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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第83話 沈黙の側(老枢機卿視点)

アレンが去った聖堂で、老枢機卿は沈黙の意味を量る。奇跡を望む民と、奇跡を命じぬ王子。その間に祈りがある。




アレンが聖堂を出たあと、私はしばらくその場に立っていた。扉が閉じる音は大きくなかったが、あの青年の足音が石の床から消えたあと、聖堂の空気はわずかに変わったように感じられた。石壁に囲まれたこの場所では、人が一人去るだけでも空気の重さが変わることがある。とりわけ、言葉を携えて訪れた者が去ったあとは、その言葉の余韻だけが静かに残る。


私は椅子に戻らず、祭壇の前に立ったまま天井を見上げていた。中央聖堂の丸天井は高く、朝の光がまだ白く残っている。祈祷の香はすでに薄れ、代わりに石の冷たい匂いが空気の底へ戻りつつあった。


城門の前には人が集まっているという。井戸の噂が街を巡り、誰かがそれを語り、別の誰かがさらに話を膨らませる。そうして言葉は形を変えながら広がり、いつしか最初に語られたときとは違う重さを帯びて人々のあいだを流れていく。誰が最初に言い始めたのかなど、もはや誰も覚えていない。それでも言葉だけは残り、理由を求める人の心に寄り添うように広がっていく。


言葉とは奇妙なものだ。祈りとして捧げられるとき、言葉は空へ上がる。人はそれを神へ差し出し、届くかどうかも分からぬまま手放す。しかし噂として広がるとき、言葉は地を這い、人から人へと渡りながら形を変える。どちらも同じ言葉でありながら、その行き先はまったく異なる。


私は目を閉じた。城門前にいる人々は神を呼んでいるのではない。彼らが求めているのは奇跡であり、それも祈りとして差し出されるものではなく、命じれば起こるものとして望まれている奇跡である。だが神は命令に従う存在ではない。神は沈黙する。


その沈黙は、ときに人を深く苦しめる。祈っても雨は降らず、問いかけても答えは返らない。長い干ばつの年には、人は祈りの言葉を何度も繰り返す。それでも空は晴れたままで、雲一つ現れない日が続くこともある。そうした沈黙の前に立つとき、人は自分の祈りがどこへ行ったのか分からなくなる。


それでも信仰とは、その沈黙の前に立ち続けることだ。答えがないことを理由に祈りをやめるのではなく、沈黙の中にあってなお祈りを差し出すこと。それが信仰というものである。


しかし人は沈黙に耐えられない。沈黙の中で不安は膨らみ、やがて理由を探し始める。そしてその理由を、誰かの名に結びつけようとする。預言者か、聖者か、あるいは罪人か。沈黙の理由を引き受ける者を、人は必ず求める。


今回、人々が選び始めているのは王子だった。


第二王子フェリクス。


私はゆっくり息を吐いた。彼の名は以前から耳にしていた。修道院にいたこと、学問に没頭していたこと、そして突然そこを離れたこと。奇妙な人物だという噂もあれば、思索に沈む静かな王子だという話もあった。だが今日、アレンの口から聞いた言葉によって、一つだけ確かなことが見えた。


彼は沈黙を選んでいる。


もし彼が奇跡を命じるなら、人々は歓声を上げるだろう。井戸の水が湧き、空に雲が現れれば、人々はそれを神の証と呼び、王子を称えるに違いない。だがそれは信仰ではない。奇跡を命令に変えることは、祈りを支配へと変えてしまう。


そして、もし彼が沈黙を選ぶなら、人々は怒るだろう。沈黙は人を安心させるものではなく、むしろ疑いを呼び、怒りを呼び、やがて誰かを責める理由へと変わっていく。それでもなお、彼が沈黙を選ぶのであれば――


私は静かに呟いた。


「それでよい」


その言葉は聖堂の石壁に吸い込まれ、どこにも届かなかった。祈りでも命令でもない、ただの呟きである。それでも、その言葉は自分自身へ向けて置かれたもののように感じられた。


神は今日も答えない。祈りは空へ上がり、空は沈黙を保ったままである。それでも人は祈る。沈黙に答えがないことを知りながら、それでも祈りをやめない。


私は胸の前で静かに十字を切った。祭壇の前の空気は相変わらず冷たく、石の床は朝の光を淡く受けている。遠くの城門の方角から、かすかなざわめきが響いてくるような気がした。それはまだ怒号ではなく、多くの人が同じ場所へ集まりつつあるときに生まれる、低く重い気配のようなものだった。


その気配を感じながら、私はしばらく祭壇の前に立ったまま十字を切った手を下ろさずにいた。やがてゆっくりと目を閉じ、沈黙の中に身を置いた。



お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

アレンは西塔へ戻る。城門前の人影は増え続け、第二王子はなお井戸の記録を読み続ける。民の声はついに王の部屋へ届き、街のざわめきは国家の声へと変わっていく。



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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