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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第86話 切り離される名(宰相視点)

宰相は、城下で聞いた小さな囁きが王宮へ届くまでを見ていた。王家の名を切り離す決定は、静かに下される。



王宮の執務室の窓は厚い石壁の奥にあり、普段であれば外の音はほとんど届かない。だがその日ばかりは違っていた。遠くから押し寄せるざわめきが、石の奥を震わせるようにして低く伝わってくる。怒号ではない。だが、同じ方角へ向けられた何百もの声が重なっていると分かる響きだった。


儂は窓辺に立ち、その音に耳を澄ませていた。


城下の噂というものは、いつも静かに始まる。はじめは誰のものでもない囁きに過ぎない。だが、誰かがそれを口にし、別の誰かがそれを繰り返すうちに、やがて一つの方向を持つ。


(あの時も、そうであった)


数日前、城下の通りで耳にした声が脳裏に浮かぶ。


干ばつは王子の魔術のせいだ、と誰かが言った。

それを聞いた別の男が、半ば笑いながら「そんなことがあるものか」と言った。

だがその場にいた三人目は、笑わなかった。


「だが、あの王子ならやりかねん」


その一言で、空気が変わった。


囁きはそこで終わらなかった。

誰かがもう一度同じ名を口にした。

そして次の者が、少し声を低くして同じ名を繰り返した。


その瞬間、儂は悟った。


噂は、もう止まらぬ。


背後で陛下の声がした。


「城門前か」


儂は振り返り、広場に民が集まりつつあることを告げた。まだ暴動ではない。だが、放置すればやがて一つの勢いになる。その時、群衆は自分たちの怒りに形を与える。


「民は理由を求めます」


儂は静かに言った。


「そしてその理由は、やがて誰かの名に結びつく」


陛下は黙っておられた。


机の端に置かれた青銅の秤が、窓から差す光を受けて鈍く光っている。皿は微動だにしていない。その静けさが、この部屋の空気をさらに重くしていた。


「ではどうする」


陛下が言われた。


儂は一瞬だけ目を伏せた。


(あの時、城下で聞いた声)


あの囁きが、ここへ届くことは分かっていた。いや、届く前に手を打たねばならぬと理解していた。


「殿下を政治から切り離すべきかと存じます」


そう言った瞬間、自分の声が妙に静かに聞こえた。


陛下は儂を見ておられた。しばらくして、短く言われた。


「呼べ」


侍従が扉を開くと、第二王子フェリクス殿下が入って来られた。研究室からそのまま来られたような顔をしている。城門前のざわめきなど、別の世界の出来事であるかのようだった。


陛下が簡潔に状況を伝えられる。


殿下は静かに聞いていた。


そして儂の言葉を聞く。


王位継承権の剥奪。


その言葉を口にしたとき、儂は自分の胸の内を測っていた。政治家としての計算か、それともただの処置か。どちらとも言い切れないものが、胸の奥に沈んでいた。


殿下は驚かなかった。ただ一度だけ儂を見た。その目には、怒りも困惑もなかった。


「いかようにも」


軽い声だった。


その言葉を聞いた瞬間、儂は奇妙な感覚を覚えた。


群衆はこの名を求めている。

だが当の本人は、その名にまるで執着していない。


陛下はしばらく殿下を見ておられたが、やがて決定を告げられた。


『王位継承権の剥奪』

『公布は本日中』


それで会議は終わった。


殿下は一礼し、静かに部屋を出て行かれた。足音が廊下の奥へ消えていく。扉が閉まる。


部屋の中には、陛下と儂だけが残った。外のざわめきはまだ続いている。だが先ほどとは違い、今はどこか遠い音のようにも感じられた。


やがて陛下が椅子の背にもたれられた。


「……あれでよかったのか」


その声には、王としての響きがなかった。


儂は答えなかった。机の端の秤を見つめる。皿は相変わらず動いていない。王家の一人を切り離した。その事実は、静かな重さを持って部屋に沈んでいた。


「民のために、か」


陛下が言われた。


「国のためにございます」


儂はそう答えた。


しばらく沈黙が続いた。陛下は苦笑される。


「……あいつは」


言葉を探すように黙られた。


儂は短く言った。


「幸いでございました」


陛下は小さく笑われた。


「幸い、か」


その声には、どこか力の抜けた響きがあった。


やがて陛下は立ち上がられた。


「……疲れたな」


その言葉を聞いた瞬間、儂の肩からも力が抜けた。それまで張り詰めていたものが、ようやくほどけたような気がした。


外のざわめきはまだ続いている。だが、この部屋の中には先ほどまでとは違う静けさが広がっていた。


儂は机の上の秤を見た。

皿は、やはり動いていなかった。




お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

王位継承権剥奪の公布から一週間。城門前の人影は減り、怒りは行き場を失う。だが干ばつは終わっていない。第二王子はなお机に向かい、水が戻らぬ現実だけを見ている。



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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