第84話 輔弼近衛は巻き込まれる(アレン視点)
老枢機卿の言葉を携え、アレンは西塔へ戻る。だが第二王子は群衆よりも、なお水の記録を見つめていた。
中央聖堂を出たあと、俺はそのまま西塔へ戻った。
石段を上がり、渡り廊下を抜け、いつものように人影の少ない塔の中へ入る。城門前にはあれだけの人が集まり、街では噂と不満が膨れ上がっているというのに、西塔の空気だけは妙に変わらない。石壁は外のざわめきを遠ざけ、窓は狭く、廊下には自分の足音だけが残る。
だが、窓の外を見れば分かる。
城門前の広場に溜まる人影は、さっきよりも確実に増えていた。
(……まだ増える)
声はここまでは届かない。それでも人の数が増え続けていることは、遠目にもはっきりと分かる。
執務室の扉を叩くと、中から殿下の声がした。
入ると、第二王子殿下は机に向かったまま紙を繰っていた。卓上には帳面と記録紙が広がり、井戸の位置や深さらしい数字が余白まで埋めてある。窓から差し込む乾いた光が紙の上を白く照らしていたが、その光景は今朝見たときとほとんど変わっていなかった。
「戻りました」
俺がそう告げると、殿下は手を止めた。しかし顔を上げるまでに一拍あり、その間も視線は紙の端を追っている。人を迎えるというより、計算の途中で邪魔が入ったときの顔だった。
「会えたか」
「はい。枢機卿が、殿下のご様子をお尋ねになりました」
「それで」
「殿下は、すべきではないとお考えのようだと申し上げました」
そこで殿下はようやく顔を上げた。驚きも咎める色もない。ただ聞いた事実を頭の中のどこかへ置き直すように、短く俺を見た。
「そうか」
それだけだった。
俺は少し待った。何か続くかと思ったが、殿下はもう紙へ視線を戻している。
「それでよい、と」
俺は補うように言った。
「教会は殿下を責めてはいない、とお伝えくださいとのことです」
「分かった」
殿下はそれだけ言うと、また帳面に視線を落とした。細い指が欄外の数字を辿る。井戸の水位か、水路の距離か、俺には見てもよく分からない。ただ、城門前の群衆より、この紙の方が殿下にとって重要らしかった。
俺は小さく息を吐いた。
「民は城に向かっております」
殿下の手は止まらない。
「井戸から通りへ、通りから広場へ、人が流れております。昨日より明らかに増えています」
「そうか」
「いかがされるつもりですか」
そこで殿下の手が止まった。だが顔を上げたのは、返事をするためというより、質問の意味を確かめるためのようだった。
「何を」
「民への対応です。このまま人が増えれば、城門で済む話ではなくなります。教会ももう止められないでしょう。宰相もおそらく――」
「なにもせぬ」
声は静かだった。だが迷いはなかった。
「なにも、ですか」
「できることと、すべきことは別だ」
紙をめくる音の合間に言葉が落ちる。
「彼らが求めているのは雨ではない。命令に従う奇跡だ」
そこで殿下はようやく顔を上げた。その眼差しには苛立ちも焦りもなく、ただ自分の中で既に決着のついたことを言い渡す冷たさだけがあった。
「それに応じれば、後には何も残らぬ」
言い終えると、殿下は再び視線を紙へ戻した。
そのとき、扉が叩かれた。
「殿下」
アリシアの声だった。
殿下が入れと言うと、彼女は扉を開けて中へ入り、銀盆の上の封書を差し出した。厚手の紙に紅い封蝋が押されている。王家ではない。宰相府の印だった。
「宰相閣下より、至急のご召喚です」
殿下はそれを受け取り、表を一瞥しただけで机に置いた。
「今からか」
「はい。王宮執務室にてお待ちとのことです」
(……やはり来たか)
殿下は椅子から立ち上がった。
「来い」
「は」
俺たちは西塔を出た。
王宮へ向かう回廊は、いつもより人の気配が多かった。使いが走り、侍従が足早に行き交い、扉の前では小声のやり取りが交わされている。まだ誰も取り乱してはいないが、全員が同じ方角――城門前の広場――を意識しているのが分かる。
窓の外の空は相変わらず乾いて高く、雲一つなかった。
歩きながら、遠くから低い音が届いてきた。最初は風かと思ったが違う。人の声だった。何百もの喉が同時に鳴ると、言葉は潰れて波のような音になる。
案内された執務室の前には近衛が二人立っていた。扉が開かれると、中には王がいた。大きな机の向こう、窓を背にして座っている。その傍らに宰相が立っていた。
部屋の中は静かだった。だが壁の外から、低くくぐもった声が入り込んでくる。群衆の声だった。
王の机の端には、小さな青銅の秤が置かれていた。書簡を量るためのものだろうが、その皿は今、どちらにも傾いていなかった。
王は机に手を置いたまま、ゆっくり口を開いた。
「聞こえるか」
誰も答えなかった。答えなくても分かる音だった。
王は指先で机を軽く叩いた。
「民の声だ」
俺は扉の脇に控えながら、その言葉の重さを聞いていた。ここまで届いた以上、あれはもう街のざわめきではない。
国家の声だった。
王の机の端の秤は、わずかにも揺れていなかった。
その静けさの中で、次に交わされる言葉が何を決めるのかを、まだ誰も口にしていなかった。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
王の執務室で、群衆の声が低く響く。宰相が示すのは鎮圧ではなく、標を消す策。第二王子フェリクスの名は、民の怒りから切り離すため、王位継承の列から外される。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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