第1話 宰相は思案する(宰相視点)
北の帝国の圧力が静かに迫る中、宰相は王国を守るため、同盟と婚姻という冷たい策を思案する。まだ誰も知らぬところで、一人の王女の名が政略の盤上に置かれようとしていた。
夕刻の執務室は静かだった。窓の外では、冬を越えたばかりの薄い陽が西塔の石壁にかかっている。その冷えた色は、机上に広げられた地図の国境線の上にも落ちていた。
儂は地図から目を離さず、肘掛けに置いた指先で、ほとんど無意識のまま木を軽く叩いていた。
整然と並べられた報告書の束。封を切られたばかりの北境からの急報。交易路の収支を記した帳簿。どれも別々の顔をしていながら、最後には一つの結論へ収斂しつつあった。
「いよいよ、か」
声に出してみても、言葉は少しも軽くならなかった。もはや王国単独では、北から押し寄せる圧力を受け止めきれない。
北の帝国――グランツェル帝国。その版図は、この十年で静かに、しかし確実に広がっていた。かつては雪と針葉樹と鉱山の国にすぎなかったはずが、三代前の皇帝の代から軍制を改め、諸侯の兵を束ねる仕組みを整えた。
さらに街道と河川をひとまとめの血管のように接続し、いまや北辺の小国を呑み込むだけの力を備えている。
こちらが一つの砦を補修するあいだに、あちらは二つの補給拠点を築く。こちらが関税の調整でもたつくあいだに、あちらは商人を先に送り込み、その後から兵を入れる。
露骨な侵攻ではない。だが、あれは侵攻の前段だった。
樹の根が土の下で伸びるように、気づいた時には城壁の内側にまで届いている。そういう種類の脅威だった。
「剣より厄介だな」
武ならば備えようもある。だが、商と婚と盟約で内へ入り込まれるなら、城壁の高さだけでは足りない。
我がルヴェイン王国は、決して弱い国ではない。沃野を持ち、河川を持ち、南方との交易でも利を得ている。兵もいる。騎士もいる。忠誠を誓う諸侯もいる。
だが、それらは「一国として立つには足る」というだけの話だった。「膨張を続ける帝国を北辺で抑え続けるには足る」とは限らない。
ことに問題なのは、帝国が武だけで迫ってくるのではなく、商と婚と盟約を用いて他国の内へ入り込む術を覚えたことにあった。
剣だけを警戒していれば防げる相手ではない。ゆえにこちらもまた、剣だけではない手段を用いねばならなかった。
儂は地図の右手へ視線を滑らせた。王国の東南に接し、海への出口を共にする国、エルミード公国。麦と塩と船材の集まるその国は、国土こそ大きくない。だが、港を押さえ、海運に通じ、古くから傭兵の扱いにも慣れている。
北の帝国が南へ伸びるなら、いずれは陸路と海路の双方を塞がねばならない。
その時、王国が単独で立つより、公国と通商軍事同盟を結んだ方が、抑止としての効きは明らかに大きい。交易路を共有し、補給を相互に保証し、必要とあらば兵を動かす。
相手に「二国を敵に回す」と思わせるだけでも価値がある。戦わずに済むために、戦えば不利だと思わせねばならない。それが抑止というものだった。
「結ぶべき、だろうな」
呟きは、ほとんど確認に近かった。結ぶか否かを迷っている段階は、もう過ぎている。問題は、どう結ぶかだった。
もっとも、紙の上に条文を書くだけで国が結びつくなら、為政者に苦労はない。
通商も軍事も、結局は信用によって支えられる。そして信用は、しばしば血によって補強される。
王族同士の婚姻。
古く、ありふれていて、ゆえにいまなお有効な手段だった。
盟約文に押された印璽よりも、同じ食卓につき、同じ子を持つ関係の方が、人を裏切りにくくすることがある。もちろん、それで裏切りが消えるわけではない。だが、裏切りの値段を引き上げることはできる。
では、誰を出すか。
第一王子は論外だった。王位継承権第一位の者を外へやるわけにはいかない。
第二王子は、すでに王位継承権を剥奪されており、その存在自体が王家と教会の微妙な均衡の上に立っている。外交の駒として扱うには危うすぎた。
王子女たちの年齢と立場を順に思い浮かべていく。そして最後に、避けがたく一つの名が胸中へ浮かび上がった。
第二王女アスリン殿下。
その名を心の内で呼んだだけで、執務室の冷えた空気の中に、ひどく不似合いな春の色が差し込んだ気がした。
「……よりにもよって」
吐いた息は、苦笑にも嘆息にもならなかった。
十五歳の末姫。まだ大人の衣をまといきれない年頃でありながら、身のこなしにはもう王族のしつけが行き届いている。声は高すぎず、やわらかい。誰かの名を呼ぶだけで、その場の空気が少し明るくなる。
笑うときには、まず目がほころぶ。そのあとで口元がひらく。こちらまでつられて表情を緩めてしまうような笑い方をした。
王と王妃は無論のこと、他の王子女たちも、侍女たちも、近衛たちも、厨房の者たちでさえ、あの姫にはどうしても声を和らげてしまう。
叱る時でさえ、叱責が叱責の形を保てない。彼女はそういう種類の愛され方をしていた。
幼いころ、回廊で転びそうになった見習いメイドの前に、真っ先に駆け寄ったのがアスリンだった。
まだ自分も背の低い子どもにすぎなかったのに、裾も気にせず膝をつき、相手の手を両手で包むように握って、「痛いですか」と覗き込んでいた。
その声音があまりに真剣で、あまりにまっすぐだったので、少女は泣くことも忘れてしまったほどだった。
周囲で見ていた侍女たちの方が、むしろ目を潤ませていた。
その後、王妃付きの侍女が「殿下の裾が汚れます」と慌てて進み出たのに、当の本人はまるで頓着せず、汚れた掌のまま安心したようにふわりと笑ってみせたのである。
「あの頃から、何も変わらぬ」
変わらぬまま、少しずつ大きくなった。だからこそ、余計に困るのだった。
冬の朝、厨房で焼き上がったばかりの小菓子を、彼女が自分の分だけではなく、見習い侍女や年老いた書記官にまで配って歩いていた場面も思い出された。
誰に言われたわけでもない。気まぐれといえば気まぐれなのだろう。
だが、その気まぐれが驚くほど自然で、施しの形を取らない。受け取った者が恐縮しすぎぬよう、まるで「一緒に食べてくれたら嬉しいのです」とでも言うような顔で、皿をそっと差し出すのだった。
指先はまだ幼く細い。その仕草には、妙に人を拒ませぬ愛らしさがあった。
あれでは断れる者がいない。断れば、こちらが悪いことをしたような気にさえなる。
近衛の詰所でも、彼女の名はときおり話題にのぼる。正式な警護対象の名としてではない。城内でうっかり迷った子猫を追って裏庭まで出てしまい、護衛を慌てさせたとか、礼拝堂で長く祈っていた老女に自分の椅子を譲って、逆に司祭を困らせたとか、そんな小さな逸話としてである。
ある若い近衛は、雨上がりの中庭で濡れた小鳥を見つけた彼女が、両手でそっと包むように持ち上げて侍女を呼んでいたと語っていた。
別の者は、夜番の兵に「寒くありませんか」と真顔で尋ねられ、その一言だけで一晩の疲れが軽くなったと笑っていた。
笑い話のように語られながら、その実、誰もがどこか誇らしげだった。王城にいる者たちは皆、自分があの姫を知っていることを、ひそかに誇りにしている。
王族だからではない。アスリン殿下だからだ。儂は目を閉じた。
外交の駒として見れば、年齢は若い。むしろ若いからこそ、相手国の王子と結び、長く関係を保つには向いているとも言える。末子であり、継承順位の上でも中心にはいない。
立場だけを数えるなら、あまりにも都合がよかった。都合がよすぎるほどに。
「最適、ではある」
口にした途端、その言葉の冷たさが自分に返ってきた。だが、国のために最も有効な一手が、最も痛ましい一手であることもある。
窓の外で、夕鐘が遠く鳴った。儂は再び目を開き、机上の地図へ視線を戻した。グランツェル帝国、ルヴェイン王国、エルミード公国。線と色と境界で描かれたその世界の上には、涙も笑顔も記されていない。
だからこそ為政者は、記されていないものまで勘定に入れたうえで、なお選ばねばならない。
『アスリン王女』
胸中に浮かんだその名を、儂はまだ紙の上には書かなかった。書いてしまえば、思案は提案となる。提案はやがて手続きとなり、手続きは人の運命を押し流す。
「まだだ」
その二語だけを、儂は低く落とした。
だが、書かずに済む時間も、もう長くは残されていない。北では帝国が黙々と力を蓄え、東南では同盟の機が熟しつつある。遅れれば、選べるはずだった手が、選べぬ一手へ変わる。
静まり返った執務室で、儂はしばらく身じろぎもせず座っていた。
その脳裏には、王城の誰からも愛される末姫が、春の光の中で振り返り、何の疑いもなく微笑む姿があった。
軽やかな足取り。あどけなさの残る頬。人を疑うことをまだ知らぬような、澄んだまなざし。
「すまぬな」
誰に向けたものとも知れぬ独り言が、静かな執務室に落ちた。
その時、不意に扉の向こうで控えめなノックの音がした。儂は目を開いた。
「閣下、アレン・アルフォードが参りました」
ちょうどよい、と一度だけ思う。まだ紙には書いていない。だが、思案だけで済ませる時間は、もう尽きる。王家へ持ち込む前に、まずあれに量らせるべきだった。情で曇るか、理で切るか。それとも、そのどちらでもないものを拾うか。
「通せ」
短く告げる。扉が開く、その直前まで。儂の胸にはなお、春の光の中で振り返るあの末姫の姿が、消えずに残っていた。
舞台は冷えた執務室から、第二王女アスリンの朝へ移る。
彼女は、自分の名が政略の秤に載せられかけていることなど知らない。一輪の花に笑い、誰かへ小さな幸せを分けようとする姫。そのやわらかな朝こそ、やがて守られるべきものの正体となる。




