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第3話 幸せな朝(侍女ミーシャ視点)

侍女ミーシャは、アスリンの幸せな朝を半歩後ろから見守る。無自覚な優しさは周囲を和らげる一方で、王城では守るべき危うさにもなる。小さな不穏は、まず侍女の耳に届く。

朝、アスリン様がお目覚めになる前に、私はたいてい部屋の様子をひととおり見て回る。水差しの冷え具合、窓の開け具合、花の向き、今日お召しになる衣の皺、卓上に置く銀盆の曇り。どれも小さなことだ。だが、小さなことほど朝の機嫌を左右する。


アスリン様は、そうした小さな綻びに腹を立てる方ではない。むしろ、少しくらいなら「今日はそういう朝なのですね」と笑っておしまいになるだろう。だからこそ、せめて私どもが先に整えておかねばならぬ。あの方の一日は、なるべくなめらかに、引っかかりなく始まるべきだ。


その朝、寝台脇の花は昨日より少しだけ開いていた。たぶんアスリン様は喜ばれるだろうと思った。案の定、お目覚めになるとすぐに小卓へ寄り、「咲きかけています」と嬉しそうにおっしゃった。その声を聞いただけで、部屋の空気の張りがひとつゆるむ。こういう方なのだ。ご本人は何もなさらぬうちから、周りの朝を少しよいものにしてしまう。


私は衣装棚の前で返事をしながら、同時に今日の段取りを頭の中で並べていた。朝食の時間。その後のご挨拶回り。お届けする小さな包み。誰に渡し、誰には今日はお目通りが難しいか。王城では、やさしさだけでは人に物は渡せない。相手の持ち場、機嫌、周囲の目、受け取らせて差し支えない立場かどうか、そういうことまで考えなければならない。


もっとも、アスリン様はそういうことをご存じなくてよいとも思っている。いや、知っておられるに越したことはないが、少なくとも今のように朝の花を見て素直に喜べるあいだは、私のような者が先に考えていればよい。


髪を梳かしている最中、アスリン様がふいに言われた。


「今日は誰かに何か差し上げたくなる日だなと思って」


私は思わず、鏡の向こうのそのお顔を見た。やはりそうおっしゃる。花がきれいで、空が晴れているだけで、人に何か分けたくなる。そういう方なのだ。


「それはまた、アスリン様らしいことでございます」


そう申し上げると、アスリン様は嬉しそうに笑われた。あの笑みを見るたびに思う。ご自身では気づかぬまま、人へ何かを渡してしまう方だと。物だけではない。場の空気や、人の肩から抜ける力や、そういう目に見えぬものまで、いつのまにか周りへ渡してしまう。


そのあと、膝の上のハンカチをきっちり揃えておられるのを見て、私は声を掛けた。


「その結び方は、また贈りものの時のですね」


「分かりますか」

「分かりますとも。アスリン様は、人に差し上げる時だけ、そんなふうに端をきっちり揃えられます」


本当に、ご本人は知らないのだ。知らないうちにやさしいことをしてしまう。知らないうちに、人の心へ入ってしまう。そこが愛らしい。


「知らないうちにしていました」

「ええ。知らないうちにおやさしいのが、いちばん困るのでございます」

「困るのですか」

「皆が断れなくなりますから」


そう言うと、アスリン様は素直に笑われた。その笑い声を聞くと、不思議と部屋の空気がほどける。張っていた糸が、一本だけゆるむように。ほかの侍女たちまで、つられて口元を緩める。こういう方なのだ。ご自分では気づかぬまま、周りの気配をやわらげてしまう。


私はその様子を見ながら、ふと、こういうやわらかさは目立つのだと思った。


明るいものは、人の目を引く。やわらかなものは、人の手に触れやすい。そういう当たり前のことを、この城にいると嫌でも覚える。善意だけで守りきれる方ではない――そんな言葉にするほどはっきりした形ではなかったが、胸の底に薄いものが一枚、静かに沈んだ。


支度が進むあいだ、私は何度か廊下の気配に耳を澄ませた。特別うるさいわけではない。けれど、朝にしては少しだけ足音が早い。言葉の切れ方がわずかに硬い。侍従が一度、扉の前で立ち止まり、何も告げずに去っていった。ほんの小さな違いだ。だが、王城に長くいれば、そういう違いほど胸に引っかかる。大きな異変は、たいてい小さなずれの顔をして先に現れる。


アスリン様は気づいておられなかった。

いや、気づいても、たぶん気に留めなかっただろう。


それでよいのだ、とも思う。あの方がいちいち不穏を嗅ぎ取るようになってしまったら、それはそれで悲しい。だが、だからこそ、せめて私のような者が耳を澄ませていなければならぬのだとも思う。あの方が世界をそのまま信じて歩けるよう、先に石を拾って道の端へ寄せるのが、私どもの役目なのだ。


朝食の前、包み籠の中身を私自身でもう一度確かめた。焼き菓子は崩れていない。布の端も揃っている。渡し先の順も頭に入っている。庭番のヨゼフ、書庫の先生、今日は廊下当番の若い女官にもひとつ。多すぎれば気を遣わせる。少なすぎればアスリン様が寂しがる。こういう加減は、侍女の役目だ。お気持ちそのものはまっすぐでよい。まっすぐなものがきちんと届くよう、角を整えるのが私の仕事である。


朝食の席そのものは、いつもどおり静かに過ぎた。アスリン様はきちんとしていようとなさる。背筋を伸ばし、食器を丁寧に持ち、なるべく上手に振る舞おうとなさる。その健気さを見ていると、それだけで胸があたたかくなる。だが今日は、そのあたたかさの下に、薄い氷が一枚ある気がした。たぶん、私だけが勝手に感じているのだろう。それでも、気づいてしまった以上、なかったことにはできない。


食事が終わるころには、アスリン様の目に映るものは皆、少し明るくなっていた。花も、銀盆も、鏡に映るドレスの色も、あの方の目にかかると、みな今日という日の贈りもののようになる。その見え方が美しいと思う。美しいからこそ、壊したくないとも思う。壊れる時は、案外、音もなく壊れるものだと知っているからなおさらだ。


窓辺でアスリン様が足を止め、「今日はよいお天気です」と庭を見下ろしておっしゃった。ただ天気を述べただけのはずなのに、その声音はまるで世界そのものを疑っていない人のように聞こえた。


「はい、とても」


そう返すと、アスリン様は振り返って、眩しいほど素直な目で笑われた。


「では、ミーシャ。今日は何もかも、うまくいきそうですね」


その言葉に、私は一瞬だけ答えに詰まった。

そうであってほしい。心からそう思う。


けれど、うまくいくよう祈るだけでは足りない日が、この先きっと来る。祈りではなく、気づきと手当てと沈黙で守らねばならぬ朝がある。たぶん、そういう日は前触れをひどく小さな形で寄こす。


それでも、私が返すべき言葉は決まっていた。


「アスリン様がそうおっしゃる日は、たいてい本当にそうなります」


嘘ではない。少なくとも、そうあってほしいという私の願いが、そのまま言葉になっただけだ。


「まあ。それでは、わたしは便利ですね」

「たいへん便利で、たいへん愛らしゅうございます」


そう申し上げると、アスリン様は少しだけ頬を染められた。そのお顔があまりに無防備で、私は胸の奥でそっと願う。この方が、もうしばらくは何も知らずに、こうして笑っていられますようにと。


「では、参りましょうか」


アスリン様がそうおっしゃると、私は肩掛けを整え、包み籠の位置を見直し、その半歩うしろへ控えた。幼い頃から何度も繰り返してきた仕草だった。変わらぬ朝だ。変わらぬ支度だ。変わらぬ笑顔だ。


だからこそ、ふとした拍子に胸が騒ぐ。私はそれをまだ言葉にはしなかった。言葉にすれば、形を持ってしまう気がした。


ただ、いつもどおりアスリン様に付き従いながら、胸の内でひとつだけ念じた。

どうか今日も、この方が曇った顔をなさることなく、一日を終えられますように。



お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

次回、アレン・アルフォードが第二王女と出会う。

ただ通り過ぎるだけの朝の回廊。近衛として礼を尽くせば、それで終わるはずだった。けれど、アスリンは彼の名を覚え、思いがけない呼び方をする。その一言で、アレンの平穏は早くも崩れる。



次回の投稿は来週火曜日21時頃の予定です。


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