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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第90話 王朝秘史⑧ 外郡書簡抄  

王朝秘史は、若き頃に異端審問の場にいた老司祭の告悔を通じて異端審問の夜を振り返る。沈黙、保身、信仰、そして逆響の根が語られる。



~當時若き司教某記~

王曆某年、冬。王城北隅の小聖堂を裁壇とす。半円の座を設け、枢機卿ら列坐し、中央に老枢機卿在り。第二王子フェリクス、長榻ちょうとうに就かず、黙然もくぜんとして立つ。堂はもと祈祷の器なるに、この夜、声を失ひ、沈黙のみ満ちて一幅の布のごとし。


問答、我ら若き者の耳には長からず。老枢機卿、異端の名を掲げて責め、王子、数語を置くのみ。曰く「名はしるべにすぎず」。曰く「祈りは届かず」。また王子、教会の言葉を「民を導く術」と呼べり。老枢機卿、その語を卑しめずして返せり――「術ゆゑにこそ救ひうる夜もある」と。


その返しは強かりき。然れども更に、老枢機卿は一瞬だけ影を落とせり。聖なることばすら、汚れたる手に渡れば濁り、「赦す」「清し」「異端」の語とて、盾とも刃ともなり得る、と。後に人のいふ「逆響」の端緒、既に此の夜に在りき。


つひに議決し、異端の名を宣す。宣詞の初め、老枢機卿、舌先に砂を噛むがごとく一語遅れたり。数珠を握る指、わづかに強まり、瞳の奥に冬の夜ひとつ過ぎしやに見ゆ――戸口の灯、油尽きかけて揺れ、祈りの文を待つ指先の冷え。扉閉ぢ、堂中寂然たり。


後年、外郡に在りし司祭某、この夜を起こりとして、終身抱へし疑ひを告悔書として記す。曰く――


われ、若き日より沈黙を徳と教へられたり。沈黙は祈りのにして、神のしるしを待つ器なりと。ゆゑに我は沈黙を守り、沈黙の中に神を置けり。


然れども彼の夜、堂の沈黙は徳にあらず。先づ盾として働けり。我ら若き司祭、言葉を採る耳より先に、身を処す耳を立てたり。王子の言を、正確に写し得ず。写し得ぬこと自体、我が罪なり。


沈黙が祈りの器より先に、保身の器となる――この転びを、我はその場で知りたり。後に学寮の者はこれを「逆響」と名づけしが、名を得る前に、我が身は既にそれを為しつつありき。


その時、我が胸に生まれし問いは、大いなる神学の論にあらず。小さき恥の問いなり。


なぜ我は祈りの場にて、祈りより先に身の処し方を思へり。

なぜ我は真偽を量る前に、己が将来を量へり。


我、信に似たる保身が信の衣を着るを知れり。外より見分け難く、内よりも見分け難し。この見分け難さこそ、我が長き苦しみの根なり。


王子の言の肝は、ただ一点に収斂せり。――「神は恒に黙す」。

我はこの一句を、その場では退けたり。退けざるを得ざりき。退けねば秩序は揺らぐ。秩序揺らげば、弱き者の寄るよるべも揺らぐ。教会は弱きを支ふる器なり――さう我は信じたればなり。


然れども扉閉ぢた後の寂然の中で、問いは死せず、ただ我の内へ移れり。


「神はなぜ黙す」――これ、我が終身の問いとなれり。


教会はこの問いに、種々の辞を与へたり。或いは「試みによって黙す」と説き、或いは「信を鍛ふるために黙す」と言ふ。或いは「時満ちて徴を示したまふ」と言ひ、或いは「我らの耳が穢れ、声を聞かぬ」と言へり。


受け取らば、いづれも美し。然れども夜に一人坐し、病の床に祈りを置き、死の枕元にて手を握るとき、我はいつも同じ所へ戻れり。


「黙す神とは、救ふ神か。」


我は司祭として、多くの叫びを聴けり。子を失ひし母の叫び。飢ゑたる者のうめき。戦の帰りに眠れぬ兵の沈黙。罪を告げる者の震へ。彼らは言ふ、「神よ」と。


然れども答へは来ぬ。来ぬ答へを前にして、我は教会の句を繰り返す。「神は試みによって黙す」。


その句を口にするたび、我が舌は乾けり。乾きは恐れの徴なり。然れども我は、その恐れを「敬虔」と呼び替へ、己を慰めたり。ここに我は知れり。教会の辞は、たしかに夜を越すための術なり。世界を動かさずとも、人を今宵へ繋ぎとめ得る。


されど同じ術が、術者の胸をも固め、己の保身を「信」に似せて護ることあり。術は救ひの杖にもなり、己を免す盾にもなる。――我が沈黙は、しばしばその盾の沈黙なりき。


ここに我が告悔あり。


我は神の沈黙の意味を問ひ続けたり。問ひ続けながら、教会の答へに納得し得ず。納得し得ぬまま、司祭として祈りを手放さず。手放さざることをもって、己が信と呼びたり。


実のところ、我は信じ切れず、疑ひ切れず、ただあはひに生きたり。


若き日、異端の名にて問ひを終はらせしとき、我は安堵を得たり。安堵はぬくし。温きものは腐り易し。安堵はのち、夜ごと胸を重くせり。


我は時折、王子の一句を思ひ出す。――「神は恒に黙す」。

もし然らば、教会の語る「慈悲」は何処に在る。もし然らば、祈りとは何を為す。もし然らば、我が職とは何を守る。


我はこの「もし」を語らず、己が内に封じ、祈祷文の間に埋め、説教の合間に押し込み、署名の筆圧に隠してきたり。


そして老いのころ、学寮の噂として一語を聞けり。――「再審」。

その語は、彼の夜には口にされ得ざりし。口にすれば秩序揺らぐと恐れられし。されど今、再審は「慈悲」とも「争ひ」とも呼ばれ、門を閉づる者と開かんとする者とが、同じ神の名を掲げて争ふといふ。


我は思へり。もし再審が、その夜ひそかに許されてゐたなら、我が問いは、己が内へ移らずに済みしや。――然れどもまた、再審が「終りなき訴へ」となれば、祈りの座は訴への座に堕つる、と老いたる者が恐るる理も、我は分かりたり。


答へは定まらず。定まらずして、なお問ふ。問へども解けず。解けずして、なお祈る。


我は遂に、答へを出し得ざるまま、ここに白状す。


「神の沈黙の意味を、我は知らず。」


これ、我が罪なり。司祭にして知らず、しかも知らぬことを、長く言葉で覆ひたり。弱きを支ふる器を守らんとして、問いを殺し、問いを己が内へ移し、己が内を荒らせり。


然れども、もし我が一つだけ真に持ち得たるものありとせば、それは「知らぬ」を知る痛みなり。痛みは虚飾を剥ぐ。虚飾剥げなば、祈りは少しだけ真に近づく。――さう願ひて筆を執れり。


謹んで此の書を収む。のちこれを閲する者あらば、いたづらに断罪の証とせず、己が沈黙のたちを量る一秤ひとはかりとせよ。


我が沈黙は、徳なりしか、怖れなりしか。――我は、いまも定め得ず。


史官按ずるに、此の告悔書、審問の勝敗を記すを本意とせず。むしろ「神の沈黙」をめぐる一司祭の終身の問いと、教会の辞を「術」として用ゐねば夜を越え得ぬ現実と、その術がまた己へ返りて盾となる(逆響する)苦しみとを、素朴なる筆致にて遺せり。


後に四門条立ちて、比例・暫定・再審・救済の名、条として刻まれたりといへども、条は痛みを消さず。むしろ痛みがあればこそ、条は必要となる。然れども沈黙の由るところは一つに定まらず。徳とも、怖れとも、またその交はりとも見ゆ。――此れ亦、沈黙辨の名の由るところなり。



これで「近衛の本領 第二部 第二王子編」は終りです。

次の2話は補遺として「神韻魔術論」と「神韻魔術論考」です。

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