第85話 切り離される名(アレン視点)
王の部屋に届いた民の声。宰相は、第二王子そのものが民の怒りと期待を集める標になっていると見抜く。
陛下が「民の声だ」と言ったあと、部屋の中にはしばらく言葉が続かなかった。窓の外から押し寄せてくる群衆のくぐもったざわめきだけが、厚い壁を通して低く響いている。怒号というほどではない。だが、何百もの喉が同じ方角を向いて鳴っていると分かる音だった。それは城門前の広場に留まるものではなく、この部屋の空気そのものを、ゆっくりと重くしていくように感じられた。
陛下は机に置いた手を動かさず、宰相閣下はその傍らで静かに立っている。第二王子殿下は部屋の中央に立ったままだったが、その横顔には焦りも苛立ちも見えなかった。まるで今ここで論じられているのが自分のことではなく、誰か別の人間の問題であるかのようだった。
(……そういう顔ができるのは、あんたぐらいだろうな)
陛下がゆっくりと息を吐いた。
「この声を、どう見る」
問いは宰相閣下に向けられていた。宰相閣下はすぐには答えなかった。わずかに顎を引き、外の音を聞き分けるように目を細めている。その沈黙は迷いというより、どこまでを言葉にするかを測っている沈黙に見えた。
やがて宰相閣下が口を開く。
「広場に集まっている者どもは、まだ命令を受けて動いているわけではございません。誰かに扇動されたというより、同じ噂に同じ形で押され、結果として一つの場所へ集まっているにすぎませぬ」
陛下は黙って聞いている。
「ゆえに、今はまだ鎮圧の時ではございません。兵で押し返せば、かえって噂に形を与えます。人は押し返されたときに初めて、自分たちが一つの勢いであると知るものです」
その言葉を聞きながら、俺は扉の脇で小さく息を詰めた。確かにそうだった。今の広場の連中は、怒鳴っているわけでも武器を掲げているわけでもない。ただ同じ方角を向き、同じ言葉を繰り返しながら立っているだけだ。あの曖昧な熱を兵の列で押し返せば、たしかに別の何かに変わるかもしれない。
陛下が低く問う。
「では、このまま見ていろと」
「見ているだけでは済みませぬ」
宰相閣下ははっきりと言った。
「すでに標は立っております」
その一言で、部屋の空気がさらに冷えたように感じられた。陛下は眉をわずかに動かし、殿下は何も言わず、ただ宰相閣下を見ている。
「標、とは」
「第二王子殿下にございます」
陛下は目を閉じた。宰相閣下は続ける。
「民は干ばつの理由を求めております。神の沈黙に耐えきれぬ者どもは、必ずそれを人の名に結びつける。今や広場にいる者どもにとって、殿下は祈りの届かぬ理由であり、同時に奇跡を起こしうるかもしれぬ存在として見られております。ゆえに、何もしなければ、いずれ彼らの怒りも期待も、等しく殿下へ向かいましょう」
陛下はしばらく答えなかった。
机の端に置かれた青銅の秤へ、陛下の視線が落ちる。皿は微動だにしていない。そのわずかな静止を、陛下が測るように見つめているのを、俺は扉の脇から見ていた。
殿下が初めて口を開いた。
「それで」
声は静かだった。
「貴卿は、どうするのがよいと考える」
宰相閣下はまっすぐ殿下を見た。
「殿下を、政治の場から遠ざけるべきかと存じます」
俺は思わず顔を上げた。
宰相閣下はそこで一拍置き、はっきりと言った。
「第二王子フェリクス殿下の王位継承権を剥奪なさるべきにございます」
外のざわめきが遠のいたように感じられた。実際に音が消えたわけではない。ただ、耳の奥が一度きゅっと狭まっただけだった。
(……そこまで行くのか)
陛下は顔を上げ、宰相閣下を見た。
「民を鎮めるためか」
「はい。しかし、それだけではございません」
宰相閣下の声は揺れなかった。
「継承権を保ったまま殿下を城の内に置けば、いかなる災厄が起ころうとも、民は殿下を政治の一部として見ます。干ばつに限りませぬ。疫病でも、戦でも、不作でも、王家のうちで最も理解しがたきお方に、人は理由を求めるでしょう」
殿下は何も言わない。
「殿下を政治から切り離すことは、民の怒りを逸らすためでもあり、また殿下ご自身を政治の標から外すためでもございます」
部屋は静まり返っていた。
やがて陛下が、ゆっくりと殿下を見た。
「フェリクス」
「はい」
陛下は静かに言った。
「この決定に異存はあるか」
殿下は一瞬だけ宰相閣下を見、それから陛下へ視線を戻した。その顔には、やはり特別な感情は浮かんでいない。
「いかようにも」
あまりにも軽い返事だった。
陛下はしばらく殿下を見つめていたが、やがて言った。
「よかろう。第二王子フェリクスの王位継承権を剥奪する。理由は、王国の災厄を前に王位継承の資格を自ら退き、神の御前で祈祷に専念することを望まれたためとする。公布は本日中に行え」
「はっ」
宰相閣下が深く一礼する。
命令はすぐに部屋の外へ伝えられ、人の足音が回廊の向こうへ走っていった。会議は、それで終わった。
殿下は陛下へ一礼すると、こちらへ軽く視線を向けた。
「それでは戻ろうか」
声は普段と変わらない。
「研究の続きが残っている」
(……研究? 本当にそれだけか)
俺は殿下の後ろに付き、部屋を出た。扉が静かに閉まる。
回廊を歩きながら、俺は一度だけ振り返った。重い扉の向こうに残されたのは、陛下と宰相閣下だけのはずだった。
殿下は何事もなかったように西塔へ向かって歩いている。その背中は、さっきと同じ速さで、同じ調子で遠ざかっていった。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
同じ決定を宰相の側から見る。民のためか、国のためか。王家の一人を政治から切り離したあと、部屋に残るのは勝利ではなく、動かない秤と、王の疲れた声だった。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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