裏社会で高値で取引されることがある。だが、それは決して許されざる蛮行だ。
「長老! 僕に! 僕にその件を調べさせて下さい!」
太郎が身を乗り出した。
「この里には、そしてヒブネには、大きな恩がある。あなた達が温かく受け入れてくれたおかげで、僕たちは家族を持てた。大切な仲間が苦しんでいるのを、黙って見ているわけにはいきません!」
「太郎様! 私も行きます! 同胞を弄ぶクズどもに、必ずや報いを受けさせなければ!」
ヒブネも白銀の槍を握りしめ、太郎の隣に並び立つ。
長老は、二人の覚悟に満ちた瞳を見ると、深く頷いた。
「……勇者様、ヒブネ。すまない。そして、頼んだぞ。里の若者たちが行けば目立ちすぎる。そなたらならば、きっと……」
「任せてください。必ず全員、無事に連れ戻します」
長老宅を出た二人は、しばらく黙って里の中を歩いていた。
どこかから、陽奈と月丸の楽しそうな笑い声と、妻たちの優しい声が聞こえてくる。
「ヒブネ」
太郎が足を止めた。
「サリーさんやライザさんには、どう話しますか?」
ヒブネが尋ねる。
最強の二人ならば、この件も一瞬で解決できるかもしれない。
だが、太郎は静かに首を振った。
「やめよう。サリーとライザには、内緒だ」
「えっ? ですが……」
「二人は今、母親として子供たちとの時間を何よりも大切にしている。それに……『人攫い』だの『奴隷』だの、こんな胸糞の悪い話、彼女たちには聞かせたくないんだ」
太郎は拳を握りしめた。
あの平和な日常に、妻たちの笑顔に、薄汚い悪意を持ち込ませたくない。
それに、もし二人が同胞(家族同然の存在)が攫われた事実を知れば、怒りのあまり大陸の一つや二つ、物理的に消し飛ばしかねない。
「心配をかけさせたくないし、子供たちの側には誰かがいてあげないと。……今回は、僕たち二人だけで行こう」
それは、愛する家族の平和な世界を守るための、太郎なりの「夫」としての決意だった。
「……分かりました。太郎様がそう仰るなら」
ヒブネも、その強い想いを静かに受け入れた。
「『珍しい食材の情報を聞いたから、数日ほどヒブネと遠出してくる』……そう書き置きを残そう」
「また事後承諾ですか。……あとで奥様方の特大の雷が落ちても知りませんよ?」
「その時はその時さ。甘んじて受けるよ。今は、一刻も早く仲間を助け出そう」
その日の深夜。
太郎とヒブネは、家族が寝静まったツリーハウスをそっと抜け出した。
すやすやと眠る子供たちと妻たちの寝顔に、心の中で「行ってきます」と告げて。
二人は闇に溶け込むように、静かにエルフの里を後にした。
平和なスローライフは一時中断。
ここからは、闇に潜む悪を討つ、影の英雄としての苛烈な戦いが始まる。




