第4話 輔弼近衛は第二王女と邂逅する(アレン視点)
宰相に呼ばれたアレンは、朝の回廊で第二王女アスリンと出会う。礼を取るだけのはずが、姫は彼の名を自然に呼び、アレンの調子をあっさり狂わせてしまう。
朝の城は、まだ一日のざわめきを本格的には始めていなかった。廊下に差し込む光は淡く白く、窓辺の石床には春の朝らしい冷えがうっすらと残っている。侍従や女官の往来はあるが、昼のような忙しなさはまだない。城全体が目を覚ましてはいるものの、まだ声を張り上げる前の静けさを保っていた。
その廊下を、俺はひとり歩いていた。
つい先ほど、宰相閣下から呼び出しが入った。執務室へ来い、とのことだった。
朝のうちから直接呼ばれる用件に、軽い話だったためしはない。あの老人は、必要のない芝居を打たない。わざわざ人を急がせるのは、それだけ急がせる理由がある時だけだ。しかも執務室へ直接。伝言や定例報告で済む類ではない。
(……朝っぱらから碌でもない)
胸の内でそうボヤきながらも、足は止まらなかった。止めたところで用件が消えるわけではないし、遅れれば遅れたで別の意味で面倒になるだけだ。
近ごろ城の空気がいくらか張っていることには、俺も気づいていた。文官たちの声が少し低い。侍従たちが、無駄口の最中にふと口を閉ざすことがある。何かが水面下で動いているのだろうとは思う。だが、それが何かまでは分からない。
(……どうせ行けば分かる。分からんうちから考えても無駄だ)
窓際を通ると、庭に面した木々が朝の光を受けてやわらかく揺れていた。春の風は冷たすぎず、だからといって温かすぎもせず、ちょうど人の気を緩ませるくらいの温度をしていた。
この角を曲がれば、宰相の執務室へ続く回廊に出る。そこへ差しかかった時、向こうから足音がした。
軽いが、急ぎすぎず迷いのない足音だった。俺は角を抜けきる前に歩みを止めた。
現れたのは、第二王女アスリン殿下だった。
侍女を伴っている。侍女は王女の半歩うしろを静かに歩き、目だけは周囲をよく見ていた。王女は小さな籠を抱えていた。白布のかけられた籠と薄青の衣装が、朝の光の中でひどく柔らかく見えた。
俺は即座に廊下の端へ寄った。王族の通る道を完全に空け、踵を揃え、背筋を伸ばし、直立不動で礼を取る。こういう時の動きだけは、考えるより先に身体が決まる。
(……こういう作法だけは勝手に身体が動く)
頭を垂れたまま気配を待っていると、王女の足音がふと緩んだ。
「あ」
小さな声だった。
「輔弼近衛様」
思いがけず呼びかけられ、俺はわずかに目を上げた。
その声には聞き覚えがあった。以前、王族へ近衛たちが順に紹介された折、この王女の前にも立ったことがある。ほんの一度、儀礼の場で顔を見せただけだ。だから覚えられているとは思っていなかった。
「以前、お兄様方とご一緒の時に、お見かけしました」
やはりその時のことらしい。声音には、思い出したこと自体をそのまま口にしたような明るさがあった。
俺は礼の姿勢を崩しきらぬまま答えた。
「恐れ入ります。アレン・アルフォードにございます、殿下」
ほんの一拍の間があった。殿下はその名を胸の内で転がすように、少しだけ目を丸くした。
「……まあ。では、アレン様と呼ばせていただきますね」
俺は返事を忘れた。
本当に、見事に何も言えなかった。口を開くでもなく、眉を動かすでもなく、ただそのまま一瞬、空いたようになった。自分でも分かるくらい、思考が止まった。
(……は?)
脳裏に浮かんだのは、それだけだった。
普通はせいぜい「アルフォード殿」だろう、呼び捨てでもおかしくはない。近衛に対して、いきなり名を呼ぶ王族など、少なくとも俺の知る範囲にはいない。
しかもその言い方に、距離を詰めようとする打算がまるでない。ただ、名を教わったから名で呼ぶ。それが自然だと思ったからそうする。そんな調子だった。
殿下は小首をかしげた。
「……もし、お嫌でなければ」
その言い方がまた、追い打ちだった。拒まれるかもしれないと、今になってようやく思いついた子どものような顔をしている。
俺はまだ半歩遅れていた。嫌なわけがあるか、と言うのもおかしい。どうぞご自由に、と返すのも違う。王女に対して呼び方の可否を論じる立場ではないのに、本人は本気でこちらの都合を確認しているつもりらしい。
(……勘弁してくれ。そういう種類の相手は聞いてない)
「……御心のままに」
ようやくそれだけを答えると、アスリン殿下はほっとしたように笑った。
「はい。ありがとうございます、アレン様」
駄目だった。
二度目で完全に駄目だった。さっきは不意打ちで、今度は確認のうえでそう呼ばれた。聞き違いではない。殿下は本当にそう呼ぶつもりらしい。
(……様って何だ、様って)
妙な具合に肩の力が抜けた。いや、抜けたというより、どこに力を置けばいいのか分からなくなった。相手があまりにも無防備にこちらの間合いへ入ってくるせいで、構える方が馬鹿らしくなる。だが構えを解けば、こちらの調子が狂う。ひどくやりづらい。
侍女は何も言わなかった。ただ、一瞬だけ、ほんのわずかに申し訳なさそうな目をした気がした。たぶん気のせいではない。侍女の方は、この王女のこういうところに慣れているのだろう。
「今日はよく晴れていますね」
アスリン殿下は何事もなかったように言った。
そのたわいなさが、かえって妙だった。殿下はたぶん、本当に晴れているからその話をしているだけなのだ。こちらがどこへ向かう途中で、どんな気分で歩いているかなど考えもせず、ただ朝の空を見て、きれいですねと口にする。
「はい。庭もよく映えております」
俺はそう答えるのがやっとだった。
「そうでしょうね。さっき窓から花壇が見えたのですけれど、とてもきれいでした」
そう言って、殿下は手の籠に目を落とした。その仕草もまた、いかにも何かを大事にしている人間のそれだった。噂としては聞いていた。庭師に花の名を尋ねただの、見習い侍女の髪飾りに気づいただの、そういう小さな逸話は近衛の詰所にも流れてくる。だが、目の前で見ると、噂より厄介だった。
厄介というのは、性質が悪いという意味ではない。悪意も打算もなく、まっすぐに他人へ言葉を向けられる手合いは、慣れていない者にはひどく扱いづらい、という意味でだ。
「アレン様は、お仕事ですか」
またその呼び方だった。俺は危うく間を空けかけて、どうにか返した。
「はい。宰相閣下のもとへ」
「まあ。では、お引き留めしてはいけませんね」
言い方には何の含みもなかった。ただ、忙しいのなら邪魔してはいけない、と素直に思っただけの口ぶりだった。その素直さが、かえって耳に残る。
「失礼いたします」
俺は礼の姿勢を保ったまま言った。王族が前を通りすぎるまでは動かない。それが近衛の作法である。殿下はふわりと笑った。
「はい。今日もよい日になりますように、アレン様」
それだけ言って、王女は侍女を伴い、軽い足音のまま通り過ぎていった。すれ違いざまに、かすかに花の匂いがした。香油というほど強くはない。庭を歩いたあとの衣に移った朝の匂いのような、ごく薄い香りだった。
足音が遠ざかっていく。
石造りの廊下では、軽い足音ほどよく響く。小さく、規則正しく、すぐに消えそうでいて案外長く耳に残る。俺はその音が十分に離れるまで動かなかった。やがて完全に遠ざかったのを確かめて、ようやく頭を上げる。
向こうの角を曲がれば、もう姿は見えない。だが、足音の余韻よりも、呼び名の方が残っていた。
『アレン様』
(……何なんだ、本当に)
第二王女アスリン殿下。明るい姫君。花を好む姫君。侍女にも庭師にも分け隔てのない姫君。近衛の詰所にまで届く話といえば、たいていはそんな穏やかな逸話ばかりだった。
今のすれ違いも、何事もない朝の廊下で、何事もない話を二言三言交わした、それだけのことにすぎない。
ただそれだけのことなのに、なぜかその明るさが耳に残った。
いや、明るさというより、無垢さだったのかもしれない。人が人に向ける言葉には、たいてい何かしらの加減がある。相手を測り、場を測り、自分の立場を測る。その上で、出す言葉を選ぶ。それが城という場所だ。だが、今しがたのアスリン殿下の言葉には、その測りがほとんど見えなかった。
測らずに差し出された言葉。ためらいなく縮められた距離。何の疑いもなく口にされた「よい日になりますように」。
それが不用意なのか、強いのか、俺にはまだうまく分からなかった。ただ、こちらがいつもの調子で受け流せなかったことだけは確かだった。
(……朝から、妙に面倒なものに当たった)
そう思った直後、自分で少しだけ眉をひそめる。面倒なのは、アスリン殿下ではない。あの無垢さに、こちらが勝手に面食らっただけだ。
なのに、これから宰相閣下の執務室へ向かうと思うと、その何気なさだけが妙に胸に引っかかった。今のアスリン殿下は、あまりに穏やかだった。あまりに何も知らぬ顔をしていた。だからこそ、かえって不穏だった。これから自分が向かう先にあるものと、あの明るさとが、ひどく噛み合っていない気がしたからだ。
しかも、よりにもよって自分は、さっき一瞬とはいえ、あの王女殿下の調子に引きずられた。宰相閣下の執務室へ向かう足で、王女殿下に名を呼ばれてぽかんとしていた。考えてみれば、ひどく間の抜けた話である。
(……やめろ。引きずるな)
胸の内でそう切り捨てても、耳にはまだ残っている。
『アレン様。今日もよい日になりますように』
その柔らかい響きが、この先に待っているものと、まるで釣り合わない。釣り合わないからこそ、かえって嫌な感じがした。天秤の片側にあの王女の無垢な声を置き、もう片側に、これから宰相が口にするであろう何かを置いた時、どちらも同じ朝の城の中にあるとは思えなかった。
(……ああ、嫌だな)
理由の定まらない不吉さというのは、たいてい碌でもない形で当たる。経験上、それだけは知っている。
(……どうせ、答えはあの扉の向こうだ)
そう胸の内で言い聞かせ、俺は足を動かした。角を曲がり、宰相の執務室へ続く回廊へ出る。そこだけ空気が少し違っていた。先ほどまでの春の匂いは薄れ、石と紙と蝋の匂いが前に出る。奥に控える侍従の背筋は妙に硬く、扉の前の静けさだけが不自然に整っている。
侍従は俺の姿を認めると、無駄のない動きで一礼した。その顔にも、いつもの朝にはない固さがあった。やはり軽い呼び出しではないのだろう、と改めて思う。
俺はその扉の前で足を止めた。
ついさっきまで、この廊下には春の朝の匂いと、王女の軽い声があった。アレン様、と何のてらいもなく呼ぶ者がいた。今日もよい日になりますように、と何の裏もなく言う者がいた。だが、その数歩先には、そういう言葉では済まない何かが待っている。
その落差だけが、妙にはっきりと胸に落ちた。
アスリン殿下の声は明るすぎた。だからこそ、その先にあるものの暗さを、まだ見てもいないのに際立たせた。あの無垢な呼びかけは、朝の一場面として終わったのではなく、この扉の前まで薄く尾を引いてきてしまっている。
(……よい日、ね)
皮肉のつもりで胸の内に転がしたその言葉が、なぜか少しだけ重く響いた。
扉の向こうで告げられることが、あの王女殿下にも無関係ではないのではないか。そんな考えが、根拠もないまま一瞬だけ胸をかすめた。
俺はそれを振り払い、息を整えた。
誰にとっての、よい日なのか。その答えを、俺はまだ知らなかった。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回、アレンにさらなる追い打ちがかかる。
今朝出会ったばかりの、あの距離感の近すぎる姫。その側に仕えよと命じられた時、近衛アレンはどうするのか。剣では斬れない任務に対し、彼は真正面から拒否を試みる。
次回の投稿は来週火曜日21時頃の予定です。
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