EP 35
深夜の背徳TKGと、港町の刺身騒動
アルクス城が深い静寂に包まれる丑三つ時。
領主の豪華な寝室で、僕は一人、ふかふかのベッドの上で悶え苦しんでいた。
(だ、駄目だ……。我慢できない……!)
隣では、フリフリのネグリジェを着たサリーと、シルクのパジャマを着たライザが、幸せそうに安らかな寝息を立てている。
しかし、僕の脳裏にはある一つの映像がこびりついて離れなかった。
湯気の立つ炊きたての白米。その上に落とされた、黄金色に輝く卵黄。そして、醤油が描く黒い曲線。
「卵かけご飯(TKG)が……食べたいッ!」
日本人のソウルフードにして、手軽かつ至高のグルメ。
以前、すき焼きを作った時に「生卵」を具材に絡めることには成功したが、白米に生卵を直接ぶっかけて食べるという行為は、この世界の常識からすれば「野蛮」あるいは「ゲテモノ食い」と思われかねない。
伯爵ともあろう者が、深夜にズルズルと生卵をすするのは、体面的にどうなのか。マルスに見つかったら三時間は説教される。
「しかし! 食べたい! どうしてもだ!」
食欲という魔物に勝てる人間はいない。
僕は忍び足でベッドを抜け出し、音を立てないように城の厨房へと侵入した。
「よし、まずはご飯だ」
ウィンドウを開き、『一人用お急ぎ土鍋』と『最高級コシヒカリ(無洗米)』、そして**『天然水』**を取り出す。
魔道具のコンロに火を点け、土鍋でじっくりと米を炊き上げる。パチパチという音がし始め、香ばしいお焦げの匂いが漂ってきたところで火を止め、蒸らす。
「オープン!」
パカッ。
湯気と共に、ツヤツヤと輝く「銀シャリ」が顔を出した。
僕はそれを茶碗によそうと、中心に箸で窪みを作る。そこへ、激安スーパーカテゴリで買った**『極上赤玉卵(生食保証)』**をコンコン、パカッ。
「おぉ……美しい……」
白米の山頂に鎮座する、オレンジ色に近い濃厚な黄身。
そこへ**『卵かけご飯専用醤油(昆布だし入り)』**をタラリと垂らす。
「頂きます!」
僕は箸で黄身を崩し、白身とご飯を豪快にかき混ぜ、口へと流し込んだ。
「むほぉぉ~っ!! うめええええ!!」
濃厚な卵のコク、出汁醤油の強烈な旨味、そして土鍋で炊いたお米の甘味。喉越しはもはや飲み物の如く滑らかだ。
「やっぱり日本人なら、卵かけご飯だよな! 最高だ!」
僕が一人、厨房の隅で至福の時を過ごしていると――。
ギィィ……。
厨房の扉が開き、ランタンを持った二人の人影が現れた。
「太郎様? 何をしてるんですか?」
「厨房でコソコソと……怪しいですわ」
サリーとライザだ。夫がベッドにいないことに気づいて探しに来たのだ。
「い、いや……これは……その……お夜食をね」
僕は茶碗を背後に隠そうとしたが、既に遅かった。
「あぁ~! 何か一人だけ美味しいもの食べてる! ズルい!」
サリーが鼻をひくつかせて近づいてくる。
「そ、それって……生卵ですか!? ご飯に直接!?」
ライザが茶碗の中身を見て、少し顔を引きつらせた。
すき焼きの時は肉の熱があったが、今回は見た目が完全に「ドロドロのご飯」だ。この世界の住人には、とても食べ物には見えないだろう。
「お、美味しいんだって! 見た目はアレだけど、味は絶対の保証をするよ。君達も一口食べてみなよ」
僕はウィンドウから新しい茶碗を二つ出し、手早く卵かけご飯を作って差し出した。
「うぅ……太郎様がそこまで仰るならぁ……」
「貴方が毒物を勧めるはずがありませんしね……」
二人は恐る恐る茶碗を受け取り、目をギュッとつぶって、トロリとした卵ご飯を口に運んだ。
「ん……?」
二人の動きがピタリと止まった。
そして、瞳がカッと見開かれた。
「お、美味しい! 甘くて、トロトロしてて……!」
サリーがバクバクと食べ始める。
「本当に美味しいわ……。お米の熱さで卵が絶妙な食感になっています。それにこの黒い調味料(専用醤油)が、卵の生臭さを完全に消し去っています!」
ライザも騎士の作法を忘れて箸を動かす。
「だろ~?」
「夜中に食べるお米、しかも生卵……。なんて背徳的で癖になる味なのかしら」
「太郎様、おかわりをお願いします!」
結局、土鍋のご飯が空になるまで、僕たちは無言で卵かけご飯を啜り続けた。
――しかし、この「生食」の成功が、僕の中の日本人の業をさらに深く刺激してしまった。
数日後。
(刺身が……食べたいッ!!)
新鮮な魚の切り身に、醤油とわさびをちょんとつけて口に運ぶ。そこへキリッと冷えた日本酒を流し込む。
TKGで生食の扉を開けてしまった僕は、もはや限界だった。
しかし、アルクスは内陸だ。新鮮な海の魚は手に入らない。
「マルス。港町ポートセーリの視察に行きたいんだが」
僕は執務室で、キリッとした顔で家令に告げた。
「はぁ? ポートセーリですか? あそこはアルクス領から少し離れていますが……」
「あぁ。今後のアルクスの食糧事情を考えると、農業だけでなく漁業との連携も重要だ。新鮮な魚介類の流通ルートを確保したいんだよ」
もっともらしい理由(嘘)を並べ立てる僕に、マルスは感服したように頷いた。
「……流石は太郎様。常に領地の未来を考えておられるのですね。畏まりました、直ちに手配致します」
(やったぜぇぇぇ!!)
こうして僕たちは、海風薫る港町ポートセーリに到着した。
しかし、ここで誤算が生じた。
「ようこそ! 救国の英雄、アルクス伯爵様!」
「歓迎致しますぞー!」
町を挙げての、超盛大な歓迎会が開かれてしまったのだ。
「さぁさぁ! 特産の魚の塩焼きですぞ!」
「こちらは魚介の煮込みスープです!」
テーブルには豪華な料理が並ぶが……僕が求めているのは「加熱された魚」ではない。
(ありがたいけど……こんな事をしに来たんじゃないッ!)
宴もたけなわとなり、人々が酒に酔い始めた頃。
「ちょっと夜風に当たってくるよ」
僕はこっそりと会場を抜け出した。
人気のいない夜の防波堤。
「ここなら誰にも邪魔されない!」
僕はスキルウィンドウを開き、『初心者用・海釣り竿セット』と『強力集魚灯(LED)』を取り出した。さらに『冷酒(紙パック)』を氷水が入ったバケツで冷やしておく。
「来い! 来い! 俺の刺身!」
怨念にも似た気迫で糸を垂らすと、すぐに竿先がグググッとしなった。
釣り上げたのは、銀色に輝く背中の青い魚(アジに似ている)。
「よっしゃああ! 脂が乗ってるぞ!」
僕はその場で『刺身包丁』と『プラスチックまな板』を取り出し、手際よく魚を三枚におろした。
皿の上に並べられた美しい刺身。
小皿に醤油を垂らし、『チューブわさび』を添える。
震える手で刺身を箸でつまみ、たっぷりと醤油をつけて口へ放り込む。
「んんっ……!!」
プリプリとした食感。溢れ出す魚の脂の甘味。それを醤油とわさびが引き締める。
すかさず、キンキンに冷えた冷酒をキュッ。
「くぅぅ……最高だろ! こりゃあ堪らんなぁ!」
僕が独り言ちながら、二切れ目に手を伸ばした、その時だ。
「……太郎様? 何をしているのですか?」
背後から、氷のような冷たい声が聞こえた。
振り返ると、仁王立ちするサリーとライザの姿があった。
「あぁ~! また一人で何か食べてる!」
「……ん? それは……焼いていない、生の魚ではありませんか!?」
ライザが皿の上を見て絶句した。
「もう食べてたわよ! 太郎様、お腹壊しちゃうわよ!?」
二人の顔は青ざめている。TKGは受け入れたが、生魚はさすがにハードルが高すぎたようだ。
だが、僕は引かなかった。
「騙されたと思って、一口だけでいいから! 日本ではご馳走なんだよ!」
「えええ……? 生魚がご馳走……?」
二人は渋々、刺身を箸でつまみ、口に入れた。
「んぐっ……」
……ん?
サリーの目がパチクリと見開かれた。
「あらやだ……美味しい!」
「えっ? 本当に?」
「身が甘くて、全然生臭くないわ! お醤油と、このツーンとする薬味が合うの!」
「嘘でしょう……?」
ライザも半信半疑で一切れ口に入れた。
「…………!」
ライザは驚愕した。
「美味しいわ……。火を通した魚より、魚本来の旨味がダイレクトに伝わってきます。それに、この冷たいお酒との相性が……恐ろしいほどですわ」
「だろ~?」
僕はニカッと笑った。
「さぁ、どんどん釣るよ! 今夜は防波堤で刺身パーティーだ!」
「私はもっと大きいのを釣りますわ!」
「太郎様、お酒のおかわり!」
結局、港の片隅で、伯爵夫妻による深夜の釣り&生食宴会が夜明けまで続いた。
翌日、ポートセーリの魚市場では「生で魚を食うのが最新の貴族のトレンドらしい」という謎の噂が広まり、アルクスに「生食文化」が芽生える第一歩となるのだった。




