第89話 西塔を出る夜(アレン視点)
雨の夜、アレンは第二王子付きの任を解かれる。西塔を去る直前、彼は雨の日の記憶に引っかかりを覚える。
王都では雨が降り続いていた。
細い雨は昼も夜も途切れることなく落ち、石畳は常に濡れたままだ。屋根の縁からは水が絶えず滴り、干上がっていた井戸にも水が戻っている。干ばつのころには空を見上げて祈っていた者たちも、今では雨そのものにはほとんど驚かなくなっていた。ただ長く続く雨音だけが、城の石壁の奥へ静かに染み込んでくる。
そんな午後、俺は宰相閣下に呼び出された。
宰相府の部屋はいつも通り整然としていた。机の上には書類が几帳面に並び、窓の外の雨さえ遠い出来事のように感じられる。宰相閣下は一枚の書類を閉じると、こちらへ視線を向けた。
「輔弼近衛アレン」
低い声で、簡潔に言う。
「第二王子付きの任を解く」
言葉は短かったが、その意味が頭の中に落ちるまで少し時間がかかった。
「……私の任を、ですか」
「そうだ」
宰相閣下はそれ以上説明する様子もなく、静かに続けた。
「殿下はもう大丈夫だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。
(大丈夫って……なにがだよ)
だが、それを口に出すわけにもいかない。宰相閣下はすでに次の書類へ目を落としており、この話は終わったという空気だった。
俺はしばらく立っていたが、結局は頭を下げるしかない。
「……承知しました」
部屋を出ると、廊下の窓の外で雨が少し強くなっていた。
西塔へ戻る途中、何度か足が止まりかけた。別に急ぐ理由もない。だが戻らないわけにもいかない。結局いつもの通り石段を上がり、重い扉を押して中へ入った。
西塔の中は相変わらず静かだった。
殿下の執務室の扉を叩くと、すぐに声が返ってくる。
「入れ」
扉を開けると、殿下は机に向かったまま書類に目を落としていた。窓の外の雨は見えているはずだが、殿下は顔を上げることもなく、ただペンを走らせている。
俺はしばらく立っていたが、やがて口を開いた。
「殿下」
ペン先が止まる。
「……傍付きの任を解かれました。今日でお別れです」
殿下はそこでようやく顔を上げた。
驚いた様子も、考え込む様子もない。ただこちらを見て、短く言った。
「そうか」
それだけだった。
しばらく沈黙が続いたが、殿下はすぐに視線を机へ戻し、再びペンを取った。紙の上でペン先が動き出す音が、部屋の中に静かに戻ってくる。
(……まあ、あの人らしいよな)
俺は小さく息を吐き、軽く頭を下げて部屋を出た。
自分の部屋へ戻ると、荷物はたいして多くない。着替えと書類をいくつかまとめ、剣を鞘に納めれば、それでほとんど終わりだった。窓の外では相変わらず雨が降り続いている。
気づけば夜になっていた。
荷物を持って階段を降りると、玄関の灯りの下にアリシアが立っていた。いつもの落ち着いた顔で、静かにこちらを見ている。
「お世話になりました」
俺がそう言うと、彼女は軽く頭を下げた。
「お元気で」
それだけのやり取りだった。
特別な言葉も、別れを惜しむような気配もない。ただいつも通りの調子で、淡々とそう言っただけだ。
(……まあ、この人はそういう人だ)
俺は苦笑しながら扉を開けた。外では雨が静かに降り続いている。石段には薄く水が溜まり、灯りを受けて揺れていた。
外へ出て、二、三歩進んだところで、足元の水を踏んだ靴が小さく音を立てた。跳ねた水が灯りを散らした瞬間、俺はふと足を止めた。
何かが頭の奥に引っ掛かった。
雨の夜。
あの日の夕方。
殿下とアリシアが馬車で出かけたことを、突然思い出した。
(……そういえば)
俺は振り返る。扉のところに、まだアリシアが立っていた。
「……アリシアさん」
彼女は静かに顔を上げた。
「はい?」
俺は少し迷ったが、それでも口を開いた。
「雨が降った日の夕方……殿下と出かけましたよね」
アリシアは瞬きもせずに俺を見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「輔弼近衛殿……」
「はい」
「その件は、すでに済んだことでございます……」
それ以上の言葉は続かなかった。
俺は何も言えず、ただ黙って立っていた。やがて小さく息を吐き、視線を西塔へ向ける。
塔の上の窓には、いつものように灯りが灯っていた。殿下の執務室だ。あの人は今も机に向かい、井戸の記録でも読んでいるのだろう。
(……あの人は、やっぱり変わらないな)
俺はその灯りをしばらく見つめてから、小さく苦笑した。
ほんの短い時間だったが、確かにあの塔で働いていたのだと、ようやく実感が湧いた。
雨は変わらず降り続いている。
その中で俺は背を向け、西塔を後にした。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
王朝秘史は後年の司祭の告悔へ移る。異端審問の夜、沈黙は祈りの器だったのか、それとも保身の盾だったのか。神の沈黙をめぐる問いは、ひとりの司祭の生涯を貫いていく。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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