第87話 静まりゆく標(アレン視点)
第二王子の名が政治から切り離され、城門前の群衆は散り始める。だが水は戻らず、空にはまだ雲がない。
第二王子殿下の王位継承権剥奪が城下に公布されてから、一週間が経った。
王城の門前に集まっていた民の数は、目に見えて減っていた。
広場の石畳にはまだ人影が残り、通りのあちらこちらで同じ話が繰り返されてもいるのだが、数日前のように、どこからどこまでが群れなのか分からないほど人が溜まり、同じ方角へ押し寄せるような気配はもうない。
立ち止まって話している者はいても、その話は長く続かず、やがて誰かが肩をすくめ、別の誰かが空を見上げ、それきり散っていく。
あれほど城門へ向いていた視線が、今はまたそれぞれの井戸や店先や家路へ戻りつつあった。
城壁の上からその様子を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
(……静かになったな)
干ばつが終わったわけではない。
井戸の水が増えたわけでもなければ、空に雲が現れたわけでもない。
何も解決していない。
それでも民は減った。いや、正確には怒りの向く先が見えなくなったのだろう。
あれほど第二王子殿下の名を口にしていた連中も、今ではその名を口にしたあとで妙な顔をする。
王位継承権を剥奪された人間に向かって、なお同じ熱で石を投げるには、少しばかり理屈が足りないのだ。
(結局、欲しかったのは水じゃなくて標だったのかもしれんな)
そう思ってから、自分で少し嫌な顔になった。
水が要らないはずがない。誰だって喉は渇くし、畑も干上がるし、井戸が細れば不安にもなる。
喉の渇きは癒えても、この嫌な後味は消えそうにない
だが、その不安を抱えたまま立っているのは苦しい。
だから民は、そこへ名札を貼りたがる。
あの人間のせいだ、あの名を切り離せば少しはましになる、と。
理屈としてはずいぶん乱暴だが、群れというのはたいていそういうものだ。
城門の詰所を離れ、西塔へ戻るために石段を上がり始めると、乾いた風が頬を撫でていった。
空は相変わらず高く、雲一つない。
静まったと言っても、空まで静まったわけではないのだと、その空だけが改めて言っているようだった。
西塔へ近づくにつれ、人の気配は薄くなる。
回廊はひっそりとしていて、壁の向こうの街のざわめきもほとんど届かない。
ここへ来ると、同じ城の中とは思えないほど時間の流れが違う。
門前ではたしかに二日が過ぎ、民の怒りはほどけ始めているというのに、この塔だけは何も変わらず、干ばつも噂も政治も、自分には直接関わらぬことだと言わんばかりに静まり返っていた。
執務室の扉を叩くと、中から殿下の声がした。
入ると、第二王子殿下は机に向かったまま紙を繰っていた。
卓上には相変わらず帳面と記録紙が広がり、井戸の深さ、水量の変化、各地の位置関係らしい数字や線が余白まで埋まっている。
光の入り方まで二日前と変わらない気がして、思わず苦笑しそうになった。
(……ほんと、都合のいい静けさだよな)
「戻りました」
俺がそう言うと、殿下は手を止めたものの、すぐには顔を上げなかった。
俺は少し待ったが、殿下は何も言わない。
「城門前の民は減りました」
そこで殿下が顔を上げた。
驚きも安堵もない。ただ、聞いた事実を頭の中のどこかへ移し替えるような、あのいつもの目だった。
「そうか」
それだけだった。
殿下はすぐにまた紙へ視線を落とす。
(……あんたは本当に、それで終わるんだな)
「広場に残っている者もおりますが、数日前ほどではありません。
立ち止まって話してはおりますが、前のように城門へ押し寄せて来る気配はなくなりました」
「そうか」
「王位継承権を剥奪したことが効いたのでしょう」
ようやく殿下の手が止まった。
だがこちらを見るでもなく、紙の上の数字を指先でなぞったまま言う。
「標が消えたからだ」
短い言葉だったが、妙に腑に落ちた。
「標、ですか」
「彼らは理由を欲していた」
殿下は言った。
「理由がなければ、渇きも不作も、ただ耐えるしかない。
だが名があれば、怒ることができる」
その声には軽蔑も同情もない。
ただ事実を机の上に置くような言い方だった。
「そして、その名が切り離されたから静まった」
「……そういうものですかね」
「そういうものだろう」
殿下は淡々と言い、また紙へ視線を戻した。
俺はしばらく立ったまま、その横顔を見ていた。
(城の下ではあれだけ民が騒ぎ、陛下は王家の一人を切り離し、宰相閣下は言葉を選び、教会までそれを見守った。
それでも当の本人は、机の上の数字の方が大事らしい)
(……いや、たぶん大事なんじゃなくて、こっちが本題なんだろうな。この人にとっては)
「まだ続けるんですか」
「当然だ」
殿下は言った。
「水は戻っていない」
まるで、それ以上説明することなどないと言わんばかりだった。
(こっちは王位継承権だの群衆だのって大騒ぎしてたが、あんたにとっては結局そこか)
「城門前は静まりました」
俺は改めて言った。
「そうか」
殿下はそれだけ答え、新しい紙を一枚引き寄せて、細い文字で何かを書きつけ始めた。
その音は小さく、規則正しく、窓の外の風よりも静かだった。
俺はしばらくそこに立っていたが、やがて一礼し、部屋の隅へ下がった。
西塔の中は相変わらず静かで、城門前のざわめきも、もうここまでは届いてこない。
二日前にはあれほど確かだった民の熱が、石壁をいくつも隔てただけで、まるで別の季節の出来事のように遠くなっている。
それでも、静まったのだと思った。
干ばつが終わったわけでも、水が戻ったわけでもない。
ただ怒りだけが行き場を失い、広場から少しずつ散っていったのだ。
殿下は机に向かったまま、もうこちらを見ない。
紙の上に走るペン先だけが、乾いた午後の光の中でかすかに音を立てていた。
俺はふと窓の外を見上げた。
空は相変わらず雲一つなく、ここ数日と同じ乾いた青が広がっている。
(……ほんと、降りそうな気配もないな)
その晩、王都に久しぶりの雨が降った。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
王都に雨が降り続く。中央聖堂では祈りが届いたと語られ、市場では王子の魔術など要らなかったと笑われる。怒りも祈りも都合よく形を変え、すべては同じ雨の下で祝祭めいていく。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【皆様へのお願い】
面白い/続きが気になると思っていただけたら、
『ブックマーク』、『☆☆☆☆☆』、『感想』、『誤字報告』をいただけると大変励みになります。
(ついでにとても喜びます)
皆さまの声援だけが心の支えです。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★




