第2話 幸せな朝(アスリン視点)
第二王女アスリンは、朝の花が少し開いただけで笑みをこぼす。誰かに幸せを分けたくなるほど、世界をまっすぐ信じている姫。その無垢な一日は、まだ穏やかに始まっていた。
朝、目が覚めたとき、私はたいてい、すぐには起き上がらない。薄い天蓋の向こうにぼんやりと差してくる光を眺めて、今日はどんな日だろうと考える。もっとも、たいていは考えるまでもなく、よい日だと思う。窓の向こうに空があり、部屋のどこかで水差しの水がひやりと冷えていて、廊下の向こうではもう誰かが起きて動いている。その気配を感じるだけで、胸の中へあたたかいものが満ちてくるからだ。朝というものは、目には見えないやわらかな布みたいに、眠っていたものをひとつずつ起こしていくのだと、私は時々思う。
その朝、目を開けたとき最初に見えたのは、寝台脇の小卓に置かれた白い花だった。昨日より少しだけ、ひらいているように見えた。そう思うと、たしかめずにはいられない。毛布の端を押しのけて身を起こし、まだ少しあたたかい寝台を離れ、そろそろと小卓へ近づいた。
花瓶を持ち上げて覗き込むと、やっぱり昨日より花弁がやわらかく開いている。たったそれだけのことなのに、なんだか自分だけが朝の秘密を先に見つけたような気がして、思わず笑ってしまった。誰にも見えない小さな鈴が、胸の奥でちりんと鳴ったみたいだった。
「ミーシャ、見てください。咲きかけています」
呼ぶと、衣装棚の前にいたミーシャがすぐに振り向いた。あの人はいつも、私が何かを見つける前から、もう気づいていたようなお顔をする。
「ええ、きれいに開きましたね」
「昨日より、ちゃんと朝らしいです」
「アスリン様がそうおっしゃるなら、今日はよい朝でございます」
そう言われると、ほんとうにそうなった気がして、また笑った。もともとよい朝だったのだろうけれど、ミーシャが言うと、よいことがちゃんと形になる。まだ名前のない嬉しさに、そっと金の縁取りがつくみたいに。
支度のあいだ、私はずっと落ち着かなかった。落ち着かないといっても、嫌な意味ではない。胸の中に小さな鳥がいて、ぱたぱたと羽ばたいているような落ち着かなさだ。今日は誰に会うだろう、どんな話をするだろう、庭の花はどれくらい咲いただろう、そんなことばかり考えてしまう。
髪を梳かれているあいだ、鏡の向こうの窓から見える空があんまり明るくて、私は何度もそちらを見たくなった。けれど、よそ見をするとミーシャが困るから、なるべくじっとしている。王女としてきちんとしなければならないことはたくさんある。背筋を伸ばすこと。髪を整えるあいだは動かないこと。衣の袖を雑に扱わないこと。そういうことを、私は毎日少しずつ覚えてきた。
それでも、時々は気が先に窓の外へ飛んでいってしまう。
「どうかなさいましたか」
鏡越しにミーシャが尋ねたので、私は少し考えてから言った。
「いいえ。ただ、今日は誰かに何か差し上げたくなる日だなと思って」
ミーシャは鏡の向こうで目を細めた。
「それはまた、アスリン様らしいことでございます」
そう言われて、自分でも可笑しくなった。けれど本当にそうだったのだ。朝の光がよくて、花がきれいで、空が高いと、それだけで何かを分けたくなる。ひとりで持っているにはもったいない気がする。嬉しい気持ちは、結び目のゆるいリボンみたいなものだ。胸の中にしまっておこうとしても、するりとほどけて、誰かのほうへ流れていってしまう。
だから私は、あとで小さなお菓子を包んでもらおうと思った。庭番のヨゼフにも、書庫の先生にも、いつも廊下で会う年若い女官にも。ほんの少しずつでいい。大きな贈りものではなくていい。ただ、今日の朝がきれいだということを、少しだけ分けるみたいに。
「その結び方は、また贈りものの時のですね」
ハンカチの端を揃えている私の手元を見て、ミーシャがそう言った。
「分かりますか」
「分かりますとも。アスリン様は、人に差し上げる時だけ、そんなふうに端をきっちり揃えられます」
私は少し驚いて、それから照れくさくなった。自分では知らないうちにしていたことを、ミーシャはたいてい見つけてしまう。
「知らないうちにしていました」
「ええ。知らないうちにおやさしいのが、いちばん困るのでございます」
「困るのですか」
「皆が断れなくなりますから」
そんなふうに言われると、私は声を立てて笑いそうになって、あわてて口元を押さえた。朝から大笑いするのは行儀が悪いけれど、嬉しい気持ちは止められない。
支度が終わって鏡を見ると、薄青のドレスが朝の光によく合っていた。髪もきれいに整えられていて、鏡の中の私はちゃんと王女らしく見えた。そういう姿を見ると、胸の中の羽ばたきは少しだけ静かになる。きっと今日も大丈夫だと思える。ちゃんと結ばれたリボンのように、一日がほどけず始まってくれる気がする。
朝食の席では、きちんとしていようと努めた。姿勢を正し、食器を丁寧に持ち、パンもちいさくちぎる。蜂蜜を少し多く取ってしまって、あ、と思ったけれど、それでも今朝のパンはやわらかく、ミルクは温かく、窓から差し込む光はまっすぐで、何もかもがちょうどよかった。
食事が終わるころには、部屋の中のものがどれも少しずつ明るく見えた。窓辺の花も、磨かれた銀盆も、鏡に映るドレスの色も、みんな今日のためにそこにあるように思える。王城で暮らしていると、当たり前のものが多すぎて見落としてしまいそうになるけれど、私はできるだけ見落としたくなかった。きれいなものも、やさしい人も、おいしいお菓子も、朝の光も、ミーシャの声も、見つけたらちゃんと嬉しくなりたかった。見つけた嬉しさを、見つけたまま通り過ぎさせたくなかった。
窓辺で足を止めると、庭の上には明るい空が広がっていた。花壇の色は昨日よりもはっきりして見える。枝先の若葉も、噴水の水も、遠くを歩く人の影さえ、みんな朝の光の中でやわらかく見えた。光は庭に降りているというより、庭じゅうのものが内側から少しずつ明るくなっているみたいだった。
「今日はよいお天気です」
そう言うと、後ろでミーシャが「はい、とても」と答えた。その声があまりにもやさしくて、私は振り返った。
「では、ミーシャ。今日は何もかも、うまくいきそうですね」
そう言うと、あの人は少しだけ考えるような顔をして、それから笑った。
「アスリン様がそうおっしゃる日は、たいてい本当にそうなります」
「まあ。それでは、わたしは便利ですね」
「たいへん便利で、たいへん愛らしゅうございます」
その言い方がくすぐったくて、少しだけ頬が熱くなった。けれど、悪い気はまったくしない。むしろ胸の奥がふくらむようで、今すぐ廊下へ出て、今日会う人みんなに笑いかけたくなった。
「では、参りましょうか」
私がそう言うと、ミーシャが肩掛けを整え、扉の方へ一歩引いた。幼い頃から何度も見てきた仕草なのに、今日もやっぱり頼もしくて、やさしい。軽く息を吸って、花の匂いと朝の光と部屋のぬくもりを胸いっぱいに入れる。
それから私は、小さなお菓子を包んだ籠を抱えて、幸せな気持ちのまま部屋を出た。胸の中の鳥が、静かに羽をたたんだ。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回、同じ朝がまったく別の色を帯びる。
アスリンにとっては、ただ幸せな朝である。だが半歩後ろで仕えるミーシャには、その明るさがどれほど危うく、どれほど人目を引くものかが見えていた。姫が知らない王城の気配が、静かに動き始める。
次回の投稿は来週火曜日21時頃の予定です。
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